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第5話 土と汗の修練

 泥の重みを感じながら。


 歩みを進める。一足ごとに、左足の沈む感覚を刻み込む。


 それが欠点でも、呪いでもない。単なる事実として受け止めた。


 地に残る深い跡だけが、彼の半身を静かに支えていた。 藁の影で弁当を広げた。左手に握った飯団子が冷たい。


 大石はそれを置く。目を囲炉裏に向けた。炭火の気配が微かに揺らぐ。


 右手が灰掻き棒を取る。竹の重みが腕に下りる。同時に左手が火箸をつまむ。鉄の冷たさが指先に刺さる。


 両腕が異なる道具を抱えた。左右の重さが非対称だ。


 右腕を横に払う。灰掻き棒が空を撫でる。左腕は前に突く。火箸が炭火を狙う。


 動きが噛み合わない。右が払えば左が遅れる。呼吸が乱れる。


「……っ」


 歯を食いしばる。もう一度、右を払い左を突く。今度は左が先に出る。右が追いつかない。


 筋肉が悲鳴を上げる。左右の感覚が脳で衝突する。


 汗が眉間を伝う。火箸の先が微かに震える。


 彼は動きを止めない。右払い、左突き。繰り返す。リズムを探る。


 次第に左右の動きが離れる。右は円を描き、左は直線を貫く。


 呼吸が深くなる。肺が左右のリズムを刻み始める。


 火箸が炭火に触れた。火花が散る。灰掻き棒が空気を切る音が鋭い。


 大石は目を見開いた。左右の腕が初めて別々に動いた瞬間を感じた。 庭の片隅に石がある。大きさは子供の頭ほどだ。表面は苔に覆われ、湿っていた。大石は鍬を投げ出した。午後の凍てつく土など、どうでもよくなっていた。


