湯けむりと策謀
学園の大浴場は、月に一度の特別開放日がある。
普段は小さな寮の風呂しか使えないが、この日だけは全校生徒に開放される。温泉に似た魔素水。疲労回復効果あり。
——要するに、ご褒美の日だ。
男子浴場。
湯気の向こうに、だだっ広い湯船。魔素灯が淡い光を放ち、幻想的な雰囲気——を、ぶち壊すように。
「お前、ハルカのこと好きだろ」
ユウスケが唐突に言った。
俺は湯の中に沈んだ。顔まで。泡がぶくぶくと上がる。
「図星か」
「……ぶくぶく」
「統計的に、思春期の男性が特定の女性に対して頻繁に視線を向ける場合——」
「リクト、黙れ」ユウスケが遮った。
「——好意の確率は九十七パーセントです」
「黙れと言ったんだが」
俺は顔を上げた。湯が顎から滴る。
「別に、好きとかじゃ——」
「嘘つけ」ユウスケが即答した。
「データ上も同意見です。月明かりの屋上で二人きりの時、ワタルさんの心拍数は平常時の一・七倍でした」
「リクト、お前いつ測った!?」
「シェル経由です。常時計測しています」
「やめろ! プライバシー!」
ユウスケが鼻で笑った。こいつら、楽しんでる。
「……そっちはどうなんだよ、ユウスケ」
「俺は別にいない」
「嘘だろ。リーシャとの模擬戦、毎日やってるじゃねーか」
「あれは剣の話だ」
「剣の話で毎日一時間も打ち合うか?」
「打ち合う」
真顔で返された。こいつは本気で剣の話しかしてない可能性がある。
隣の湯船から、知らない男子の声が聞こえた。
「なあ、光属性のハルカさんって、彼氏いるの?」
「いないんじゃない? いつも転移者のグループで固まってるけど」
「俺、舞踏会で誘おうかな」
「やめとけ。あの闇属性のやつが怒るぞ」
「あいつ? ランク外の? 付き合ってんの?」
「分かんないけど、いつも隣にいるじゃん」
——湯の温度が、急に上がった気がした。顔が熱い。湯のせいだ。湯のせい。
ユウスケがこっちを見ている。見るな。
「……動揺してるぞ」
「してない」
「九十七パーセントが九十九に上がりました」リクトが言った。
「黙れ」
◇
一方、女子浴場。
「ハルカお姉ちゃん、スタイルいい〜!」
「やめてよ、フタバ……」
ハルカが肩まで湯に沈んだ。フタバが遠慮なく見ている。十二歳の無邪気は凶器だ。
リーシャが端の方で、そっと湯に入った。タオルで体を隠している。
「リーシャ、こっちこっち!」フタバが手招きする。
「……近づかないで。騒がしいわ」
「えー。じゃあ恋バナしよ!」
リーシャが固まった。
「ねえねえ、好きな人いる?」
沈黙。湯気が漂う。
リーシャの耳が——赤くなった。湯の温度のせいじゃない。
「い、いないわよ。そんなもの」
「嘘だー。耳赤いもん!」
「湯が熱いだけよ!」
フタバがリーシャに近づいた。リーシャが後退る。湯がぱしゃぱしゃ揺れる。
「ねえリーシャ、髪洗ってあげる!」
「は? 自分で洗えるわよ」
「いいからいいから! リーシャの髪きれいなんだもん。触りたい!」
「触るな——」
フタバがもう触っていた。金色の長い髪に指を通して、湯で流している。リーシャが抵抗を諦めた。
「……勝手にしなさい」
「やった! ハルカお姉ちゃんもこっち来て!」
ハルカが笑って隣に来た。二人でリーシャの髪を洗っている。リーシャは背を向けたまま、黙っていた。
「リーシャの髪、すっごいさらさら。どうやってるの?」
「……別に。何もしていない」
「嘘だー。絶対手入れしてるー」
「していないと言っている」
ハルカが優しく髪を梳かした。「リーシャ、髪、腰まであるんだね。小さい頃から伸ばしてるの?」
リーシャが少し黙った。
「……母上が。伸ばしなさいと。母上も——長かったから」
声が小さくなった。母上の話は、ほとんどしない。
フタバとハルカが顔を見合わせた。
「じゃあ——大事な髪だね」ハルカが言った。静かに。
「……そうよ」
フタバが丁寧に髪を流した。さっきまでの雑さが消えて、そっと、大事に。
「フタバ、丁寧にやるね。ありがと」
「だって大事な髪だもん」
リーシャの肩が——少し震えた。泣いてはいない。でも——何か、ほどけたものがあった。
「……あなたたち」
「ん?」
「友達に——こういうこと、するものなの?」
フタバが首を傾げた。ハルカが微笑んだ。
「するよ。友達だもん」
リーシャが振り返った。目が赤い。湯気のせいだと言い張るだろう。
「……そう」
笑った。小さく。不器用に。でも——本物の笑顔。
ソラが浴場の入口で翼を畳んで待っていた。主人が笑ったのが分かったのか、小さく「きゅ」と鳴いた。
「ハルカお姉ちゃんは? 好きな人いるー?」
ハルカが一瞬、口を閉じた。
それから——穏やかに笑った。
「……いるよ。ずっと」
フタバが「えー! 誰誰!?」と身を乗り出す。ハルカは笑って首を振った。
