喪失
あの夜から、一週間が経った。
師匠は見つかっていない。指名手配の光の文字が、毎朝掲示板で点滅している。
道場で見つけた木剣を、毎日握った。
師匠の字。「退くな。折れるな」。
朝の二時間。放課後。夜。一人で素振りをした。師匠の声が聞こえる。「足。腰。手首」。いないのに——聞こえる。
闇を纏わせてみた。黒い光が刀身を包む。以前より安定している。でも——師匠に見てもらえない。
「悪くないな」と言ってもらえない。
酒瓶を置いてくれる人がいない。
◇
その日は、朝から空気が違った。
教官たちがばたばたと走り回っている。廊下に緊張が走っている。何かが起きた。
学園の掲示板に、新しい光の文字が浮かんだ。
『元S級騎士ガレスは、逃亡中に追手との戦闘で死亡したことが確認された』
文字が目に入った瞬間、足の感覚がなくなった。
「嘘だ」
声が出た。自分の声だと分からなかった。
「嘘だ。師匠が——死ぬわけない」
あの人はS級だ。元最強の騎士だ。俺が全力で挑んでも一太刀も入れられなかった人だ。追手ごときで——
証拠品として、一本の剣が展示されていた。
見覚えがあった。師匠の剣。いつも腰に帯びていた銀の剣。刃が折れていた。
「……」
何も言えなかった。
握りしめた木剣の柄に、「退くな。折れるな」の文字が食い込んでいた。
◇
その日から、世界が灰色になった。
授業に出た。何を習ったか覚えていない。食堂で食べた。何を食べたか覚えていない。
仲間が隣にいてくれた。フタバが話しかけてくれた。ハルカが手を握ってくれた。ユウスケが黙って隣を歩いてくれた。リクトが「データ上、悲嘆反応は平均七日で——」と言いかけて、フタバに口を塞がれた。リーシャが「無理に笑わなくていいわ」と言った。
——全部、ありがたかった。でも、届かなかった。
毎朝、道場に行った。もぬけの殻の道場で、一人で素振りをした。師匠の声が聞こえる。「遅い」「軽い」「もう一回」。
いないのに、聞こえる。
五日後。もう一つの報告が届いた。
ロイド師範——ユウスケの師匠が、戦死した。
公式発表では詳細は伏せられていた。だが学園内の噂は早い。
「ロイド師範がガレスを追ったらしい」
「一人で追って——戦って——」
「何があったか、誰も知らない」
詳細は不明。分かっているのは——ロイドが、ガレスを追って、帰ってこなかったこと。
ユウスケが廊下の壁に拳を叩きつけた。
石壁にひびが入った。拳から血が流れた。
「……くそっ」
低い声。震えている。怒り。悲しみ。どちらか分からない。両方だ。
あの夜「剣を振り続けろ」と言ったロイドの声。あれが——最後の言葉だったのか。
俺は何も言えなかった。ユウスケの隣に立って、何も言えなかった。
二人とも——師匠を失った。
◇
夜。屋上。
俺とユウスケが並んで座っていた。
二つの月。いつもと同じ月。でも、今日は——何もかもが遠い。
長い沈黙。
風の音。虫の音。音は聞こえている。でも意味がない。言葉が言葉として入ってこない。
「……師匠は、最後に何か言ってたか」
ユウスケが聞いた。月を見たまま。
「去り際に——『もっと強くなれ』と。そっちは」
「……『剣を振り続けろ』と」
また沈黙。長い沈黙。
ロイド師範は真面目な人だった。ガレス師匠とは正反対で、姿勢が良くて、口数は少ないけど的確で、ユウスケと似ていた。
ガレス師匠とロイド師範は親友だった。若い頃、エレアという女性と三人で最強と呼ばれた。エレアは国王の命で犠牲になった。何があったかは分からない。師匠は飲んだくれになった。ロイドは真面目すぎるほど真面目になった。二人とも——壊れたまま、生きてきた。
そして今——二人とも、いなくなった。
エレアのいない世界で、ガレスが消えて、ロイドも消えた。あの写真の三人は——もう誰も、いない。
