卒業
卒業式の朝。
寮の部屋で礼装に着替えた。鏡を見る。三年前、この部屋に来た日のことを思い出す。ランク外。木剣も振れない。右手に何かが眠っていて——怖かった。
今、鏡の中にいるのは——Bランクの闇属性の騎士。影喰みの剣を影に収め、ノクスが肩に座っている。
同じ俺だ。でも、同じじゃない。
◇
大ホール。三年前、召喚獣契約の授業を受けた場所。
卒業生が並んでいる。六人が壇上に立った。
学園長の挨拶。教官たちの祝辞。観客席に先輩たち。セリア先輩が笑っている。後輩たちが手を振っている。ノエルが泣いている。もう泣いてる。
代表挨拶。リーシャが壇上に立った。王女として。学年首席として。
金髪が魔素灯に照らされている。背筋が真っ直ぐ。堂々としている。——でも俺は知っている。あの手が、少しだけ震えていることを。
「私は、この学園に入るまで一人でした」
リーシャの声が、大ホールに響いた。いつもの冷たい声ではなかった。
「王女という肩書きの中に閉じ込められて、誰にも本当の自分を見せられなかった。……でも、ここで出会った人たちが、壁を壊してくれた」
観客席が静まっている。
「壁を壊したのは——肩書きも才能もない、ただ退かないだけの、馬鹿みたいに真っ直ぐな人たちでした」
俺を見た。一瞬だけ。すぐに視線を戻した。
「卒業します。でも——ここで得たものは、王冠より重い。ありがとうございました」
頭を下げた。王女が。全校生徒の前で。
拍手が鳴った。大ホール全体が。
客席でフタバが鼻をすすっている。ガルド先輩が目を拭っている。大の大人が。
◇
卒業の夜。
六人で寮の屋上に集まった。最後の夜。明日からは、もうこの寮にはいない。
俺が作ったものを、テーブルに置いた。
鍋。蓋を開ける。湯気。香辛料の匂い。茶色いルー。
カレー。
三年かけて完成させたレシピ。リクトが配合を改良し続けた。百二十七回の試行錯誤。異世界の食材で、元の世界の味を再現する。
最初は82点だった。今日は——
フタバが一口食べた。
目が見開かれた。スプーンが止まった。
「……これ」
声が震えた。
「お母さんの——カレーだ」
フタバの目から涙が溢れた。
「お母さんのカレーの味がする……! ワタル先輩、これ、お母さんの——」
泣きながら食べている。スプーンを置かない。涙がカレーに落ちている。
ユウスケが一口食べた。
「……悪くない」
それだけ言って、二杯目を取った。
ハルカが食べた。目を閉じた。「……うん。懐かしい」。ルミが肩の上でカレーの匂いを嗅いでいる。
リクトが食べた。「百点です」と静かに言った。三年前、フタバに「デザートでは補填できません」と言った男が。
リーシャが食べた。初めてのカレー。
「……何これ。美味しい」
「だろ」
「こんな美味しいもの、元の世界にあるの?」
「ああ。帰ったら、フタバのお母さんのカレーを食わせてやる」
リーシャが少しだけ目を細めた。「……楽しみにしてる」
六人でカレーを食べた。屋上で。星の下で。召喚獣たちが周りにいて、ノクスが鍋に顔を突っ込もうとしてフェンリルに引っ張り出された。
——最高の晩餐だった。
◇
翌朝。早朝。
六人であの遺跡に向かった。転移してきた日に辿り着いた場所。王都から半日の距離。最後の遠出だ。
昼過ぎに着いた。丘を登る。空が青い。
大きな木が見えた。
元の世界の丘の上の木と同じ形。同じ大きさ。枝が空に広がり、葉が風に揺れている。
六人で木の下に立った。
——ふと、幹に目が止まった。
「……嘘だろ」
木の幹。目の高さより少し低い位置。小さな文字が刻まれていた。
ワタル。ユウスケ。ハルカ。フタバ。リクト。
五人の名前。俺たちが小学生の時に、元の世界の丘の木に刻んだ名前。子供の字。下手くそで、深さがバラバラで。
——こっちの木にも、ある。
「これ……私たちが刻んだ……」ハルカが震える指で文字を触った。
「繋がってる。やっぱりこの木と、元の世界の木は——同じだ」
「転移の座標が一致するのは、樹木間の魔素接続が——」リクトが言いかけて、やめた。眼鏡を外して、目を拭った。データじゃない。感情だ。