リーシャが湯の中で、ハルカの横顔を見ていた。
——分かっている。誰のことか。
リーシャは何も言わなかった。ただ、湯にもう少し深く沈んだ。
風呂上がり。全員が休憩室に集まった。
この世界にも牛乳に似た飲み物がある。魔獣乳。味はほぼ牛乳。名前だけが怖い。
腰に手を当てて飲む。なぜか全員同じポーズになった。
「「「ぷはー」」」
笑った。六人で。
外では召喚獣たちが水浴びをしていた。フェンリルが優雅に泳いでいる。ガンが水鉄砲のように鼻から水を噴射して、フタバがびしょ濡れになった。「ガン!!」
ノクスだけが断固として水を拒否していた。木の上に逃げて「クゥクゥ!」と抗議している。
「ノクス、降りてこい」
「クゥ!」
嫌だ、の意味だ。こいつ、闇の竜のくせに水が怖い。
◇
翌週。
クラス対抗戦の掲示が出た。
六人一チームのトーナメント。学年全クラスが参加。勝てばランキングポイントが大量に入る。個人戦と違い、チーム戦は召喚獣の使用が許可されている。六人と六体。総力戦だ。
「やるぞ」
「もちろん」
六人で拳を合わせた。ノクスが上から飛び乗って、六つの拳の上にちょこんと座った。
——その頃、別のチームで。
ディオンが対戦表を見ていた。
腕を組んで、壁に背を預けて。銀灰色の目が、一つの名前で止まる。
ワタル。
——家は没落した。名前だけが残った。
父が事業に失敗し、母は病に倒れ、家督は形だけ。ディオンが騎士になるしか、家を立て直す道はなかった。
だから努力した。血反吐を吐いて。夜明け前から日が暮れるまで剣を振って。才能がないなんて言われたくなかった。才能がないのは分かっていたから。それでも——Cランクまで来た。実力で。
なのに。
ランク外のあいつが、禁忌の力で一気に追いついてきた。俺が何年もかけて積み上げたものを、数ヶ月で。
許せなかった。妬ましかった。
——いや。
怖かったのかもしれない。
あいつの目が、俺と同じだったから。
「退かない」目。何も持っていない者の目。何もないところから這い上がるしかない者の目。
同じ目をした人間に、先を越される恐怖。
……だが。
あいつは、手を差し出した。あの試合の後。倒れた俺に。
誰もそんなことをしてくれたことはなかった。没落貴族の息子に、手を差し出す人間は。
拳を握った。
——次は、負けない。今度こそ。
◇
一回戦。
相手チームは平均的な構成。前衛二人、後衛三人、回復一人。
ワタルが闇の剣で突っ込んだ。ユウスケが風で援護。フタバとガンが横から突進。
三分で終わった。
「強すぎない……?」と観客が呟いた。
二回戦。
ここで苦戦した。
相手チームに解析型の生徒がいた。リクトと同じタイプ。こちらの動きを読んで、弱点を突いてくる。
「ワタルの闇の剣は右腕に集中している! 左からの攻撃に0.5秒遅れる!」
相手の解析が的確だった。ユウスケの風のパターンも読まれた。フタバの突進ルートも予測された。
押されている。
「リクト!」
「分かっています」
リクトが目を閉じた。シェルの甲羅が高速で明滅する。データを処理している。
三秒。五秒。
「——見つけました」
リクトの目が開いた。
「相手の解析型は中央後方に位置しています。彼を守る前衛の左翼——防御の切り替えが0.3秒遅れる癖がある。次の攻撃サイクルで必ず隙が生まれる」
0.3秒。
「ユウスケさん、次の攻撃から三手目。左翼の防御が落ちます。そこを突いてください」
「了解」
「ワタルさん、その瞬間に闇の球を中央に。陽動です」
「分かった」
「フタバさん、右翼から回り込んで。ガンの突進で解析型を直接——」
「任せて!」
開始。
ワタルの闇の球が中央に飛ぶ。相手が防御に集中する。
一手。二手。三手目——
「今です!」
リクトが叫んだ。
ユウスケの風が左翼を貫いた。0.3秒の隙を正確に突いた。前衛が崩れる。
その裏で、フタバとガンが右翼から回り込んだ。解析型の生徒に直進する。
相手の解析型が気づいた時には——ガンの突進が目の前だった。
吹き飛んだ。相手チームの指令塔が落ちた。
残りは三十秒で片づいた。
「リクト! すごい!」フタバが叫んだ。
「データは嘘をつきませんから」
リクトが眼鏡を押し上げた。シェルの甲羅が誇らしげに光った。
——解析で戦場を覆す。リクトの武器は、剣でも魔法でもない。頭脳だ。
◇
準決勝も勝った。
そして——決勝の対戦表が発表された。
ワタルチーム vs ディオンチーム。
闘技場で、ディオンと目が合った。
銀灰色の目が、真っ直ぐに俺を見ている。
あの日、手を差し出した相手。「次は負けない」と言った男。
——来た。
「望むところだ」
俺が言うと、ディオンの口元が——上がった。
決勝の相手は、ディオン。
因縁の対決が、始まる。




