第6話 鍬を振るう左腕
引き抜く。次へ。不揃いな穴が点々と並ぶ。
左腕だけが異様に熱い。他の部位は凍土のように冷たい。
農夫が一瞥する。すぐに視線を逸らした。
大石は歯を食いしばる。左手の感覚だけに集中する。
鍬を振る。土を削る。動きはぎこちないままだ。
左足が深く沈む。右足は軽い。体の傾きが鍬の軌道を狂わせる。
彼は立ち止まる。両足を見下ろす。左の足跡だけが闇のように深い。
その沈み込みが、己の全てを地に縛り付けている。 鍬の振りが乱れる。左腕のリズムだけが空回りする。
「……」
大石は鍬を止めた。視線は手元から離れ、遠くの林を穿つ。
左肩の熱が冷めていく。代わりに、かつて道場で聞いた嘲笑が蘇る。
地に刺さった鍬の柄が、微かに震えている。風ではない。
右腕が自然と鍬に伸びる。握る。振り下ろす。
土が浅く削れる。動きは軽やかで、何の淀みもない。
左手はただ見つめる。右の動きが完璧すぎて、呪いのように映る。
もう一度、左手で握り直す。擦り傷がざらりと抵抗する。
振りかぶる。肩が軋む。振り下ろす。
鍬先が氷を割り、固い土に当たる。鈍い衝撃が肘を伝う。
集中力が砕ける。思考が林の先、あの石吊りの光景へ逃げる。
重い石。長い縄。左腕だけが引き締まる感覚。
「……くそ」
歯の間から吐息が漏れる。鍬が地に立ったまま動かない。
左足が無意識に地を探る。深く沈む感触だけが現実を保つ。 鍬の柄に残る擦り傷が、深掘りごとにざらりと掌を焼く。
左腕を鞭のように振り下ろす。鍬先が凍土を穿つ。下層の軟らかい地肌が現れる。
引く。土の塊が跳ねる。穴の深さが右と明らかに違う。左の一撃は地の奥へ潜る。
「……っ」
左肩の熱が肘へ、掌へと流れる。擦り傷の疼きが快感に変わる瞬間だ。
隣の畝は整然と浅く、大石の前に空いた穴だけが闇のように深い。
左足が踏ん張る。地に喰い込み、体を支える。右足は軽く浮いている。
もう一度振り下ろす。狙いは地中の石だ。鍬先が硬いものに当たり、火花が散る。
手応えが左腕に突き刺さる。感覚だけが鋭く研ぎ澄まされる。
農夫が遠くで鍬を止め、こちらを見つめている。大石は気にしない。
左腕を引き上げる。地を抉る。穴はますます深くなる。
かつて門を閉ざされた理由が、今は地を穿つ唯一の刃となる。
呼吸が白く乱れ、左腕だけが熱く輝く。鍬はもはや鍬ではない。 鍬は地に刺さったまま放り出された。左腕だけが熱く疼いている。
大石は土塊を蹴る。最後の区画など、どうでもよくなっていた。
河原の小径を左足が深く沈む。石を探す。
小石は転がり、大石は無視する。掌に収まる大きさでは軽すぎる。
川の流れが凍りつく縁を洗う。丸みを帯びた石が並ぶ。
左手で一つ掴む。投げ捨てる。水音が鈍い。
「足りぬ」
膝を折る。両手で岩を持つ。重さが腰に響く。
これでも足りぬ。石吊りに必要な重さではない。
立ち上がる。視界を泳がせる。上流を見る。
かつて少年たちが遊んでいた深みがある。
歩を進める。左足が砂利に喰い込み、右足が滑る。
呼吸が白く揺れる。川風が鉢巻きを濡らす。
深みの底に影が沈む。黒い岩が水に揺れる。
大石は躊躇せず、浅瀬を渡る。水が草鞋を浸す。
冷たさが脛を突き上げる。左手を差し伸べる。
岩に触れる。表面は滑らかで、冷たい。
握る。重みが腕の付け根を引き裂く。
これだ。 囲炉裏の残り火が、左腕に投げかける影をゆらめかせた。
火箸を左手でつまむ。鉄の冷たさが指先に刺さり、握りしめる感覚を呼び覚ます。右手は灰掻き棒を横に構える。左右の重さが非対称に肩に乗る。
右腕を払う。竹の棒が空気を撫でる。同時に左腕を突く。火箸の先が炭火を狙う。動きが噛み合わず、呼吸が乱れる。
「……」
歯を食いしばり、繰り返す。右は円を描き、左は直線を貫く。左右の感覚が脳裏で衝突し、筋肉が軋む。
次第に、動きが分離する。右腕の軌道と左腕の軌道が、別々のリズムを刻み始めた。火箸が炭に触れ、火花が散る。灰掻き棒の風切る音が鋭い。
大石は息を止めた。左右が初めて別々に動いた瞬間を、左腕の筋が記憶した。 稲藁の束が左手の前に積まれる。右手に麻紐が巻かれている。
大石は左膝を折る。長い背中が稲穂の上に影を落とす。
左手で藁の束を掴む。太さを揃える。指が思うように動かない。
右手指が紐を解き、藁の根元に回す。左手は押さえ続ける。
紐を引き締める。右手がリズムを刻む。左手指の力が緩む。
藁の束が崩れそうになる。ぎりっと左手に力を込める。
「……」
息を詰める。右手が結び目を作る。左手は微かに震えている。
紐が締まる。束はまとまったが、形が歪んでいる。
隣では農夫が両手を滑らかに動かす。藁を掻き集め、紐を回す。
束は均一に整い、次々と積み上がる。
大石は左手の束を見下ろす。乱れた藁の先が、己の不器用さを指す。
右手だけが慣れた動きをする。左手は重りでしかない。
次の束を掴む。今度は左手の握りを強くする。藁がざらりと軋む。
右手が紐を回す。左手の指先に力が逃げる。締まりが甘い。
歯を食いしばる。左手の甲に筋が浮く。擦り傷が疼く。
紐を引き直す。結ぶ。束は固まったが、小さい。
農夫の束は大きく、形が整っている。右手の動きに無駄がない。
大石は左手の感覚だけに耳を澄ます。指先の力の逃げる隙間を。
もう一度。左手で掴み、右手で締める。左右のリズムがずれる。
呼吸が乱れる。額の汗が眉に伝う。
彼は動作を止めない。左手の違和感を、一つ一つの結び目に刻み込む。
右と左の非対称が、藁の束の形に現れている。 鍬が地を穿つ音だけが、左腕に響き続ける。深さの揺らぎは消えない。
隣の畝を見る。農夫の鍬は一定のリズムで土を撫で、均一な畝を作る。大石の前には、不揃いな窪みが連なる。
長い背筋を伸ばす。腰の負担を逃がすためだ。前屈みになる時間を減らす。鍬の柄を長く持ち、立ったまま振る。
左腕を振り下ろす。狙いは土の高さを揃えることだ。鍬先が地に食い込み、土を盛り上げる。
引き寄せる。土の量が多すぎる。盛り上がりが隣より高い。
「……」
鍬の背で叩く。土をならす。高さが揃わない。
もう一度、左腕を振る。今度は浅く削る。土を削り取り、幅を整える。
左足に体重を移す。踏み込む。深く沈む足元が支えになる。
鍬を横に払う。畝の側面を削り落とす。土が滑り落ちる。
風にも揺れぬ一本の稲藁。そのイメージが頭に貼り付く。
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