二つの月
眠れなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打って、天井を見て、目を閉じて、また開けた。
ランク外。その二文字が消えない。
昼間の講堂。光の文字が点滅して、「ランク外」と表示された瞬間。周囲のざわめき。「あいつだけ一般人」という声。
——悔しいのは、否定できないからだ。
ユウスケには風がある。ハルカには光がある。フタバには火があって、リクトには地がある。俺にだけ、何もない。それが事実で、覆しようがない。
右手を見た。暗がりの中で、自分の手のひらを見つめた。あの夜、黒い光が弾けた手。でも今は、何もない。
時計を見た。深夜二時。
「……散歩でもするか」
ベッドから出て、上着を羽織った。寮の廊下に出る。魔素灯が夜間モードで、淡い青白い光を放っている。静かだ。自分の足音だけが響く。
廊下の突き当たりに、大きな窓がある。
月明かりが差し込んでいた。二つの月。大きい方の月が、校庭を銀色に照らしている。
——何か、動いた。
校庭の向こう。学園の外壁沿いに、影が移動している。
人影だ。一つ、二つ。三つ。——数えきれない。
俺は窓に顔を近づけた。
騎士だった。
鎧を着た騎士たちが、一列に並んで歩いている。整然と。一定の間隔で。一定の速度で。
足音がない。
あれだけの人数が歩いているのに、一切の音がしない。革靴が石畳を踏む音も、鎧が擦れる音も。まるで影だけが歩いているみたいに、無音で進んでいく。
月明かりが、先頭の騎士の顔を照らした。
——目が、空っぽだった。
昨日、城の廊下ですれ違った騎士と同じだ。光がない。表情がない。生きている人間の目じゃない。
五人。十人。二十人。次々と外壁沿いを通過していく。全員が同じ虚ろな目。同じ無表情。同じ歩幅。
人形の行進だ。
背筋が凍った。
「——見たのね」
声。すぐ後ろから。
跳ね上がるように振り返った。
セリア先輩が立っていた。腕を組んで、壁にもたれている。いつからいたのか分からない。
「せ、先輩……」
「眠れないのは分かるわ。でも深夜に寮を出歩くのは感心しないわね」
「あの人たちは——」
「ナンバーズ」
セリア先輩が窓の外を見た。声の温度が、少し下がった。
「王族直属の最強戦力。通常の騎士団とは別の指揮系統で動く」
「最強……?」
「一人で騎士十人分の戦力があると言われている。痛みを感じない。恐怖も感じない。疲労もしない。命令に絶対服従する、完璧な兵器」
兵器。人間を、兵器と呼んだ。
「あの人たちは……生きてるんですか」
セリア先輩は少し黙った。
「……生きてはいるわ」
声が小さくなった。
「でも——もう、人間じゃない。かつては優秀な騎士だった。私たちと同じように学園で学び、剣を振り、仲間と笑い合っていた人たち」
——だった。過去形だ。
「何が、あの人たちをあんな風に?」
セリア先輩が俺を見た。目が鋭い。でも、その奥に——怯えがあった。この人も、怖いんだ。
「……忘れなさい」
「でも——」
「忘れなさい、ワタル。あなたには関係のないことよ」
セリア先輩が背を向けた。
「部屋に戻りなさい。明日から訓練が始まるんだから。寝不足では剣も振れないわよ」
足音が遠ざかっていく。
俺は窓の外を見た。ナンバーズの行列は、もう見えなくなっていた。
——忘れろ、と言われた。
でも、忘れられなかった。あの虚ろな目が、脳の奥にこびりついて離れない。
かつては笑っていた人たち。仲間がいた人たち。
それが——ああなった。
◇
部屋に戻る気になれなくて、屋上に出た。
夜風が冷たかった。見上げると、二つの月が並んでいる。星が多い。元の世界より、ずっと多い。
——先客がいた。
「ハルカ」
屋上の柵にもたれて、空を見上げている横顔。風が長い髪を揺らしている。
「……ワタル」
ハルカが振り返った。少し驚いた顔。でもすぐに、いつもの穏やかな表情に戻った。
「眠れないの?」
「ああ。……お前もか」
「うん」
隣に立った。二人で月を見上げた。しばらく、何も言わなかった。
風の音だけが聞こえる。遠くで虫が鳴いている。この世界の虫は、少し音程が高い。
沈黙は気まずくなかった。ハルカとの沈黙は、昔からそうだ。何も言わなくても、隣にいるだけで落ち着く。
「怖い?」
ハルカが聞いた。空を見たまま。
「……少しだけ」
正直に答えた。ハルカの前では、格好をつけられない。
「この世界のこと。帰れるか分からないこと。俺だけランク外なこと。……全部、少しだけ怖い」
「うん」
「お前は?」
「私も。怖い」
ハルカが俺を見た。月明かりの中で、目が少し光っていた。泣きそう——じゃない。違う光だ。
「でも、ワタルがいるから大丈夫」
「……俺、ランク外なのに?」
自嘲するつもりはなかった。でも口に出たら、思ったより情けない声だった。
ハルカが笑った。
月明かりの中で、柔らかく笑った。
「ランクなんて関係ないよ」
真っ直ぐに、俺を見て言った。
「ワタルはワタルでしょ」
——ずるい。
なんでこいつは、こういう時にこういうことを言えるんだ。
胸の奥がじわっと温かくなった。さっきまで凍っていた場所が、溶けていくみたいに。
目が熱くなりそうで、空を向いた。二つの月が滲んで見えた。
「……サンキュ」
「どういたしまして」
また沈黙。でも、さっきまでとは違う沈黙だった。温かい沈黙。
右手がかすかに疼いた。あの黒い光の残響。痛みじゃない。何かが応えるみたいに、脈打っている。
俺は何者なんだろう。この右手には何があるんだろう。
分からない。でも——隣にハルカがいて、同じ月を見ている。それだけで、もう少し頑張れる気がした。
「明日から、剣の訓練だ」
「うん。頑張ってね」
「ああ。——ランク外から始めてやる」
ハルカが笑った。今度は声を出して。
「ワタルらしい」
二つの月が、俺たちを照らしていた。
明日から、剣と魔法の授業が始まる。
何も持っていない俺だけど——隣に、みんながいる。
それだけで、もう少し走れる。




