師匠の木剣
指名手配の翌日から、世界が二重に歪んだ。
廊下を歩く。すれ違う生徒が道を開ける。昨日までは「闇属性」を恐れていた。今日からは「裏切り者の弟子」が加わった。
「あいつの師匠、反逆者だろ」
「やっぱり闇属性は……」
「近づかない方がいいって」
囁き声が、刃のように刺さる。
——師匠は裏切ってなんかいない。
そう叫びたかった。でも叫べない。国王の密談を盗み聞きしただけだ。証拠がない。
食堂に入った。
空席が広がった。俺の周りだけ、波が引くように人がいなくなる。昨日まではテーブル一つ分の距離。今日は三つ分。
——こういうものか。
トレイを持って立っていると、声が飛んできた。
「ワタル先輩! こっちこっち!」
フタバがテーブルの上から手を振っている。テーブルの上に立つな。ガンが横で鼻を鳴らしている。
いつもの席。六人分の場所。誰一人欠けていない。
ユウスケが黙って俺の隣の椅子を引いた。ハルカが「おはよう」と微笑んだ。リクトが「今日のスープの魔素含有量は昨日より高いですね」といつも通りのことを言った。リーシャが窓際で「早く座りなさい」と言った。
——こいつらは、変わらない。
座った。スープを飲んだ。温かかった。
◇
授業が終わった放課後。
「ワタル。今日、付き合え」
ユウスケが言った。いつもの短い台詞。
「どこに?」
「黙ってついてこい」
ハルカが笑った。「行こう、ワタル」。フタバが俺の腕を引っ張った。リクトが「目的地の気象データは良好です」と言った。リーシャが「……仕方ないから、私も行くわ」と腕を組んだ。
六人と六体の召喚獣が、学園の裏門を抜けた。
歩くこと三十分。
森を抜けた先に、丘があった。
なだらかな斜面。頂上に——大きな木が一本。
風が吹いた。草が波打った。空がオレンジに染まり始めている。異世界の夕暮れ。
——似ている。
元の世界の、あの丘に。
木の形も、丘の傾斜も、風の匂いも違う。でも——夕暮れの空の色だけは、同じだった。
「ここ……あの丘に似てるね」
フタバが言った。小さな声。
全員が立ち止まった。木の下で。夕暮れの中で。
「……似てる」ユウスケが呟いた。
「似てるね」ハルカが微笑んだ。
「座標も緯度も異なりますが——感覚的な類似性は否定できません」リクトが言った。それは「似てる」って意味だ。
リーシャだけが黙っていた。元の世界の丘を知らないから。でも——何かを感じたのか、木の幹に手を触れた。
「……いい場所ね」
座った。六人で。木の下に。
フタバがガンの背中にもたれた。ユウスケがフェンリルと並んで寝転がった。ハルカがルミを膝に乗せた。リクトがシェルの甲羅に夕暮れの色を記録させた。リーシャがソラを肩に乗せて、空を見上げた。
ノクスが俺の膝の上で丸くなった。赤い目を細めて、温かい体を押し付けてくる。
しばらく、誰も話さなかった。
風の音。木の葉が擦れる音。遠くで鳥が鳴いている。
「……ワタル先輩」
フタバが言った。
「フタバね、師匠のこと、分からないよ。会ったこともほとんどないし。でも——ワタル先輩が好きな人が、悪い人なわけないと思う」
単純な理屈だ。根拠がない。でも——胸の奥に、じわりと染みた。
「私もそう思う」ハルカが言った。
「データ不足で断定はできませんが——ガレス氏の行動には合理的な説明が存在する可能性が高いです」リクト。それは「信じてる」って意味だ。
「……ああ」ユウスケが目を閉じたまま言った。
リーシャが空を見ていた。
「……あなたの師匠のことは知らない。でも——あなたが信じるなら、私は疑わない」
——泣くな。泣くな。
泣かなかった。でも、目が熱かった。
「……ありがとう」
それだけ言った。それ以上は声にならなかった。
夕暮れが、夜に変わっていく。二つの月が顔を出した。
「帰ろっか」フタバが立ち上がった。
「うん」
帰り道。六人で歩いた。星が多かった。
師匠はいない。でも——一人じゃない。
◇
寮に帰ると、ユウスケが呼び止められた。
「ユウスケ」
廊下に立っていたのは——ロイドだった。
真面目な顔。いつもより、少しだけ疲れている。
「少し話がある。二人で」
ユウスケが俺を見た。俺は頷いた。「行ってこい」。
二人が廊下の奥に消えた。フェンリルだけが残って、俺の足元で伏せた。ユウスケを待っている。
十分後。ユウスケが戻ってきた。表情が硬かった。
「……何て?」
「『ガレスのことで軽率に動くな。今は耐えろ』と」
耐えろ。何に。何を。
「それだけ?」
「……もう一つ。『剣を振り続けろ。何があっても』」
ロイドの声が聞こえた気がした。真面目で、硬くて、でも温かい声。
ユウスケの拳が震えていた。何かを感じ取っている。ロイドの言葉の裏にある、不穏な何かを。
——嫌な予感がした。
◇
深夜。
一人で寮を抜け出した。
道を覚えている。暗くても、体が覚えている。何十回も通った道。
学園の外れ。蔦に覆われた古い建物。
——師匠の道場。
扉を開けた。
もぬけの殻だった。
酒瓶がない。奥の部屋の寝具もない。壁に掛かっていた写真——若いガレスとロイドとエレアが笑っていた写真もない。
全部、持っていったのか。逃げる前に。
道場の真ん中に立った。ここで転がされた。ここで素振りした。ここで闇を剣に纏わせた。ここで酒瓶を置いてくれた。ここで「お前らしいな」と名前を呼んでくれた。
全部、ここだ。
膝が折れた。道場の床に手をついた。冷たい。師匠がいた頃は——もっと温かかった気がする。
——ふと、目に入った。
壁。木剣が掛かっていた場所。全ての木剣が消えている。一本を除いて。
一本だけ残っていた。
俺がいつも使っていた木剣。柄に小さな傷がある。素振りでつけた傷。握り癖で削れた跡。俺の木剣。
師匠が——残していった。
壁から外した。握った。手に馴染む。重さを覚えている。
柄の根元に、小さな文字が刻まれていた。以前はなかった文字。
——「退くな。折れるな」
六文字。師匠の字だ。乱暴で、太くて、不器用な字。
握りしめた。
声が出なかった。涙は出た。
ノクスが肩で「クゥ」と鳴いた。小さく。静かに。
木剣を持って、道場を出た。振り返らなかった。
師匠も振り返らなかったから。




