闇の剣
影が、動いた。
速い。音がない。足音も、唸り声も、何もない。ただ黒い塊が、こちらに滑ってくる。
「散開!」
教官が叫んだ。剣を構えて前に出る。
斬った。銀の刃が影を横に薙ぐ。
——素通りした。
剣が影をすり抜けた。手応えがない。まるで煙を斬ったように。
影の爪が教官の胸を打った。教官が吹き飛んだ。壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。
「教官!」
フタバの悲鳴。
教官は動かない。気を失っている。
六人と、六体の召喚獣。それだけになった。
◇
ユウスケが動いた。
風。渾身の暴風を影に叩きつける。
——素通り。風が影をすり抜ける。フェンリルが飛びかかった。牙が影を噛んだ——噛めない。顎が空を切る。
「物理が効かない……!」
フタバの炎。赤い火柱が影を包む。
——効かない。炎が影の中に吸い込まれて、消える。
リクトがシェルのデータを叫ぶ。「この魔物は闇属性で構成されています! 通常の五属性では——ダメージが通りません!」
リーシャが光剣を振るった。銀の刃に白い光が纏う。影に斬りつける。
手応えがあった。——少しだけ。影の体が揺らいだ。光属性だけが、僅かに効く。
だが——再生した。斬った部分が、一秒で塞がる。
「足りない……! 光だけでは——」
リーシャの声が途切れた。影の触手がリーシャを弾き飛ばす。ソラが急降下してリーシャを受け止めた。
そして——影が分裂した。
一体が、二体に。二体が、四体に。
四つの赤い目が、俺たちを囲む。
フタバがガンの後ろに隠れた。震えている。ガンが低く唸って、フタバを守るように立つ。
ハルカがルミと一緒に回復の光を飛ばし続けている。でも——攻撃を受けるたびに傷が増える。回復が追いつかない。
ユウスケが歯を食いしばっている。「くそ——何をすれば——」
こいつがこんな声を出すのは、初めてだ。
右手が——脈打っている。
激しく。痛いくらいに。
闇が、呼んでいる。
◇
「俺に任せろ」
前に出た。四体の影の前に。
右手を突き出す。闇の球を生成。漆黒の球体。ぶつける。
影の一体に命中した。——少し揺らいだ。少しだけ。でも、倒れない。闇の球では、足りない。
もう一発。三発目。四発目。
揺らぐ。だが倒れない。影が大きすぎる。
腕が痺れる。魔力が削られていく。闇の球を維持するのが限界に近い。
——足りない。
今の俺じゃ、足りない。
もっと深く。もっと強く。闇の、もっと奥へ——
視界が暗転した。
◇
暗い。
何も見えない。音もない。匂いもない。
真っ暗な空間に、俺は立っていた。足元も見えない。天井もない。壁もない。ただ——闇。
ここは、どこだ。
俺の中か。闇の中か。
「怖いか」
声がした。
低い。深い。どこから聞こえるか分からない。全方向から同時に響く。
「……怖い」
正直に答えた。嘘をつく相手じゃない。なぜか分かる。この声に、嘘は通じない。
「逃げるか」
「逃げない」
声が止まった。沈黙が、闇の中に広がる。
「なぜだ」
「後ろに——みんながいる」
フタバが震えている。ハルカが傷を癒している。ユウスケが歯を食いしばっている。リクトが必死にデータを叫んでいる。リーシャが剣を握り直している。
退いたら、あいつらが死ぬ。
退くわけにはいかない。
退いたことは、一度もない。
「——ならば」
声が変わった。深かったはずの声が、少しだけ——温かくなった。
「受け入れろ」
闇が動いた。
足元から這い上がってくる。全身を覆う。冷たい。だけど——怖くない。
俺の一部だ。師匠が言った。闇は悪じゃない。ただの力だ。使う者次第。
受け入れる。
恐れない。拒絶しない。俺の中にあるもの。最初からあったもの。
闇が——右手に集まった。
凝縮する。圧縮される。形を取る。球体じゃない。もっと細長い。鋭い。
——剣だ。
右手に、闇の剣が生まれた。
◇
目を開けた。
