裏切り
休日の朝も、修行は休みじゃない。
「遅い。三秒縮めろ」
「無理です」
「無理と言うな。やれ」
朝六時の道場。ガレス師匠の木剣が飛んでくる。避ける。受ける。転がる。立ち上がる。
一ヶ月前より確実に強くなっている。十回転がされていたのが、三回に減った。師匠の二手目が見えるようになった。三手目はまだ見えない。
修行の合間に師匠が酒を飲む。俺が作った卵焼きを食べる。
「今日のは少し甘いな」
「フタバが砂糖を入れろって」
「あのガキ、料理に口出すようになったか」
師匠が笑った。いつもの飄々とした笑顔。
——いつもと同じ朝。いつもと同じ師匠。
のはずだった。
◇
異変に気づいたのは、その日の午後だった。
修行中、師匠の動きが鈍かった。いつもなら一瞬で俺を転がすのに、二手分の隙があった。
「師匠、どうしたんですか」
「……なんでもない」
目が合わなかった。師匠は酒を飲みながら窓の外を見ていた。遠い目。何かを考えている目。
——初めて見る表情だった。
師匠はいつも飄々としている。深刻な顔をしない。酔っぱらいのような顔か、剣を構えた時の鋭い顔か。その二つしか知らなかった。
今日の師匠は、そのどちらでもなかった。
壁の写真を見ていた。若い頃の三人。ガレス、ロイド、そして——名前を聞けなかった女性。
「……師匠」
「帰れ、ワタル。今日の修行は終わりだ」
早い。いつもなら夕方まで続くのに。
「でも——」
「帰れ」
師匠の声が硬かった。有無を言わせない声。
帰った。でも——胸騒ぎが消えなかった。
◇
夜。眠れなかった。
師匠の様子がおかしい。何かがある。何かが起きようとしている。
寮の窓から外を見た。月明かりの中、影が動いた。
師匠だ。
ガレスが一人で学園の外に向かっている。足取りが速い。普段のだらしない歩き方じゃない。目的がある歩き方。
——追った。
ノクスが肩の上で「クゥ」と低く鳴いた。小さな体が強張っている。何かを感じ取っている。
師匠は王城に向かっていた。裏口から入る。衛兵が道を開ける。——顔が知られている。元最強の騎士だ。
俺は塀を越えて中に入った。城の裏庭。月明かり。師匠の背中を追う。
廊下の奥。扉が少しだけ開いている。中から声が聞こえた。
——盗み聞き。良くないと分かっている。でも、体が動かなかった。
「ガレス。お前にはまだ利用価値がある」
国王の声だった。低くて、冷たい。玉座の間で聞いた「歓迎しよう」の温かさは、どこにもなかった。
「……陛下。あの子供たちを巻き込むつもりですか」
師匠の声。抑えている。怒りを。
「転移者は駒だ。闇属性の少年は特にな。あの力は——管理するだけでは足りない。活用すべきだ」
活用。
俺の力を。
膝が震えた。壁に手をついた。
「エレアの時と同じだ」
師匠の声が変わった。怒りを隠さない声。
「お前はまた、人を道具にするのか」
エレア。写真に写っていた女性の名前。師匠が「昔の仲間だ」とだけ言った人。
「エレアは世界のために必要な犠牲だった。お前も分かっているはずだ」
犠牲。
あの写真の中で笑っていた女性が——犠牲。
「……断る」
師匠の声が、鉄のように硬くなった。
「あいつを、あんたの道具にはさせない。エレアの時は止められなかった。俺は——仲間を見殺しにした。あの後悔を、一生背負ってきた」
声が震えていた。怒りだけじゃない。痛みだ。何年も抱えてきた痛み。
「だが今度は違う。あの子供は——俺の弟子だ」
「ならば、お前も——不要だな」
国王の声に温度が消えた。
金属の音。衛兵が剣を抜く音。多い。十人以上。
師匠が剣を抜いた。一人で。
◇
城の外に飛び出した。
城壁の外の広場。月明かりの下、師匠が走ってきた。背中に斬り傷がある。血が流れている。でも——衛兵は追ってきていない。師匠が一人で突破したのだ。十人以上を。
「師匠!」
叫んだ。師匠が足を止めた。
振り返った目が——今まで見たことのない目だった。
覚悟の目。全てを捨てた目。もう戻れない場所に立っている人間の目。
「ワタル」
「何が——何が起きてるんですか。国王が何を——エレアって誰——」
「聞いていたのか」
師匠が静かに言った。怒ってはいなかった。
「お前に教えることは、もう終わりだ」