 左手が石を抱え上げる。重みが腕の付け根に響く。右手は自然と補助に回る。左右の役割が逆転している。


 腰を落とす。左腕を高く掲げる。石が視界の端で揺れる。


 突く。肩から先が鞭のように伸びる。石の重さが勢いを増す。


 腕が突き抜けた。重りが風を切り落とす。衝撃が地面を揺らす。


「……っ」


 左肩が熱を持つ。筋肉が初めて目覚めたと主張する。


 もう一度抱え上げる。今度は右手が邪魔になる。左腕だけに任せる。


 重い石が宙に浮く。バランスが崩れる。体が傾く。


 歯を食いしばる。左足を踏ん張る。地に喰い込む足裏が支える。


 突く。軌道が右とは明らかに違う。斜め上から叩き落とす角度。


 石が地面にめり込む。凍った土が割れる音が硬い。


 大石は息を止めていた。吐くと白い息が踊る。


 左腕を眺める。擦り傷の痛みが、今は快感に変わっている。


 右手で鍬を拾う。軽すぎる。左腕の重さが全ての基準を狂わせた。


 彼は再び石を抱え上げた。農作業など、もうどうでもよかった。午後の凍土が鍬を弾いた。刃先が跳ね、左腕に痺れが走る。

 大石は鍬を置いた。左手の掌を見つめる。擦り傷が赤く腫れている。


 畑の端に水桶が置いてある。水面に薄氷が張っている。

 彼は左手を突っ込んだ。冷たさが骨まで浸透する。痛みが麻痺する。

 氷の破片が傷口に当たる。ひりりとした感覚だけが鋭い。


 右手で桶を引き寄せる。左手を引き上げる。指先が蒼白だ。

 掌を振る。水滴が凍土に落ち、跡を残さない。


 鍬を握り直す。左手の感覚が鈍る。重みだけが確かだ。

 振り下ろす。鍬先が氷の膜を破る。砕ける音が乾いている。

 土はその下で固く、刃を拒む。左腕に力を込める。腰を入れる。


 ぐさりと鍬が食い込む。深さは右の半分だ。

 引き抜く。土の塊は小さい。形が揃わない。


 隣の畑では農夫が鍬を振るう。リズムが一定で、土が均等に翻る。

 大石は無視する。左手の動きだけに集中する。


 もう一度振り下ろす。今度は角度が浅い。鍬が滑る。

 体が前にのめる。左足が深く沈む。凍土が脛を打つ。


「……っ」


 歯を食いしばって体勢を立て直す。鍬を引きずる。

 左手の感覚が戻り始める。疼きが動きを促す。


 次へ。また次へ。不揃いな穴が畑に空いていく。

 左腕だけが熱を持ち、呼吸だけが白く曇る。


 農夫の鍬の音が、遠くで地を刻み続けている。凍土が鍬を跳ね返した。次の一撃を左腕に込める。

 スコップを垂直に構える。肩から突く。

 刃先が氷の膜を割る。砕ける音が鋭い。

 その下の土へ──すっと、刃が沈む。

 抵抗がない。軽やかに突き抜けた。

 大石は手を止めた。左腕に伝わる感覚が虚を衝く。

 凍ったはずの地が、柔らかに受け入れた。

 深くまで沈んだスコップの柄が、微かに震えている。

 彼は引き抜こうとした。軽い。土が刃を離す。

 再び突き立てる。またすっと入る。凍土の下は違う感触だ。

 左腕の筋肉が、その違いを記憶し始めた。

 鍬では硬く、スコップでは柔らかい。角度か、刃の形状か。

 息が白く揺れる。視界の端で農夫が鍬を振るう。

 大石はスコップを見つめた。左腕だけが知る地の秘密を。 凍土が鍬を跳ね返した。左腕の痺れが掌まで走る。

 大石は鍬を見下ろした。次はスコップを取る。

 刃先が氷を割る。砕ける音が乾く。

 その下の土へ──すっと沈む。抵抗がない。

 左腕が虚を衝く。凍ったはずの地が柔らかい。

 引き抜く。軽い。土が刃を離す。

 もう一度突き立てる。またすっと入る。

 左腕の筋肉がその違いを記憶した。

 鍬では硬く、スコップでは柔らかい。

 角度か、刃の形か。

 農夫が鍬を振るう。リズムが地を刻む。

 大石はスコップを見つめた。左腕だけが知る地の秘密を。

 次へ進む。また沈む。凍土の下は別世界だ。

 呼吸が白く揺れる。左掌の疼きが消えた。

 彼は作業を続けた。一撃ごとに、地が語る。

 左腕にしか聞こえない言葉を。凍った土がスコップを滑らせた。大石は立ち止まる。


 左手の掌に擦り傷の疼きが戻る。石吊り修行。この言葉が頭を駆け巡る。


 重さはどのくらいか。紐の長さは。どう吊るす。


 庭の隅を思い浮かべる。苔むした石、荒縄。


 彼はスコップを地面に突き立てた。鍬も置く。


 歩き出す。左足が深く沈むあぜ道を、家の方向へ。


 庭の土が凍りついている。石は霜に覆われて白い。


 大石は蹲る。左手で石を持ち上げる。重みが肘に響く。


 これでは軽すぎる。もっと重い石が必要だ。


 紐は納屋にある。古い荒縄が巻かれている。


 彼は石を離し、納屋へ向かう。左足の跡だけが庭に深く刻まれる。 鍬の柄が左手の掌で熱を持つ。擦り傷が土埃に刺さる。

 大石は一呼吸置く。凍った畝が続いている。

 振り下ろす。刃が氷を砕く。下の土はまだ固い。

 左腕に力を込めすぎた。鍬先が跳ね返る。

 隣の畝は整然としている。農夫の鍬の音だけがリズムを刻む。

「……」


 彼は左手の指を緩める。掌の疼きが脈打つ。

 もう一度構える。肩の力を抜く。鍬の重みだけに任せる。

 振り下ろす。今度は浅く食い込む。土がわずかに動く。

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