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第2話 道場門前での屈辱

 道場の門が視界に近づく。心臓が肋骨を打つ音が頭蓋に響く。


 左掌に汗が滲む。指が痺れたように固まる。


 瓦屋根の影が巨躯を覆う。首筋に冷たい風が走る。


 門前で足が止まる。呼吸が浅く、肺が軋む。


「……」


 口を開けても声が出ない。喉が焼けるように熱い。


 左腕だけが重く垂れる。まるで他人の肢のようだ。


 目を凝らす。玄関の襖に「甲斐」の文字が浮かぶ。


 拳を握る。爪が掌に食い込む痛みだけが現実を刻む。


 一歩。土間の匂いが鼻を衝く。藁と汗と鉄の混じる気配。


「さあ」


 彼は自分に言い聞かせる。左足を敷居に掛けた。 襖の向こうで声が潜る。大石の耳が微かな音を捉えた。


「不吉だ」


 木組みの隙間から漏れる囁き。甲斐道主の低い声だ。


 大石の左腕が微かに痙攣する。指が無意識に柄を探る。


「化け物体躯」


 弟子の返す言葉が襖を透して刺さる。背筋に氷が走る。


 巨躯が微動だにしない。呼吸さえ止める。


 左掌に冷や汗がにじむ。木刀の柄に似た感覚が蘇る。


「左利きは……」


 言葉の続きを聞く前に、大石は踵を返した。


 足音を殺して土間を引き上げる。巨体が無音で動く。


 門外に出て初めて息を吐く。白い息が朝の冷気に溶ける。


 左手だけが重い。他人の腕のように垂れ下がる。


 路地を背に歩き出す。足取りが速くなる。


「……」


 胸の内で何かが砕ける音がする。喉の奥が熱く詰まる。


 道場の瓦屋根が視界から消える角まで来て、彼は立ち止まった。


 左手を掲げる。指が朝日に透けて見える。


 拳を握りしめる。骨が軋む感覚が現実を呼び戻す。


「よし」


 大石は呟く。灰掻き棒を握る左腕を振る。


 突きの動きが空を切る。風が袖を鳴らす。


 一突き。また一突き。筋肉の伸縮だけが思考を埋める。


 左腕の重さが次第に力に変わる。握りしめた棒が一本の剣となる。


「これでいい」


 彼は額の汗を拭わない。ただ突きを繰り返す。


 ◆


 朝市のざわめいが耳に触れた。種次は露店の紐に目を止めた。

 指で撚りを確かめる。皮膚が麻のざらりと感覚を記憶する。

 売りの婆は無言で頷く。小銭を数えて渡す。

「これ一本」

 鉢巻きは藍染めが目を引いた。汗を吸い、見栄えもする。

 彼は二本取る。左腕に巻きつける動作を頭で繰り返す。

 支払いが済むと、影の濃い路地に退いた。

 紐の切れ端を引っ張る。筋張った両腕が震える。

 石は庭の隅にある。あれを使う。

 握りしめた藍布が手のひらに熱を籠める。


 ◆


 藍布の鉢巻きが眉に食い込んだ。朝の土埃がのどを刺す。

 大石は鍬を握る。柄は右用に研がれている。左手に回せば、重みがずれる。

 一振り。鍬先が土を削る。浅い。深く入れれば腰が浮く。

 隣の畝では親父が鍬を振るう。リズムが地に染み込む。

 彼は息を詰める。左腕に力を込める。鍬が土に噛み、跳ね返る。

「くっ」


 鍬を引きずる。足下の草を払う。鎌を左手に持ち替える。

 刃が茎を撫でる。切れずに滑る。握りが緩む。

 親父が振り返らない。背中で言葉を飲む。

 大石は鎌を握り直す。指の関節が白くなる。

 もう一度振るう。草の切れる音が鈍い。

 額の汗が鉢巻きに染みる。藍色が濃くなる。