「何を言って——」
「国王は……お前が思っているような人間じゃない。気をつけろ」
「師匠、待ってください——」
ガレスが剣を構えた。
——俺に向かって。
「最後の授業だ」
月光が、師匠の刃を照らした。
「——全力で来い」
◇
嘘だ。
嘘だと思った。師匠が剣を向けてくる。俺に。弟子に。
でも——師匠の目は本気だった。
右手に闇の剣を生成した。漆黒の刃。今の俺にできる最速の生成。
踏み込んだ。
——弾かれた。
一合目で。体勢が崩れる。こんなことは修行では——いや、修行でも十回転がされた。でも今は闇の剣がある。闇の球がある。あの頃とは違う。
立て直す。二合目。三合目。闇の剣が師匠の剣と打ち合う。火花が散る。
見える。師匠の動きが見える。一手目。二手目。三手目——
四手目が見えない。
脇腹に衝撃。吹き飛ぶ。地面を転がる。
「遅い」
師匠の声。修行の時と同じ声。
立ち上がる。踏み込む。闇の剣を全力で振る。
受け流された。手首を返されて、バランスが崩れた瞬間に肩を打たれた。膝をつく。
「軽い」
立ち上がる。
今度は闇の球を三発同時に放った。牽制。その隙に間合いを詰める。闇の剣を下段から——
三発の闇の球が、全て斬り落とされた。師匠の剣が三回閃いた。同時に。見えなかった。
そして——師匠の剣先が、俺の喉元に止まっていた。
「読みやすい」
S級。
次元が、違う。
闇の剣も、闇の球も——何一つ、届かない。
最後の一撃。渾身の力を込めて振った闇の剣が——師匠の平手に止められた。
素手で。
闇の剣が砕けた。闇の欠片が夜空に散った。
完敗。
◇
地面に倒れていた。仰向け。空に二つの月。
立ち上がれない。体が動かない。闇の剣を出し切って、力が残っていない。
師匠が、背を向けた。
「強くなったな」
その声は——温かかった。
「だが、まだ足りない。もっと強くなれ」
「師匠……」
「師匠と呼ぶなと言っただろう」
いつもの台詞。いつもの返し。でも——声が、少し震えていた。
「……師匠。なぜですか。なぜ——」
ガレスが振り返った。月明かりの中。傷だらけの顔。片目の下の古い傷が、光に照らされている。
「お前は、お前の仲間を守れ。それだけでいい」
一歩、歩き出した。止まった。
「——ワタル」
名前で呼ばれた。師匠が俺の名前を呼ぶのは、いつも大事な時だけだ。
「お前に教えたことは一つだけだ。剣の型じゃない。闇の使い方じゃない」
月明かりの中で、師匠が笑った。飲んだくれの笑顔。飄々として、だらしなくて——でも、今日だけは少しだけ、優しかった。
「——退くな。折れるな」
六文字。いつも修行で言われた言葉。でも今は——遺言に聞こえた。
背を向けた。歩き出した。
追えなかった。体が動かなかった。
「——師匠!」
叫んだ。声が夜空に消えていく。
師匠は振り返らなかった。
月明かりの中を歩いていく。背中がだんだん小さくなっていく。あの背中。飲んだくれで、だらしなくて、でも剣を持ったら世界が変わる背中。俺に剣を教えてくれた背中。
見えなくなった。
ノクスが俺の胸の上に降りてきた。小さな体を擦りつける。「クゥ」と鳴いた。悲しい声。
俺は動けないまま、月を見ていた。
二つの月が、ぼやけて見えた。
◇
翌朝。
学園の掲示板に、光の文字が浮かんでいた。
『元S級騎士ガレス。反逆罪により指名手配。発見次第、報告せよ』
廊下が騒然としていた。
「ガレスって、あの飲んだくれの……」
「元最強だろ。あいつが反逆?」
「闇属性の弟子を取ってた人だぞ。やっぱり——」
やっぱり。
その言葉が刺さった。闇属性に関わったから、裏切った。そう思われている。
俺のせいだ——と、一瞬思った。
違う。
師匠は俺を守るために動いた。国王が俺を「活用」しようとしたから。エレアの時と同じ犠牲にさせないために。
でも——何も言えない。「国王が黒幕だ」なんて、誰が信じる。証拠もない。盗み聞きしただけだ。
ユウスケが隣に来た。
「聞いた。——大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
初めて、正直に言った。強がらなかった。
ユウスケが何も言わず、肩を掴んだ。強く。
師匠が、消えた。