ダンジョンの二層。影の魔物が四体。仲間が背後に。
右手に——漆黒の剣がある。
刀身が闇でできている。黒い。光を吸い込む深い黒。だが輪郭は鮮明で、鋭い。師匠に教わった木剣より少し長い。握りの感触は——ない。重さもない。でも、手の延長のように動く。
全員が俺を見ている。
「ワタル……その手……」ハルカの声。
「大丈夫だ」
影の一体が襲いかかった。
振った。
闇の剣が、影を斬った。
——通った。
今度は素通りしない。手応えがある。刃が影を切り裂いた。斬られた部分が蒸発するように消えていく。再生しない。
闇が、闇を断つ。
「通った……!」リクトの声が裏返った。「闇属性の攻撃が——闇の魔物に有効です!」
二体目が来た。横薙ぎ。一閃。両断。消滅。
三体目。突進してくる。踏み込む。ガレス師匠に叩き込まれた型。足の幅、腰の高さ、手首の角度。闇の剣が、真正面から突き刺さった。影が内側から崩壊する。
最後の一体。一番大きい。本体。
赤い目が俺を見ている。逃げない。向かってくる。
——来い。
全力で踏み込んだ。闇の剣を振りかぶる。全身の力を——いや、全身の闇を込めて。
上段から、振り下ろした。
漆黒の軌跡が、空間を断った。
影が——真っ二つに裂けた。
裂け目から光が漏れた。闇の奥に封じられていた光が、解放される。
影が消えた。
四体全て。消えた。
膝をついた。
力が抜けた。闇の剣が手の中で消える。全身が汗まみれで、息ができない。視界が霞む。
でも——全員無事だ。
「ワタル先輩!」
フタバの声。駆け寄ってくる足音。小さな体がぶつかってきた。
「怖かった……! ワタル先輩、すごかった……! 怖かったよう……!」
泣いている。フタバが俺の服を掴んで泣いている。ガンが横でおろおろしている。
「よくやった」
ユウスケの声。短い。でも、震えていた。手が俺の肩を掴む。強く。
「データ通り——いえ、データを超えています」リクトの声も震えている。シェルの甲羅が青白く明滅している。処理が追いついていないらしい。
リーシャが俺の前に立った。何も言わない。ただ、俺を見ている。
その目に——畏怖があった。そして、畏怖とは別のものも。信頼、だろうか。分からない。でも、さっきまでの冷たい目じゃなかった。
「……すごかったね」
ハルカが、俺の手を握った。
闇の剣を握っていた手。禁忌の力を振るった手。
ハルカは、その手を——温かく握っていた。
◇
ダンジョンから出た。
夕暮れの空。オレンジの光。全員が地上の風を吸い込む。
教官も意識を取り戻した。「お前たちだけで影の魔物を……信じられない」。顔色は悪いが、無事だ。
帰り道。リクトが隣に並んだ。小声で、俺にだけ聞こえるように。
「闇の剣の生成データを解析しました。興味深い結果です」
「……何が分かった」
「理論上、闇の剣の生成数に上限がありません。あなたの魔力が許す限り——何本でも同時に生み出せる可能性がある」
「何本でも……?」
「ただし、現状では一本が限界です。制御が追いついていない。二本目を出そうとした瞬間、一本目が崩壊するでしょう」
リクトが眼鏡を押し上げた。
「制御力が上がれば——いずれ、二本、三本……その先も」
その先。何十本。何百本。——想像もできない。今は一本で精一杯だ。
ノクスが俺の肩に戻ってきた。戦闘中は離れていた。今は小さな体を俺の首に擦りつけている。
「クゥ」
小さな声。甘い声。
——でも。
帰り道、ノクスが俺を見た。
あの目。
悲しそうな目。
召喚獣契約の夜にも見た。同じ目。深くて、静かで、何かを知っている目。
「……ノクス」
ノクスは何も言わない。言葉を持たない。ただ、赤い目が俺を見ている。
闇の力が強くなるたびに——この目が、深くなる気がする。
なぜだ。俺が強くなることが、悲しいのか。
分からない。でも——胸の奥に、小さな棘が刺さった。
——なぜ、お前はそんな目をするんだ。




