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第10話 石と梁——修行の準備

 足が土間で止まる。

 物置き台の奥に、石が転がっている。朝日が一筋、その表面を掠めた。


「……」


 掌が石を包む。冷たい硬さが左の拳に響く。米俵の陰から麻紐が顔を出す。


 梁を見上げる。節だらけの松材が軒を支えている。高さは七尺、ちょうどいい。


 石を地面に置く。紐の端を梁に投げる。一回、二回。節に引っかかる。


 結び目を締める。右手が確かめる。しっかりしている。


 紐のもう一方の端を石に巻きつける。重みが徐々に手応えとなる。


「よし」


 左腕を差し出す。紐の輪が肘にかかる。重さが一気に肩を貫く。


 骨が軋む。筋肉が引き伸ばされる。呼吸が一瞬止まった。


 足を踏ん張る。地面が軋む。石が微かに揺れる。揺れが腕に伝わる。


 日差しが左半身を暖める。汗がこめかみを伝う。歯を食いしばる顎が痛い。


 しかし、目は梁を見据えたままだった。小川のことは、もう頭にない。


 ◆


 左腕だけが生きている。

 重みが肩から鎖骨へ、背骨へと沈む。地面を踏む足音が、石の揺れを打つ。


 小川のせせらぎが聞こえる。水の冷たさを左腕が覚えている。

 川岸の砂利が靴の下で軋む。一歩ごとに重さが移動する。


 左肘の皮が熱い。紐が食い込む。

 小石を踏み、体が傾く。瞬間、重みが左半身を引きずる。


 少年たちの声が遠くから聞こえる。彼らは川遊びに興じている。

 大石はそちらを見ない。左腕の感覚だけがすべてだ。


 川面が光る。その輝きが左目に刺さる。

 左腕の筋肉が一秒ごとに叫ぶ。重さが骨を削る。


 しかし歩みは止まらない。小川が近づく。

 左腕だけが、確かに前に進んでいる。


 ◆


 紐の端を梁に投げた。麻が風を切る。石が宙に浮く。


 拳大の石は麻紐に繋がれ、軒下に吊るされた。揺れる影が土間に落ちる。

 大石はその下に立つ。左腕だけを上げる。


 石は左拳に触れた。重みが腕の付け根まで沈む。

 彼は息を吸う。肩が軋む音がする。


 突く。石が揺れる。紐がきしむ。

 再び突く。腕の筋が縮む。重さが逆らう。


 少年たちの声が外から聞こえる。彼らは小川へ向かう。

 大石は聞こえないふりをした。左腕の動きだけを見つめる。


 石が弧を描く。紐がねじれる。

 突くたびに肘が熱くなる。腱が引っ張られる。


 しかし、止めない。小川への移動はもう考えない。

 左腕が感覚を呼び覚ます。石が教える。


 ◆


 試合の虚しさが胸に刺さる。大石は道場を背に歩き出す。


 道が海へと下る。砂の匂いが風に混じる。


「あの突きは、ただの猿真似か」

 自身の独り言が耳に残る。勝者の笑い声が遠ざかる。


 海が視界に広がる。波が白く砕ける。

 かつて古橋重兵衛と立った場所だ。同じ岩場、同じ潮風。


 重兵衛の声が蘇る。低く、砂を噛むようだった。

「左を殺すな。殺せば、お前はただの鈍い右利きだ」


 波が岩を打つ。その音が、打突の響きに重なる。

 大石は左手を握る。何も持たない拳が、じっと力む。


 沖を鳥が飛ぶ。一列になって、風を切る。

 彼らは型も流派も知らない。ただ前へ進むだけだ。


 左腕が微かに震える。かつて重兵衛が見た未来か。

「己の流儀を作れ。それができぬなら、海にでも沈め」


 波音が全てを洗い流す。少年たちの嘲笑も、勝者の誇示も。

 大石は岩に腰を下ろす。潮風が頬を濡らす。


 空と海の境が霞む。遠くで船の影が揺れる。

 もう誰にも合わせる必要はない。この左手で、海を斬るだけだ。


 立ち上がる。背中に砂がつく。

 歩き出す足取りが、以前より確かだった。 鳥の群れが頭上を過ぎた。羽音が風を裂く。

 一羽だけが、列から外れる。


 大石の拳が止まる。左腕は熱を持っていた。

 その鳥は風上へ向かう。翼が乱気流を掴む。


 群れは南へ消える。一羽だけが残る。

 風に逆らい、体を斜めにする。翼の角度を変える。


「……ああ」

 大石の息が漏れる。左腕の震えが、鳥の羽ばたきと重なる。


 鳥は落ちそうになる。風が突き返す。

 それでも翼を広げたまま、同じ空を削る。


 大石は吊るした石を見る。紐が揺れている。

 彼は左拳を固く握る。筋が音を立てる。


 渡り鳥は、群れの型を捨てた。己の飛び方で風と戦う。

 孤独な軌跡が、青空に刻まれる。


 大石は左腕を上げた。石に向かって、突く。

 重みが、今は風の抵抗に感じる。


 鳥はまだ飛んでいる。群れはもう見えない。

 大石の拳が石を揺らす。紐がきしむ音だけが響く。


 かつて感じた絶望が、胸の奥で砕ける。

 左利きは呪いではない。群れない翼だ。


 鳥が一声鳴く。鋭い響きが海に散る。

 大石は次を突く。肘から肩まで、全てが意思になる。 握り飯が左手にある。潮風が指の隙間を通る。

 大石は岩の上に座り、海を眺める。波が繰り返し砕ける。


 米の粒が歯に挟まる。塩の味だけが舌に残る。

 彼はゆっくり噛む。顎の動きに合わせて左腕の筋肉が疼く。


 石を突いた直後だ。肘から肩にかけて熱が脈打つ。

 握り飯を握る左手が、重みを覚えている。


 遠くで鳥が旋回する。先ほどの一羽か。

 大石はご飯を飲み込む。喉の奥に重みが沈む。


 持参した竹筒から水を飲む。冷たい流れが胸を下る。

 左腕の熱が、少し和らぐ。


 波音がすべてを包む。道場の騒ぎはもう聞こえない。

 彼はもう一つ握り飯を取り出す。指が米の形を崩す。


「己の流儀を」

 重兵衛の声が、波と重なる。大石は頷く。


 食べ終えた。弁当包みを畳む。

 左手を開いたり握ったりする。石の感触がまだ残る。


 鳥が風に逆らって上昇する。翼が光を切る。

 大石は岩から立ち上がる。足元に小石が転がる。


 もう農作業には戻らない。午後も石を突く。

 彼は波を見つめたまま、左手をぎゅっと固める。


「海を斬る」

 独り言が潮風に消える。左拳だけが、熱を持って答える。


 ◆


 軒下の梁に古縄をかける。彼は今日、試合を見に行くはずだった。


 道場の騒ぎが耳の奥で鳴る。嘲笑の声。扉が閉まる音。

 石を縄に結びつける。重みが縄をぴんと張らせる。


 左腕が疼く。朝の記憶が筋肉に刻まれている。

 彼は左手で石を抱える。縄の先を引っ張る。


 肩の関節が軋む。石が宙に浮く。揺れる。

 息を詰める。左腕一本で引く。


 縄が食い込む。手のひらが熱くなる。石は動かない。

 頬を汗が伝う。地面に足裏を押しつける。


 背筋が伸びる。腰を落とす。左腕に全身を預ける。

 石が少し上がる。筋肉が悲鳴をあげる。


 彼は試合会場への道を思う。群集。掛け声。刀の音。

 左手をさらに握る。縄がずり落ちそうになる。

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