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第1話 巨躯の剣客、城下へ向かう

挿絵(By みてみん)


身長七尺の巨躯。

左利きというだけで、道場の門前から拒まれた男がいた。


名は、大石進――のちに剣豪として知られる男である。


これは、生まれ持った才ではなく、嘲笑と屈辱と孤独の中で己を鍛え上げた、一人の剣士の物語。


「努力は才能を超える」


その言葉を、己の左腕で証明するまでの道程。

 大石の目は遠く城下町を捉え、歩みは速い。

 足裏が土道の冷気を吸い込む。露に濡れた藁の束を踏む感触が、草鞋の底から伝わる。

 小川の土手に差しかかると、水の流れる音が耳を打つ。

「……」


 左手の指が無意識に動いた。人差し指から小指までが順に折れ、また伸びる。

 かつて繰り返した突きの型だ。指先に力を込め、虚空を貫く。

 土手沿いの道が、冷たい湿気を脛にまとわせる。

 歩幅が乱れない。ただ左の拳だけが、静かに呼吸を刻んでいた。


 田畑の間の小道に差しかかると、土の冷気が脛を這った。


 前方で鍬を振るう影が立ち止まる。背中を向けているが、視線が首筋にまとわりつく。

 大石の首がわずかに縮む。歩幅は変わらぬが、目線だけが足元の石へ落ちる。

 小石がひとつ、草鞋の先にあった。左足が蹴る。石は転がり、水路の縁を叩いた。


 向かいから女が籠を担いで来る。擦れ違う瞬間、息が微かに止まる。

 女の顔がわずかにそらされる。籠が軋む。何も言わずに過ぎる。

 大石の顎が引かれる。肩の筋肉が無意識に収縮する。


 次の石を見つける。左足が軽く蹴り上げる。石は弧を描き、土手へ消えた。

 指先が再び折れる。突きの型が、この視線を払う一撃に変わる。

 土道の果てに、城下町の屋根が微かに揺らめいていた。


 ◆


 幹道に出ると、人通りの多さが一気に骨を押す。

 畑のあぜ道とは違い、背中に視線が集まる。肩が石のように固くなる。

 左の拳が、静かに縮んだ。


 前方から侍が二、三人歩いてくる。刀の笄が目に刺さる。

 大石の足が地面を捉える。歩幅を一歩だけ縮める。視線は侍たちの帯刀へ吸われる。

 すれ違い様、一人の侍が眉を上げた。目が一瞬、大石の左腰に落ちる。

 何も持たぬ腰を見て、侍はそっと頷く。視線は遠ざかった。


 大石の舌が口内で動く。唾を飲む音が頭蓋に響く。

 肩に力が入りすぎる。ゆっくり息を吐く。拳だけがそっと開く。


 振り返る気配はない。前方だけを見据える。

 道端の井戸端で女たちが話しを止める。団扇で顔を隠す。


 地面の塵が、風に舞う。左足で一歩踏み出す。

 塵が靴の跡を描く。左の拳が再び握られる。突きの型が、内側で形を結ぶ。

 城下町の門が、視界の奥にぼんやりと浮かぶ。


 ◆


 大石の背骨が朝霧を割る。足元の草が露で重い。


 道の向こうに家の輪郭が浮かぶ。藁ぶきの屋根は歪み、柱は傾く。

 大石の歩みが一瞬鈍る。吐く息が白く膨らむ。

 左の拳が胸の辺りで固まる。


「化け物、戻ってきやがった」

 声は無いが、戸口の陰に視線を感じる。

 大石は黙って頭を下げる。巨体が小さくなる。


 家の前に立つ。左足が土間の縁を跨ぐ。

 戸の引き手は右にある。大石は左手を差し伸べる。

 指が金具に触れる。握る。引く。

 戸が軋んで開く。闇の中に、昨日の藁の匂いが漂う。 鏡に映る自分は、扉を塞ぐ影だった。

 薄明りがその巨大な輪郭を浮かび上がらせる。

 肩幅が鏡の枠を越え、天井に届くかと思われた。

 大石は息を止めた。


「……」

 吐く息が鏡面を曇らせる。

 左腕がゆっくり上がる。指先が帯の端をつまむ。


 帯が細い紐のように見える。

