向こう側
死ぬかと思った。
——いや、正確には違う。死ぬかと思ったのは、もう少し後の話だ。この時はまだ、何も知らなかった。明日も学校があると思っていた。来週のテストが嫌だと思っていた。カレーが食べたいと思っていた。
普通だった。本当に、普通の一日だった。——途中までは。
翌日——というか、その日の夜のことだ。
あの丘で別れた後、俺はまっすぐ家に帰った。飯を食って、風呂に入って、ベッドに転がった。明日の小テストのことを考えて、三秒で考えるのをやめた。
そして朝が来て、いつも通り学校に行って、いつも通り授業を受けて、いつも通りの放課後が来た。
——ここまでは、いつもと同じだった。
◇
「ワタル先輩、こっちこっち!」
フタバが走って行った路地裏に、それはあった。
古い屋敷だ。
石造りの壁。錆びた鉄の門。蔦が絡まった窓。まるで何十年も誰も住んでいないような、そんな場所。
「……こんなとこ、あったか?」
俺はこの道を何百回と通ってきた。帰り道の途中、コンビニの裏を抜ける路地。この先は行き止まりのはずだ。
なのに——屋敷がある。
「なかったよね」ハルカが俺の隣で首を傾げた。「昨日まで、なかった」
「ワタル、中を見るか?」
振り返ると、ユウスケがいた。俺が電話したら五分で来た。さすがというか、こいつ走ってきただろ。息が少し荒い。
「リクトとフタバは?」
「フタバさんなら、もう中を覗いてますよ」
後ろからリクトの声。眼鏡の奥の目が、好奇心で光っている。こいつもこいつで早い。
「ちょっ、フタバ! 勝手に入るなって!」
「だって気になるんだもん!」
門が開いていた。開いていた、というか、最初から開いていたみたいに隙間があった。
俺たちは顔を見合わせた。
「……行くか」
ユウスケが頷いた。ハルカは少し不安そうだったけど、俺の袖をつまんでついてきた。
屋敷の中は薄暗かった。埃が舞っている。壁に意味の分からない模様が描かれている。円と直線と、見たことのない文字。
「これ、何かの言語ですか……?」リクトがスマホのライトで壁を照らした。「少なくとも既知の言語体系には該当しません」
「リクト、今はいいから」
「いえ、これは重要な——」
「先輩! 奥になんかある!」
フタバの声が奥から響いた。
廊下の突き当たり。そこに——扉があった。
木製の古い扉。だけど、おかしい。
扉の隙間から、光が漏れている。
白い光。蛍光灯とも、太陽とも違う。脈打つような、生きているような光。
「……なんだ、これ」
五人で扉の前に立った。
光が呼んでいる。そう感じた。馬鹿げた直感だと分かっていた。でも、手が勝手に伸びた。
「ワタル」ハルカの声。
「大丈夫。ちょっと触るだけ」
指先が扉に触れた。
——瞬間。
光が弾けた。
視界が真っ白になった。体が浮く感覚。重力がなくなる。上も下も分からない。
フタバの悲鳴が聞こえた。ユウスケが俺の名前を叫んだ。ハルカの手が俺の腕を掴んで——すり抜けた。
意識が、沈む。
◇
最初に感じたのは、草の匂いだった。
湿った土と、甘い花の香り。知らない匂い。
顔に風が当たっている。冷たくて、優しい風。
俺は目を開けた。
空が、紫だった。
夕暮れでも、夜でもない。淡い紫色の空に、見たことのない星が散らばっている。
そして——月が、二つあった。
大きな月と、小さな月。並んで浮かんでいる。ありえない光景。ありえない空。
「……嘘だろ」
体を起こした。全身が痛い。地面は石畳で、苔が生えていた。
周囲を見回す。石の柱が並んでいる。崩れかけた壁。天井のない広い空間。——遺跡だ。古い、古い遺跡。
「ワタル!」
ユウスケの声。すぐ近くで倒れていた。起き上がろうとして、膝をついている。
「ユウスケ! 大丈夫か!」
「俺は平気だ。他は——」
「ワタル先輩……」
フタバが座り込んでいた。顔が真っ白だ。唇が震えている。その手をハルカが握っている。ハルカも顔色が悪いけれど、フタバの手だけは離していない。
「ここは……どこですか」