「……泣くなよ」
ユウスケが言った。
「お前こそ」
俺は返した。
二人とも——泣いていた。
声を出さずに。月を見上げたまま。頬を伝うものを拭いもせずに。
フェンリルがユウスケの足元で静かに寄り添っていた。ノクスが俺の肩で、小さな体を擦りつけていた。
何も言えない夜。何も変えられない夜。
ただ——隣にいた。
◇
それから三日間、俺は部屋から出なかった。
食事も取らなかった。訓練にも行かなかった。
ベッドの上で天井を見ていた。何も考えられなかった。考えると、師匠の背中が浮かぶ。月明かりの中を歩いていく背中。だんだん小さくなって——消える。
闇の剣を出そうとした。出なかった。
師匠に教わった全てが、痛かった。構えを取ると師匠の声が聞こえる。「足。腰。手首」。素振りをしようとすると手が止まる。「遅い。もう一回」。
——もう一回は、ない。
もう二度と、師匠に転がされることはない。
枕元に、あの木剣が立てかけてある。「退くな。折れるな」。師匠の字。
退きたい。折れたい。今は——全部投げ出したい。
ノクスだけがそばにいた。俺の膝の上で丸くなっている。動かない。ただ、温かい。
時々、俺を見上げる。あの目で。悲しそうな目で。
「……お前だけだな、ここにいるの」
「クゥ」
小さな声。温かい声。
ノクスが頬を俺の手に擦りつけた。ぐりぐりと。いつものように。
——こいつだけは、最初から変わらない。
◇
四日目の朝。
ドアが蹴破られた。
——比喩じゃなく、本当に蹴破られた。
「ワタル先輩! いつまで閉じこもってるの!」
フタバだった。仁王立ち。目が真っ赤。泣いていた。怒っていた。両方。
「フタバさん、もう少し穏やかに……」
リクトが後ろで額を押さえていた。扉の蝶番が壊れている。弁償だ。
「師匠がいなくなって辛いのは分かる! でもワタル先輩が閉じこもったら——フタバたち、どうすればいいの!?」
フタバの声が震えていた。
「ワタル先輩がいないと——誰が前に立つの。誰が『大丈夫』って言ってくれるの」
——ああ。
そうだった。
俺が閉じこもっている間も、あいつらは心配して、待っていて——
「ワタルさん。データ上、三日間の絶食は身体に深刻な影響を与えます」リクトが眼鏡を押し上げた。「生物学的に許容できません」
お前はそっちの心配か。——でも、ありがたかった。リクトらしくて。
ユウスケが入ってきた。無言で。俺の前に立って、手を差し出した。
「立て」
一言。
——こいつも師匠を失っている。こいつも辛いはずだ。なのに、俺より先に立ち上がっている。
リーシャが扉の外に立っていた。中には入らない。でも——いる。
「早くしなさい。食堂が閉まるわ」
不器用。最高に不器用。
そして——ハルカが入ってきた。
何も言わなかった。俺の隣に座って、手を握った。
闇の剣を握った手。師匠に教わった手。何もできなかった手。
その手を——ハルカが、温かく握っていた。
「……行こう、ワタル」
目が熱くなった。
ユウスケの手を取った。立ち上がった。膝が笑っている。三日間何も食べていないから。
枕元の木剣が目に入った。「退くな。折れるな」。
——退かない。折れない。
フタバが鼻をすすった。リクトがノートに何か書いた(たぶん「回復初日」とか書いている)。ユウスケが「飯食うぞ」と言った。リーシャが背を向けて先に歩き出した。ハルカが俺の手を離さなかった。
ノクスが肩に飛び乗った。「クゥ」と鳴いた。
——師匠はいない。
ロイド師範もいない。
二人の師匠が教えてくれたことは、まだ俺の中にある。
ユウスケの中にもある。
消えていない。消えない。
木剣に刻まれた六文字が、背中を押している。
食堂のスープは、温かかった。




