第3話 畑仕事と左手の葛藤
鍬を土に突き立てる。柄が揺れる。大石は鍬から手を離した。
左掌に擦り傷が赤く腫れている。指を動かす。無意識に剣を握る動作を繰り返す。
手のひらで鍬の柄を転がす。皮が剥けた箇所がざらりと土埃を纏う。
空を見上げる。雲の流れがゆっくりだ。汗が鉢巻きに染み込む。
左腕だけが熱い。肘から先が火照っている。指先を軽く握る。開く。
かつて竹刀を握った感覚が蘇る。左の掌にあった確かな重み。
鍬の柄を見つめる。木目が右手用に摩耗している。左手には合わない。
指を組み替える。柄の握り位置を探る。剣を構えるように位置を定める。
左手の指が記憶を呼び起こす。柄の感触、重心の位置、振り抜く角度。
腰の鈍痛が脈打つ。前かがみの姿勢から解放された背筋が伸びる。
深く息を吸う。吐く。白い息が上がる。肺が冷たい空気を求める。
左掌を開いたままにする。指の関節が微かに震えている。
隣の畝は整然としている。農夫の鍬はもう動かない。彼は休んでいる。
大石は左手の指をじっと見つめた。剣を握っていた頃、あの感覚だけが確かだった。
今は鍬の柄に残る擦り傷だけが、己の不器用さを物語る。 鎌が草を撫でる。茎は切れずにしなる。
大石は左腕を引き寄せる。刃の角度を探る。握りが浅い。
もう一度振るう。鎌先が土をかすめる。草は倒れない。
指の関節が白くなる。左手に力を込めすぎた。
隣から少年たちの笑い声が流れる。草刈りの手際が良い。
大石は鎌を握り直す。掌の擦り傷が疼く。
腰を落とす。左腕を水平に引く。草の根元に刃を合わせる。
ざっ、と音がする。茎が半分だけ切れた。
「……っ」
鎌を逆手に持ち替える。角度を変えて振る。
今度は草が跳ねる。切れ端が飛び散る。
少年たちがちらりと視線を寄越す。すぐに背を向けた。
大石は鎌を地面に突き立てる。左腕が微かに震える。
刃先に泥が付いている。草の汁が鈍く光る。
もう一度、腰をかがめる。左手で鎌の柄を確かめる。
指を滑らせる。剣を握る時のように位置を定める。
引く。草がすっと切れる。一束だけが掌に残る。
彼はその草を見つめた。切れ味の悪い刃が、ようやく仕事をした。
左掌の疼きが、少しだけ軽くなった。 鎌で刈った草が散らばっている。大石は左手で草を掻き集める。長い指が束をつかむ。すぐに零れる。
少年たちは熊手を使う。素早く山を作る。大石の掌には草の束が揃わない。
腰をかがめる。背骨がきしむ。草を寄せる。左手の動きが遅い。
少年がちらりと見る。視線が背中に刺さる。
大石は無視する。草の束を抱える。葉が腕からこぼれる。
「……っ」
左腕に力を込める。草を抱え上げる。腰に鈍痛が走る。
一歩踏み出す。足下の草が絡まる。よろめく。
少年たちは作業を続ける。笑い声はない。
大石は息を詰める。草を運ぶ。左腕の筋肉が震える。
運び終えた草の山は小さい。形も乱れている。
彼はもう一度かがむ。掌で草を掻き集める。繰り返す。
左手の動きだけに集中する。指が覚えようとする。
草の束が少しずつ大きくなる。形が整い始める。
腰の痛みを忘れる。左腕の熱だけを感じる。 鍬と鎌が土にまみれている。大石は左手で鍬を引き寄せる。
長い指が柄に絡む。土の塊が乾き始め、こびりついている。
右手ならば、草の束で一拭きだ。左手だと、指先でこそぎ落とす。
親指の腹で土を押し潰す。粉々になる。掌で撫でる。
鍬の木肌が現れる。摩耗した部分が白く浮かぶ。
時間が過ぎる。隣の農夫は既に道具を片付け終え、腰を伸ばしている。
大石は鎌を手に取る。刃先に泥がこびりつき、光を遮る。
左手指でそっと削る。爪が泥に食い込む。少しずつ剥がれる。
刃の線が現れる。切れ味は鈍いままだ。草の汁が錆びを誘う。
息を吹きかける。細かな土埃が舞う。左手の動きが丁寧すぎる。
少年たちは小川で道具を洗う。水音が軽やかだ。
大石は掌に乗った土を見つめる。黒く、固まっている。
指で転がす。かつて道場の土も、こうして払った。
左手だけで。いつも時間がかかった。
鍬の柄を撫でる。擦り傷がざらりと手応えを返す。
ようやく土が落ちた。鎌の刃も鈍く光る。
腰を上げる。背骨がきしむ。左手に二つの道具を持つ。
重みが片側に偏る。姿勢が崩れそうになる。
一歩踏み出す。足取りが遅い。農夫たちはもういない。
大石は左手をかばうように道具を抱える。掌の疼きと共に歩く。 庭園の植え込みが、視界を遮った。鉢巻きの藍が汗で滲む。
大石は鍬を担ぎ、小径を曲がる。庭師の背中が見える。
その男は、屈み込んでいた。巨体を折り畳むように。
掌に盆栽鉢を載せる。指が微かに震える。剪定鋏が小枝を狙う。
庭師は息を詰める。鋏の刃が閉じる。枝が切れる音が硬い。
傍らで女たちが通り過ぎる。ささやきが風に乗る。
「力任せね」
声は低く、確かだった。
庭師の肩が一瞬、固まる。指先が鋏を握りしめる。
大石は足を止めた。鍬の柄が左肩に食い込む。
庭師は再び鋏を動かす。動作がぎこちなくなる。小枝を押し潰すように切る。
女たちは去っていく。笑い声が残る。
大石の左掌が疼いた。擦り傷が熱を持つ。
彼は庭師の背中を見つめる。長い躯を無理に折り曲げ、小さな鉢と向き合う。
己の姿と重なる。農具を握る左手。崩れそうな腰。
周囲の目。囁き。
庭師は盆栽を棚に戻す。立ち上がる。背骨がきしむ音がする。
巨体を起こすのに、一呼吸要った。
彼は振り返らない。ただ、次の鉢へ歩み寄る。
大石は鍬を握り直した。左肩の重みが、一層確かになった。左足が泥に吸い込まれた。引き抜くのに一瞬の遅れが生じる。
右足は浅く沈み、左足は深い。歩みが揺らぐ。鍬の柄が左肩に食い込む。
次の一歩。また左足が深く沈む。泥の抵抗が膝に響く。
腰を落とす。左足を引きずり上げる。足跡が右よりも深い窪みを残す。
彼は立ち止まる。両足を見下ろす。左足のわずかな沈み込みが、地の引力と重なる。
鍬を土に突き立てる。左足に体重をかける。じわりと沈んでいく。
右足を替える。沈まない。地盤が固い。
大石は眉をひそめる。左半身だけが、常に深みへと引かれる。
足を抜く。泥の音が鈍い。次の畝へ移る。
また左足が深く沈む。繰り返される。偶然ではない。
彼は鍬を握りしめた。左腕の熱と、左足の沈み込みが呼応する。
片側だけが重い。地に引きずられる感覚。
一歩踏み出す。左足の裏で土が軋む。深く、確実に。
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