王女
俺は誰よりも早く訓練場にいた。朝食前の一時間。この時間だけは、訓練場を独り占めできる。
木剣を振る。まめが潰れた手のひらに布を巻いて、その上から握る。痛い。でも振る。
昨日セリア先輩に直された構えを、体に叩き込む。足の幅。腰の高さ。手首の角度。一つずつ確認しながら、ゆっくり振る。
十回。二十回。三十回——
「邪魔よ」
声が降ってきた。
振り返ると、金髪の少女が訓練場の入り口に立っていた。
リーシャ。王女。国王の娘。
初日に玉座の間で見た少女。食堂でいつも一人で食べている少女。今は訓練着に着替えていて、腰に剣を帯びている。本物の剣。木剣じゃない。
「ここは私の訓練場所よ。毎朝この時間に使っているの」
冷たい声。見下ろすような目。王女の目だ。
「……先に来てたの、俺なんですけど」
「だから退いてと言っているの」
「一緒に使えばいいじゃないですか。広いんだし」
リーシャの目がわずかに見開かれた。たぶん、口答えされると思っていなかったんだろう。王女に逆らう人間は少ない。
「……あなた、ランク外の転移者ね」
「はい」
「ランク外が、朝から何をしているの」
「素振りです。何もないので、振ることしかできないんで」
リーシャが俺を見た。数秒。品定めするような、でも少しだけ違う目。
不意に、剣を抜いた。
銀色の刃が朝日を反射して光った。
「なら、退いてもらうわ。実力で」
構えが変わった。空気が張り詰める。訓練場の空気が、一瞬で冷えた。
「……模擬戦?」
「嫌なら逃げなさい」
逃げるという選択肢は、俺の中になかった。
木剣を構えた。
◇
リーシャは——強かった。
最初の一撃で分かった。Cランク相当。ディオンと同じか、それ以上。剣の軌道が鋭い。速い。重い。
木剣で受けた瞬間、腕がしびれた。一合目で弾き飛ばされかけた。
二合目。横薙ぎ。見えた。体を反らして避ける。
三合目。突き。来る。左に跳んで躱す。
四合目。上段。——間に合わない。木剣を上げて受ける。衝撃で膝が折れそうになる。
「なぜ」
リーシャの声に、苛立ちが混じった。
「なぜ避けられるの。あなた、ランク外でしょう」
「分からない。体が勝手に——」
嘘じゃない。本当に分からない。リーシャの剣が来る前に、体が動いている。どこに来るか、何となく分かる。理由は説明できない。ただ——見えるのだ。剣の軌道が。
五合目。六合目。七合目。
一発も当てられない。ワタルの木剣はリーシャに届かない。力も速さも足りない。でも——当たらない。リーシャの剣が、俺に当たらない。
八合目。
リーシャが踏み込んだ。今までと違う速度。フェイントを混ぜた二段攻撃。
一段目は避けた。二段目が——肩を掠めた。
木剣が手から弾け飛んだ。
石畳に膝をつく。肩が痛い。勝負は一瞬で決まった。
でも——八合。ランク外が、Cランク相当の王女と八合打ち合った。
リーシャが剣を下ろした。息が少し上がっている。
「……名前は」
「ワタル」
「覚えておくわ」
それだけ言って、背を向けた。訓練場の反対側に行き、一人で素振りを始めた。
俺は木剣を拾って、立ち上がった。膝が笑っている。肩が熱い。
でも——悪くない気分だった。
◇
その日の昼。食堂で、リクトが眼鏡を光らせていた。
「ワタルさん、今朝のことですが」
「……見てたのか」
「偶然通りかかっただけです。ですが興味深いデータが取れました」
リクトがノートを広げた。あいつ、いつ書いたんだ。
「あなたの反応速度は通常の人間の範囲を超えています。魔力が測定不能であるにも関わらず、Cランク相当の攻撃を8回避けた。これは偶然では説明できません」
「つまり?」
「あなたの中に、測定器では検知できない何かがある。それが反応速度に影響している可能性があります」
右手を見た。あの夜の黒い光。測定器が壊れた時の反応。