フタバが自分の名前を指でなぞった。「小学生の時に刻んだんだよね……」。声が震えている。
ユウスケが黙って幹を見ていた。右手で、自分の名前に触れた。
「この木の下で、約束しよう」
俺が言った。
「帰ったら——元の世界の、あの丘の木の下で、また会おう。全員で」
右手を前に出した。
ユウスケが重ねた。「ああ」
ハルカが重ねた。「約束」
フタバが重ねた。「絶対!」
リクトが重ねた。「必ず」
五人の手が重なった。
リーシャが——少し離れて立っていた。
「私も……いい?」
小さな声。リーシャらしくない、遠慮がちな声。
「当たり前!」フタバが叫んだ。
リーシャが手を重ねた。六人の手が、一つに。
「約束だ」
全員が言った。同時に。
俺は影喰みの剣を影から取り出した。
「何をするの?」リーシャが聞いた。
五人の名前の横に、刃を当てた。掘る。一文字ずつ。
リーシャ。
「元の世界の木には五人の名前しかない。でもこの木には——六人目を刻む」
「ここに刻めば……向こうの木にも現れるかもしれない」ハルカが微笑んだ。
「根拠はゼロですが——」リクトが眼鏡を押し上げた。「試す価値はあります」
「リーシャも、俺たちの一人だから」
リーシャが唇を噛んだ。泣きそうで、泣かない。この子のプライドが、涙を許さない。
でも——剣を受け取って、自分の名前の下に、小さく掘り足した。
ソラ。
「……ソラも、仲間でしょう」
フタバが「フタバも!」とガントレットで乱暴に掘った。ガン。文字が太い。ガルド先輩の影響だ。
全員が掘った。ノクス。フェンリル。ルミ。シェル。六人と六体の名前が、木の幹に刻まれた。
午後の光が六人を照らしていた。大きな木の影が伸びている。葉擦れの音。風。鳥の声。
ノクスが俺の肩から木を見上げていた。
あの目だ。
悲しそうな目。深くて、静かで——何かを知っている目。
今まで何度も見た。召喚獣契約の夜。ダンジョンの後。夏の夜。
——なぜ、お前はそんな目をするんだ。
今は聞かない。今日は——約束の日だから。
◇
夕暮れ。王都の門の前。
リーシャだけが、別の道に行く。近衛騎士団への配属。王女として。
五人とリーシャが向き合った。
「また会えるわよね」
リーシャの声が、少しだけ震えていた。
「当たり前だ。約束しただろ」
「……そうね。約束」
フタバがリーシャに抱きついた。「リーシャ、元気でね!」「……苦しい」。でも手を振り払わなかった。
ハルカがリーシャの手を握った。「また一緒にお茶しようね」「……ええ」
リクトが頭を下げた。「データの共有、続けましょう」「あなたらしいわね」
ユウスケが無言で拳を差し出した。リーシャが拳を合わせた。剣士同士の敬意。
俺が最後だった。
「リーシャ」
「何」
「強くなれよ」
「あなたに言われたくないわ」
笑った。二人で。
リーシャが背を向けた。歩き出す。ソラが肩の上で翼を広げた。
五歩。十歩。
振り返った。
「馬鹿」
声が震えていた。
「——絶対よ」
それだけ言って、走っていった。振り返らなかった。金髪が風に揺れて、小さくなっていく。
フタバが泣いていた。ハルカが目を拭った。ユウスケが空を見上げた。リクトが眼鏡を押さえた。
俺は——リーシャが見えなくなるまで、立っていた。
◇
最後の夜。
ハルカと二人で、寮の屋上にいた。二つの月。最後の月。
「明日から、違う場所だね」
「ああ。騎士団に配属される。たぶん、前線の近く」
「……怖い?」
「少しだけ」
「私も」
沈黙。風が吹いている。ハルカの髪が揺れる。
「でも——離れない」
俺が言った。
「約束だから。丘の上の木の下で、また会う。全員で」
「うん」
ハルカの指先が、俺の指先に触れた。握らない。でも、触れている。温かい。
「ワタル」
「ん」
「帰ったら——ちゃんと言ってね。言いたいこと」
——ハルカは、知っている。俺がまだ言えていないことを。
「……ああ。帰ったら。絶対に」
もう一つの約束。まだ言葉にできない約束。
でも——帰ったら。あの丘の木の下で。あの夕暮れの中で。
必ず。
丘の上の大きな木の下で、約束を交わした。
「帰ったら、またここで」。
——その約束を守れるかどうかは、まだ知らなかった。




