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第14話 軒下で石を吊るす

 重みを支える準備が整う。


 軒下の梁を見上げる。高さが七尺の目線に合う。

 進は右手を上げた。紐の輪が梁を目指す。


 輪が空をくぐる。一発で梁を越えた。

 左腕が無意識に引き締まる。吊るされるべき重みを予感する。


 紐の端を左手で握り直す。石が宙に揺れる。

 進の呼吸が止まった。夕暮れの土間が稽古場に変わった。 進が振り返った。土間に伸びる自分の影が壁を歪める。


 左腕の影だけが巨大に伸びた。壁を覆い、梁に届く。


「…」

 彼は息を呑む。動かない左腕を凝視する。


 影だけが動く。夕暮れの光が角度を変えた。

 巨大な影の腕が石を吊るす動きを繰り返す。


 進の左腕が痺れた。重みがなかったのに、重みを感じる。

 肺が深く膨らむ。鼓動が左腕の先で脈打つ。


 影が巨大な拳を握る。壁の石組みを砕く幻が見える。

 彼は左手を開閉した。指の骨が軋む音がする。


「俺の腕は…」

 影は消えない。夕暮れが沈むまで刻印された。


 進の左腕が熱を持った。皮膚の下で血が騒ぐ。

 潜在能力が目覚めた。彼は左腕を見つめた。 土間の薄暗がりに物置き台が沈む。石と紐が待っていた。

「…」


 進は左手を伸ばした。指先が滑らかな石を捕らえる。

 冷たさが掌を刺す。重みが左腕の記憶を呼び起こす。


 古びた麻紐が木肌に丸まる。ほつれが皮膚を撫でる。

 右手で紐を掴む。繊維が軋む音が土間に響く。


 軒下の梁を見上げる。高さが巨躯に合う。

 進は右手を振るった。紐の輪が梁をくぐる。


 一発で輪が越えた。左腕が引き締まる。

 石を紐に結びつける。結び目が重みに耐える。


 石が宙に吊るされた。紐がぴんと張る。

 進は息を止めた。揺れる石が夕闇を刻む。


 左腕を差し出す。揺れる石が拳を狙う。

 皮膚が石の冷気を感じる。張り詰めた紐が弦のようだ。


 彼は左腕を引いた。石が弧を描く。

 呼吸が紐の張りに合わせる。一、二。


 石が突きを繰り返す。左腕が軌跡を追う。

 誰にも見せられない稽古場ができた。


 夕闇が深まる。石の影が壁を揺らす。

 進は左腕を見つめた。皮膚の下で血が騒いでいた。 揺れる石が進の拳を叩く。冷たい衝撃が骨を震わせる。

「…」


 石の動きを止める。左腕が重みを預かる。

 指先で紐の張りを確かめる。硬さが伝わる。


 石の表面に左手を添える。凹凸が皮膚を撫でる。

 重さが左腕の筋に染みる。かつて感じた感覚だ。


 石の位置がずれる。わずか一筋だけ。

 左腕を引き直す。関節がきしむ音。


 石の重心を見極める。指先で表面を探る。

 冷たさが左腕の奥に沈む。呼吸が浅くなる。


 紐の結び目を直す。指先に繊維の抵抗。

 石が再び吊るされる。揺れが収まる。


 左腕を差し出す。石が静止した。

 重みが一点に集まる。胸の鼓動と同期する。


 夕闇が石を包む。冷たい質感が残る。

 進は左腕を見つめた。皮膚の下で血が騒いでいた。 進は左足を前に踏み出した。かかとが土に食い込む。

 右足を後ろに引く。脛の筋が突っ張る。


 体軸がゆっくりと定まる。背骨が一本の柱になる。

 左腕を石に向けて突き出す。肩甲骨が前へ滑る。


 石は動かない。紐がぴんと張ったまま。

 左腕を引く。肘の関節が軋む。


 再び突き出す。拳が石の中心を狙う。

 重心が左足へ移る。右足のつま先が浮く。


 バランスが崩れる。体が右へ傾く。

 進は踏みしめて戻す。土間の埃が舞う。


 息を吐きながら突く。肺が縮む。

 左腕の筋だけが熱を帯びる。


 石の冷たさが拳に伝わる。突きは届かない。

 進は繰り返す。十回、二十回。


 額に汗がにじむ。首筋を伝う。

 左腕の動きだけが研ぎ澄まされていく。石が壁を揺らす。影だけが動く。

 進は左腕を突き出した。拳が石の中心を狙う。


 肩の関節が軋む。重みが骨を引き下げる。

 突きは石に届かない。冷たい空気が拳を撫でる。


 左腕を引く。紐が張り詰める音。

「…」


 再び突き出す。重心が左足へ移る。

 右足の裏が土から離れる。体が傾く。


 踏みしめて戻す。土間の埃が舞う。

 進は呼吸を合わせる。吐く息と突きが連動する。


 十回、二十回。額の汗が首筋を伝う。

 左腕だけが熱を帯びる。皮膚の下で血が騒ぐ。


 石は動かない。わずかに揺れるだけだ。

 進は拳を握り直す。指の骨が軋む。


 かつて感じたあの突きを思い出す。一本の筋が通る感覚。

 左腕の芯を石の中心へ伸ばす。視線を一点に定める。


 突く。引く。繰り返す。

 不格好な動きが続く。気にしない。


 石の冷たさが拳に染みる。重みが左腕の記憶を呼び起こす。

 彼はただ突き続けた。夕闇が深まるまで。


 ◆


 進は二五五六日目の突きを放った。

 石が壁をぶつかる音。紐が軋む。

「あの男に届け」


 過去の拒絶を振り切るように、左腕が伸びる。

 石臼場の暗がりが彼の巨躯を飲み込む。


 肩甲骨が滑る。重心が一点へ凝縮する。

 拳の皮膚が割れる。血の匂いが混じる。


 引く。また突く。呼吸が石の動きと同調する。

 十年分の孤独が左腕に宿る。


 かつて閉ざされた門が、今は筋肉の記憶となる。

 男谷精一郎の名が、突きに力を与える。


「必ず届く」

 声は震えず、低く響く。


 石が揺れる幅が増した。紐の軋みが高まる。

 進はその手応えを確かめるように、目を細めた。


 左腕の筋が唸る。骨が熱を持つ。

 すべてをこの一本に懸けた。


 夕闇の向こうに、剣聖の姿が見える。

 進はもう、恐れていない。 左腕の拳が割れた皮を引っ張る。夜露が石の表面を濡らす。

 進は最後の突きを放つ。


 視界の端が揺れる。地に落ちた露が浮き上がる。

 衝撃が空気を割る。紐が跳ねる音だけが残る。


 揺れる露の粒。石は微動だにしない。

 彼は拳を開く。掌から熱が立ち上る。


 左腕の内側から何かが抜けた。気の塊が散る。

 それが確かだと、進は腑に落ちた。


「男谷を倒す」


 巨躯が震える。喉から笑いが零れる。

 長い年月を振り返る必要はない。


 異形の腕が歪みを打ち砕く。武器へと昇華する。

 彼はただ石を見つめた。土間の闇が全てを飲む。


 ◆


 石臼場を背に、暗い道を歩く。


 長身は足を大きく開き、安定した歩調を生んだ。

 左手の指が無意識に動く。突きの感覚が残る。


「認められるか」


 言葉が口から漏れた。堀田新之助の顔が浮かぶ。

 土の道が軋む。足取りだけが確かだ。


 左腕の火照りが引かない。気の塊が抜けた跡が熱い。

 拳を握る。皮のひび割れが痛む。

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