第8話 石吊り修行への決意
左手の指を握る。開く。土を削ったこの掌が、今度は石を握る。
立ち上がる。背骨が軋む。疲労は確かだが、頭の中は一つの光で満ちている。
左足を踏みしめる。地が応える。これでいい。
次の一手は、もう決まっている。 左肩に担いだ鍬の重みだけが、帰路の道標となる。日はすでに傾き、長い影が不揕いな足跡を追う。
川のせせらぎが耳に触れた。冷たい水音が、左手の疼きを呼び覚ます。流れのほとりに立つ。かつて剣道具を投げ捨てた場所だ。
「……」
水面が黄昏を呑み、濁った光を揺らす。川底には、何も沈んでいない。流されたか、土に埋もれたか。
胸の奥が締め上げられる。息が浅くなる。喉がひりつく。捨てたのは道具だけではなかった。かつての己も、あの水底に沈めた。
左手が自然と鍬の柄を握りしめる。擦り傷がざらりと疼く。この手には、今は土の匂いしかない。
川面に顔が揺れる。背の高い、歪な影だ。化け物。嘲笑が耳朶を這う。左足が一歩、水際に近づく。
冷たい水飛沫が草鞋を濡らす。引き返す。背を向ける。歩き出す足取りが重い。
川の音だけが、ずっと後を追ってくる。 囲炉裏の縁に置かれた飯櫃が冷たい。大石は左手を伸ばすが、箸を握る前に止まる。
掌の擦り傷がざらりと疼く。飯櫃の蓋を開ければ、麦飯の匂いだけが立ち上る。
「……」
右手で茶碗を取り、左手で飯櫃の縁を押さえる。米粒が器に落ちる音がやけに鋭い。
左手の感覚だけが異様に鋭敏だ。箸を持つと、指先で稲穂の感触が蘇る。
一口。咀嚼が遅い。喉を通らない。かつて剣を握った左手が、今は箸を操る。
畳の上に置かれた右手が、無意識に刀の柄を探る動きをする。左手は箸を握りしめたまま。
囲炉裏の火がぱちりと弾ける。飛び散った火の粉が左足の草鞋に落ちる。
彼は箸を置く。左手の掌を見つめる。擦り傷が夕餉の灯りに赤く浮かぶ。
「石は丸いのではだめだ」
声は囲炉裏の向こうに消える。左手を握る。開く。石を握る感触だけを探る。
飯櫃の蓋を閉める音が一つ。部屋が静寂に沈む。左足だけが、地に喰い込んだ記憶で重たい。 飯櫃の蓋を閉める音だけが座敷に響いた。左手の指先に箸の感触がまだ残っている。大石は立ち上がる。腰の鈍痛を無視し、土間へ下りた。夜の農作業場まで二十歩。左足の沈み込みが道を照らす。
土間の隅に鍬と鎌が立てかけてある。左手が鍬の柄を握る。冷たい木肌が擦り傷を撫でる。右手は鎌を取る。両手に農具を持つ重みが、空腹を霞ませた。
「……」
戸を開ける。夜風が頬を撫でる。月明かりが不揃いな畝に青白い影を落とす。左手に鍬、右手に鎌。その非対称な重さだけが、今の己を支えている。
◆
左足の土を踏む音が、夢の中の岩石を砕く轟音へと変わる。鍬の柄が左腕の中で伸び、月明かりが冷たい刃へと凝縮した。
巨大な石が眼前に立ち塞がる。表面は畝のように縦横に割れ、月光が溝を青白く染める。彼は息を吸う。左腕一本が鍬を握りしめる。振りかぶる。突く。
「ッ!」
石が砕けない。砕けない。砕けない。左腕の筋が千切れる音が聞こえる。骨が軋む。それでも突く。鍬の刃先が石の中心へ喰い込む。亀裂が走る。蜘蛛の巣のように広がる。そして――
ばらり。
石が粉々に崩れる。砕け散る破片が月明かりに煌めき、灰になる。左腕だけが残る。重く、熱く、地に突き刺さっている。
大石は目を見開いた。天井の煤けた梁が見える。左腕が鍬を握りしめたままだった。指が開かない。腱が固まっている。夜明け前の暗闇が部屋を満たし、夢の残像が網膜に貼りついていた。 暗闇の中で左手の指がひとりでに動いた。握る。開く。また握る。
天井の梁が見えなくなるほど、掌の奥に石の感触が残っていた。重く、冷たく、丸すぎない形。
「見つける」
声は布団の中で消えた。彼は起き上がった。左腕が夢の重みを引きずる。
囲炉裏の灰をかき分ける。温もりもない。指先が土間の隅を探る。石はない。縁側へ足を運ぶ。
月が沈みかけた空が薄明るい。庭の飛び石の陰に、川原の石が転がっている。左手がそれを拾う。
平たい楕円。表面はざらつき、縁は鋭い。重さが掌に沈む。
部屋に戻る。左腕を上げる。石を握りしめたまま、ゆっくりと下ろす。筋が呻く。腱が引っ張られる。
暗闇を見つめる。指が石を離さない。吊るす。ただ吊るす。
「これでいく」
決意が左腕の熱となった。朝まで、石を握りしめたまま。 左手が石を握りしめたまま朝を迎えた。指が白く冷えていた。
大石は布団を蹴った。左腕が重く、床に引きずられる。土間へ降り立つと、水がめの縁が腰の高さに来た。
柄杓を掴む。水をすくう。顔に浴びせる。冷たさが皮膚を刺し、夢の残熱を洗い流す。
垂れ下がった前髪が眉を覆う。左手で掻き上げる。右手で紐を探る。結び直す。短く引き締める。
天井の梁が目の前にある。身を屈めれば頭がつく。長身が家の中では常に折り曲げられる。
作業着を引き寄せる。左腕を通す。肩が縫い目を引っ張る。
「……」
軒下を見やる。鍬と鎌が立っている。その傍らに、平たい楕円の石が転がっていた。
左手がそれを拾う。掌に収まる重さ。縁の鋭さ。
今日も握りしめて歩く。右腰に鎌、左腰に石。非対称な荷重が足取りを固める。 左腰の石が歩くたびに腿を打つ。紐が切れていることに気づく。掌の中で石が冷たい。
大石は立ち止まる。夜明け前の闇が家の軒を黒く塗りつぶす。右手が腰の鎌を探る。紐の代わりになるものはない。
物置きの扉を開ける。藁の束が積まれている。指先で探る。太くて短い。結んでもすぐにほつれる。
「だめだ」
声が物置の奥に吸い込まれる。左手の石を握り直す。縁が掌に食い込む。
川の記憶がふとよぎる。投げ捨てた木刀が水に浮かんだあの日。紐で縛った柄巻きが解け、流れていった。
足がひとりでに動く。家の裏手へ。道なき道を藪が塞ぐ。左腕で枝を払う。
冷たい水音が聞こえる。川の匂いがする。土手に足を滑らせる。礫が靴裏を軋ませる。
川面が薄明かりに鈍く光る。岸辺を探る。左手の石が水中の岩を求める。
指が何かに触れる。引き上げる。濡れた縄の切れ端だ。誰かが舟をつないだ名残りか。強く、しなやか。
さらに歩く。足元に石がある。蹴ってみる。動かない。左手で掴む。水中の岩だ。平たく、角張っている。
縄の端を歯で噛み切る。石に巻きつける。縛る。試しに振る。ぶら下がる。筋が呻く。
「これだ」
川面が白み始めた。投げ捨てた過去が、今は修行の道具となった。左手に石と縄の重み。それがすべての始まりだった。左手の指が椀の縁を探る。
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