 左腕だけが熱を持つ。他の部位は重りだ。


 鍬を立てる。柄が掌に擦れる。皮が剥ける感覚。

 彼は鍬を見下ろす。道具と己の不甲斐なさが重なる。

 息を吐く。白い息が朝もやに消える。

「まだ、だ」


 もう一度鍬を振りかぶる。左肩が軋む。背筋が伸びる。

 今度は土に深く食い込む。腰を落とす。足を踏ん張る。

 土の塊が転がる。小さな勝利だ。

 大石は唇を噛む。鍬の動きを追う。

 次へ。また次へ。不揃いな畝が延びる。

 左手の鍬は、未だ剣ではない。鍬先が固まりに阻まれる。土塊が動かない。


 大石は左腕に力を込める。鍬がぐいと沈む。深すぎた。


 柄が掌に擦れる。皮がむける。引き抜こうとする。


 鍬はびくともしない。土に喰い込んだままだ。


「……っ」


 右足を踏ん張る。腰を低く落とす。全身で引く。


 土の抵抗が左肩に響く。筋が悲鳴を上げる。


 鍬は微動だにしない。逆に深く埋まった。


 汗が眉を伝う。鉢巻きが重くなる。呼吸が乱れる。


 隣の親父が一瞥する。何も言わずに鍬を続ける。


 大石は歯を食いしばる。左手だけが頼りだ。


 体をひねる。体重をかける。鍬がぎりっと音を立てる。


 ゆっくりと、土から抜ける。鍬先に黒い塊が付く。


 彼は鍬を立てる。左掌がじんじん疼く。


 土塊を見下ろす。己の不器用さが転がっている。 隣の畝では、農夫が鍬を振るう。右手の動きが滑らかだ。鍬が土を撫で、切り返す。リズムが地を刻む。


 大石は身をかがめる。長い背中が弧を描く。腰に重りが据え付けられる。前屈みの姿勢が続く。


 鍬を左手で握る。振り下ろす。土を抉る。深さが揺らぐ。腰が浮き上がる。すぐに前かがみに戻る。


「……っ」


 腰の奥で鈍い痛みが脈打つ。背筋が縮む。立ち上がることもできない。鍬の動きが遅くなる。


 農夫はため息一つ漏らさない。鍬を休めず、次から次へと畝を整える。土が呼吸する。


 大石は左手に力を込める。鍬が土に喰い付く。引き上げる。土の塊が跳ねる。不揃いだ。


 腰の痛みが刺す。彼は鍬の柄に寄りかかる。息を深く吸う。吐く。白い息が乱れる。


 農夫の鍬が止まらない。右腕の一振りに、畝が一直線に伸びていく。


「それでこそ、だな」


 言葉は農夫の独り言だった。大石の耳には届かない。


 彼は再び身をかがめた。腰の重りを引きずりながら。左手の鍬を振る。土を削る。動きはぎこちない。


 鍬の柄が左手の掌に擦れる。熱を持つ。皮が剥けていく。


 それでも、振り続ける。一振りごとに、腰が悲鳴を上げる。前かがみの姿勢が背骨を押し潰す。


 農夫の動きが視界の端を滑る。右手の鍬が流れるように土を翻す。


 大石は唇を噛んだ。左腕に意識を集中させる。腰の痛みを無視する。振り下ろす。


 鍬先が土に深く刺さる。今度は深すぎた。引き抜けない。


「……くそ」


 力を込めて引く。腰に衝撃が走る。鍬は微動だにしない。


 農夫がちらりと視線を寄越す。すぐに元の作業に戻る。


 大石は歯を食いしばる。左足を踏ん張る。体をひねる。全身の重みをかける。


 鍬がぎりっと音を立てて動く。ゆっくりと土から抜ける。


 彼は鍬を立てた。額の汗が土に落ちる。左掌の疼きと、腰の鈍痛だけが確かだ。


 もう一度、身をかがめる。腰が軋む。鍬を振る。


 隣では、滑らかなリズムが続いている。

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