 左手で端を持ち、もう一方を巻きつける。

 指が滑る。帯は緩んで垂れる。


 もう一度。左手で引き寄せる。

 指の動きがぎこちない。締まる前にほどける。


 大石の目が鏡の中の自分を見据える。

 巨大な体躯。長すぎる腕。

 その腕が、帯ひとつ結べない。


 脇の下に冷たい汗が走る。

 左手が帯を握りしめる。指の力が帯地を歪ませる。


「こんな体で……」


 声にはならない。口が動くだけだ。


 左手がもう一度試みる。

 帯の端が交差する。指が絡む。

 固く結ぼうと力む。筋が腕に浮かぶ。


 ふわりと、帯が解けた。

 垂れ下がる布が膝を叩く。


 大石は目を閉じた。

 暗闇の中で、左手だけが熱く感じられる。箸先が椀を叩く音だけが座敷に響く。

 粥は温かくない。冷めた重さが舌を覆う。


 左手の指が箸を挟む。関節がぎこちなく曲がる。

 幼い頃、父が右手を強く握った。手の甲が赤く腫れた。

 大石は瞬きを一つだけ挟む。


 箸が漬物を掴む。細い棒が滑る。

 左手首が微かに震える。箬は椀へ落ちた。


 戸外から子供の声が聞こえる。「物干竿が飯食ってる」

 大石の肩が縮む。背骨が天井へ伸びるかのように硬直する。


 粥をすくう。左手で椀を持ち上げる。

 掌が器を包む。巨大な手が粗末な椀を覆い隠す。


 噛まずに飲み込む。喉が熱い塊を受け入れる。

 左手の箸が、再び粥へ沈む。


 少年達の声は遠ざかっていく。

 大石は椀を置く。左手の指だけが白く痙攣していた。


 ◆


 帯を直し終えた手が垂れる。左手の指先だけが微かに震え続けていた。


 大石は立ち上がる。膝が重い。農具が倚りかかる戸口へ歩みを進める。


 表に出た。朝の光が目を刺す。左手で差し込む光を遮る。


「あいつ、見ろよ」

 路地の向こうから声がする。大石は顔を上げない。足下の土が乾いて割れている。


 左足から歩き出す。右に比べて歩幅が大きい。体がゆらぐ。


 肩に担いだ鍬の重みが左肩に食い込む。鎖骨の上で木柄が軋む。


 呼吸が浅い。胸が上下するたび、帯が締め付ける。


 道端の小石を左足が蹴る。石は溝へ転がり落ちた。


 農作業場の塀が見えてくる。左手が自然に鍬の柄を握りしめている。


 指の関節が白くなる。


 ◆


 塀の向こうに屋根が連なる。瓦の色が次第に濃くなる。


 車輪の音が軋む。荷を積んだ牛車が坂を上ってくる。大石は道端に避ける。


 左肩に残る鍬の痛みが、今は別の重みに変わる。


 息を深く吸い込む。胸が張り裂ける。


「さあ、行くぞ」


 声は唇の内側で消えた。左足を踏み出す。 塀を過ぎると道が二つに分かれる。右は城下町へ続く表通り。左は細い路地だ。


 大石は躊躇なく左を選ぶ。足取りが速くなる。


 路地の奥は薄暗い。湿った土の匂いが鼻をつく。呼吸が深くなる。


「左で字を書くんだ」

 表通りから子どもの声が風に乗る。大石の背筋が凍る。


 左足が水溜りを避ける。泥が跳ねる音だけが響く。


 巨躯が狭い路地を擦り抜ける。袖が壁に触れるたび、埃が舞う。


 喉が渇く。唾を飲み込むと、胸の奥が締め付ける。


 路地の突き当たりに光が見える。甲斐道場の瓦屋根だ。


 左手が自然と鍬の柄を離れた。指先が震えている。


「へんなの」

 もう一つの声が追いかける。大石は振り向かない。


 足元に影が伸びる。巨体の影が路地を這うように進む。


 光へと歩を早める。肩が壁にぶつかる。鈍い衝撃が鎖骨を伝う。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

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