「僕はデータを集め続けます。いつか必ず、答えに辿り着きます」
リクトの目が真剣だった。こいつがこの目をしている時は、本気だ。
「……頼むよ、リクト」
「任せてください」
フタバが横からリクトのノートを覗き込んだ。
「なになに? ワタル先輩が王女様とバトルしたって?」
「バトルじゃないよ。模擬戦。つーか負けたし」
「でも8回避けたんでしょ? すごいじゃん!」
フタバが目をキラキラさせた。こいつの「すごい」のハードルは優しい。でも、今はそれが嬉しかった。
「ハルカ先輩も見てたよね。窓から」
「え」
フタバの言葉で、テーブルの向こうのハルカを見た。
ハルカが一瞬、目を逸らした。
「……ちょっとだけ」
「見てたのか」
「たまたま起きたら、窓の外で誰かが剣を振ってたから」
ハルカが笑った。いつもの穏やかな笑顔。でも、ほんの少しだけ——何かが混じっている気がした。
「ワタルはいつも誰かの前に立つね」
「……そうか?」
「うん。昔からそう。フタバちゃんが泣いてた時も。転移した時も。今朝も」
ハルカが俺を見た。真っ直ぐに。
「——それが、好きなんだけど」
最後の一言が、ものすごく小さかった。聞こえたのか聞こえなかったのか、微妙なライン。
「え、何?」
「なんでもない」
ハルカがスープに口をつけた。耳が少し赤い。
フタバがにやにやしている。リクトは我関せずでノートに何か書いている。ユウスケは隣で黙々と食べている。三杯目のスープに手を伸ばしていた。
◇
——一方。
食堂の窓際の席。
リーシャは一人で食事をしていた。いつもと同じ席。いつもと同じ距離。誰も隣に座らない。
目の前にスープとパン。銀のスプーンでスープを掬い、口に運ぶ。美味しいはずだ。でも、味がしない。いつからか、食堂の料理の味が分からなくなっていた。
周囲の笑い声が聞こえる。友達同士で騒いでいる。肩を組んでいる。食べ物を分け合っている。
——私には、そういうものがない。
王女。その称号が、壁になっている。誰も対等に接してくれない。「王女殿下」と呼ばれ、道を開けられ、頭を下げられる。誰も怒らない。誰も笑わない。誰も——ぶつかってこない。
今朝の転移者は、違った。
「先に来てたの俺なんですけど」。
あの言い方。王女に向かって。普通なら不敬だ。処罰されてもおかしくない。
なのに——腹が立たなかった。
むしろ。
むしろ、少しだけ。
……嬉しかった。
認めたくはない。でも。
あの男——ワタル。ランク外。才能もない。魔力もない。何もないくせに、8回も避けた。
そして、退かなかった。
王女に退けと言われても、退かなかった。
それが——
スープが、少しだけ味がした。
スプーンを置いた。窓の外を見た。訓練場が見える。朝、あの男が木剣を振っていた場所。
「……ワタル、か」
小さく呟いた。自分でも驚くほど自然に、名前が出た。
——何を考えているの、私は。
スープの残りを飲み干した。味がした。今日は——味がした。
◇
夜。寮の自室。
ベッドに横になって、天井を見ている。
リーシャのことを考えていた。
あの目。戦っている時の鋭い目。でも、剣を収めた後の目は違った。
寂しそうだった。
強いのに、寂しそうだった。王女で、Cランクで、誰よりも剣が上手くて。でも、食堂ではいつも一人で——
あの目を、俺は知っている。
昔、フタバが丘の上の木の下で泣いていた時と同じ目だ。
独りぼっちの目。
誰かに見つけてほしいのに、誰も来ない時の目。
——あの時、俺はフタバに声をかけた。「大丈夫だよ」って。
リーシャに、同じことができるだろうか。ランク外の俺が、王女に。
答えは出なかった。でも、胸の奥に小さな棘が刺さったまま——眠りについた。
王女は強かった。
でも、どこか寂しそうだった。