リクトが眼鏡を直しながら立ち上がった。声が微かに震えていた。こいつが動揺するのは珍しい。それだけで、事態の異常さが分かる。
「分からない」俺は言った。「でも——元の場所じゃない」
二つの月を見上げた。星の配置が違う。空気の匂いが違う。重力すら、わずかに軽い気がする。
ここは——俺たちの世界じゃない。
「ワタル先輩、怖い……」
フタバの声が震えていた。泣きそうだった。
俺は立ち上がった。膝が笑っている。心臓がうるさい。怖い。正直、怖い。何が起きたか分からない。ここがどこかも分からない。帰り方も分からない。
でも——フタバが泣きそうな顔をしている。リクトの手が震えている。ハルカが不安そうに俺を見ている。ユウスケだけは平気な顔をしているけど、拳が白い。
こういう時、前に立つのは俺だ。
昔から、そうだった。
「大丈夫だ」
声が震えないように、腹に力を入れた。
「俺がいる。全員いる。なんとかなる」
根拠なんてない。何の保証もない。でも、言わなきゃいけなかった。
フタバが顔を上げた。ハルカが少し笑った。リクトが頷いた。ユウスケが「ああ」と短く言った。
それだけで、少しだけ空気が緩んだ。
——その時、気づいた。
遺跡の中央に、小さな丘がある。
石段を数段登った先。崩れた柱に囲まれた、開けた場所。
そこに——木が立っていた。
大きな木。
太い幹。広がる枝。空を覆う葉。
俺は息を呑んだ。
「……嘘だろ」
知っている。この木を、俺は知っている。
毎日、帰り道の途中で見上げていた。丘の上に立つ、あの木。
同じだ。形も、大きさも、枝の伸び方も。
「ワタル……あれ」
ハルカが同じものを見ていた。目が大きく見開かれている。
「あの木だよね。……私たちの、あの木」
「同一の樹木とは断定できませんが——」リクトの声が掠れた。「形態的特徴が酷似しています。偶然とは考えにくい」
風が吹いた。
木の葉が揺れた。さわさわと、優しい音を立てて。
あの丘の上で聞いた音と、同じだった。
——なぜ、ここにある?
俺たちの世界の木が、なぜこの場所に——
地鳴りがした。
足元が震えた。遺跡の石柱がガタガタと揺れる。
音。重い音。何かが近づいてくる。
遺跡の入り口——崩れた門の向こうから、影が現れた。
大きい。
俺の三倍はある。四足の獣。赤い目。口から煙のような黒い霧を吐いている。
——魔物。
頭の中で、そんな言葉が浮かんだ。馬鹿げている。魔物なんてゲームの中にしかいない。でも目の前のそれを他に何と呼べばいい。
「逃げ——」
ユウスケの声が途切れた。出口は魔物が塞いでいる。逃げ場がない。壁は高い。登れない。
フタバが悲鳴を上げた。
魔物が一歩踏み出した。地面が揺れた。赤い目が俺たちを捉えている。
——殺される。
そう思った。体が凍りつきそうだった。
でも。
フタバが、俺の後ろにいた。
体が動いた。
考えるより先に、俺はフタバの前に立っていた。両手を広げて。武器もない。力もない。何もない。それでも——退かなかった。
「来るなっ!」
叫んだ。
魔物が跳んだ。巨大な影が空を覆う。
——右手が、熱くなった。
脈打つような熱。指先から肘まで、何かが駆け上がってくる。
そして——弾けた。
黒い光。
俺の右手から、黒い光が放たれた。ほんの一瞬。閃光のように。
魔物が空中で怯んだ。着地が乱れ、石柱にぶつかって体勢を崩す。
一秒。いや、それ以下の時間。
でも——それで十分だった。
銀色の剣閃が、走った。
風を切る音。魔物の悲鳴。次の瞬間、魔物は石畳の上に崩れ落ちていた。
剣を持った男たちが、遺跡の壁を越えて飛び込んでくる。銀色の鎧。揃った動き。統率された部隊。
——騎士だ。
本物の、剣を持った騎士たち。
先頭の男がこちらを見た。兜の奥の目が、鋭い。
その目が——俺の右手に向けられた。
「……お前たち、人間か?」
俺は自分の右手を見た。
さっきまで黒い光を放っていた手。今はもう何もない。普通の手だ。
でも——かすかに、震えていた。
俺は、何をした?
あの黒い光は——何だ?
答えは、まだ分からなかった。




