大きな木の下で
丘の上に、大きな木がある。
その下に、確かに俺はいた。
——これは、そこにいた俺の、たった一つの物語だ。
◇
あの日、俺は世界を救う勇者ではなく、世界に拒絶される「禁忌」になった。
右手から溢れる黒い光。止められない。止め方を知らない。
視界の端で、ハルカが泣いている。ユウスケが叫んでいる。
——だけど、それはまだ、ずっと先の話だ。
あの日の俺は、まだ何も知らなかった。
自分が支払うことになる「代償」の重さも、二度と戻れない日常の眩しさも。
◇
「俺、将来の夢決めたわ」
夕暮れの帰り道。どこかの家から漂うカレーの匂い。
腹を鳴らしながら、俺——ワタルは、高らかに宣言した。
「世界を救う勇者になる」
三秒の沈黙の後、幼なじみたちの声がぴったり揃った。
「「「無理」」」
ユウスケ、ハルカ、フタバの声がぴったり揃った。
「ひどくない!? せめて一秒くらい考えてくれよ!」
「考えた結果だ」
隣を歩くユウスケが、前だけ見たまま言った。亜麻色の髪を風に揺らしながら、口元だけ微かに上げている。こいつは昔からこうだ。真顔のまま人を刺す。
「統計的に言えば、勇者の定義が曖昧なので判定不能ですが——」
「リクト、難しい話はいいから!」
フタバが遮った。小さな体をぴょんと跳ねさせて、俺の顔を覗き込んでくる。
「ワタル先輩、勇者っていうかさ、まず明日の小テスト大丈夫なの?」
「……それは別問題だろ」
「同じだと思いますよ」リクトが眼鏡を押し上げた。「基礎がなければ応用は成り立ちません」
「俺は夢の話をしてるんだよ!」
ハルカが隣で笑っている。声は出さない。ただ目を細めて、俺たちのやり取りを見ている。夕陽がハルカの横顔を照らしていて、なんというか——いや、なんでもない。
「ワタル先輩、明日も一緒に帰ろうね!」
フタバが両手を広げて前を歩く。制服のスカートが揺れた。こいつは中学一年生だが、俺たちの中では一番声が大きい。
「当たり前だろ」
俺は笑った。五人で帰るこの道が好きだ。
ユウスケは最初から俺の隣にいた幼なじみ。言葉は少ないが、誰よりも信頼できる。ハルカは穏やかで優しくて、いつも一歩引いて全体を見ている。フタバは三つ下の妹みたいな存在で、泣き虫のくせに誰より元気だ。リクトは一つ下だけど頭は俺たちの中で一番よくて、いつも冷静で、たまにずれたことを真顔で言う。
五人。いつも五人。
この帰り道を、俺たちは何年も歩いてきた。
◇
帰り道の途中、ゆるやかな坂がある。
坂を登った先——小さな丘の上に、一本の大きな木が立っている。
幹は太くて、枝は広くて、葉っぱは空を覆うように広がっている。いつ来ても変わらない。春も、夏も、秋も、冬も。ずっとそこに立っている。
「着いたー!」
フタバが駆け上がって木の根元に座った。鞄を放り投げて、大きく伸びをする。
「あー、今日も疲れたー!」
「お前、体育一コマしか動いてないだろ」
「一コマでも疲れるんです!」
俺も木の幹に背中を預けて座った。ユウスケが隣に腰を下ろす。リクトは鞄からノートを出して何か書き始めた。ハルカは俺の少し離れた場所に座って、夕暮れの空を見上げている。
この丘からの景色が好きだ。
街が見える。学校が見える。オレンジの空が全部を染めている。
「この木、でかいよな」
俺は見上げた。太い枝が空に伸びて、夕陽を透かした葉っぱが金色に光っている。
「昔からあるんだろうな」
「小さい頃からここで遊んでたよね」ハルカが言った。
「樹齢は推定三百年以上ですね」リクトがノートから目を上げずに答えた。
「三百年か……」
幹に手を当てた。ざらざらした樹皮。温かい。太陽の熱を吸っている。
手の下に、掘り跡がある。古い傷。
——俺たちが小学生の時に掘ったのだ。
ワタル。ユウスケ。ハルカ。フタバ。リクト。
五つの名前。石で一生懸命掘った。フタバの字だけ少し大きい。リクトの字だけ几帳面に等間隔。ユウスケの字は深い。ハルカの字は丸い。俺の字は——下手だ。
「まだ残ってるな、これ」
「当たり前だよ。木は覚えてるの」フタバが笑った。
五人の名前が、この木に刻まれている。俺たちがここにいた証。
三百年前。俺たちが生まれるずっと前から、この木はここに立っていた。
——ふと、思い出した。
この木の下で、フタバが泣いていた日のこと。
幼稚園の頃だった。フタバが迷子になって、一人でこの丘に登ってきて、泣いていた。俺が見つけて、声をかけた。「大丈夫だよ」って。
そしたらユウスケが来て、「お前、勝手に行くなよ」って言って。ハルカが来て、「フタバちゃん、大丈夫?」って手を握って。リクトが——あいつだけは後からだったけど——「泣いている原因を特定しましょう」って真顔で言った。
あの日から、五人だった。
ずっと、五人だった。
「そろそろ帰るか」ユウスケが立ち上がった。
「うん」俺も腰を上げた。
最後にもう一度、木を見上げた。
なんだろう。
何かが——引っかかった。
胸の奥で、かすかに。言葉にならない違和感。この木を見上げるたびに感じる、不思議な感覚。懐かしいような。寂しいような。
でも、気のせいだと思った。
「ワタル、行くぞ」
「おう」
俺は木に背を向けた。
五人で坂を下りる。夕暮れの帰り道。影が長く伸びている。
フタバが鼻歌を歌っている。リクトがノートを閉じた。ユウスケが前を歩いている。ハルカが隣にいる。
——当たり前の景色だった。
この帰り道が、明日も続くと思っていた。五人で笑って、くだらない話をして、あの木の下に座って、夕暮れを見て、「また明日」って別れる。
それが、ずっと続くと。
「じゃあな、また明日」
「うん、また明日」
「明日も一緒に帰ろうね、ワタル先輩!」
「当たり前だろ」
手を振って、別れた。
ハルカと二人になった。俺の家とハルカの家は同じ方向だ。
しばらく無言で歩いた。影がさらに長くなっている。空のオレンジが少しずつ紫に変わっていく。
「ワタル」
「ん?」
「勇者、なれるといいね」
ハルカが笑った。からかっているのか、本気なのか、分からない笑い方。
「……なれるよ。たぶん」
「たぶんなんだ」
「たぶんだよ。勇者って、なろうと思ってなれるもんじゃないし」
「じゃあ、なんで夢にしたの?」
俺は少し考えた。
「……みんなを守れたら、かっこいいかなって」
言ってから恥ずかしくなった。ハルカが笑うかと思ったけど、笑わなかった。
「うん」
それだけ言って、ハルカは前を見た。
「ワタルなら、なれると思うよ」
心臓が一回、強く鳴った。
でも俺は何も言えなくて、「サンキュ」とだけ返した。
ハルカの家の前で別れた。「おやすみ」「おやすみ」。いつもと同じ。
一人になった帰り道、振り返った。
遠くに、丘の上の木のシルエットが見えた。夕暮れの空を背景に、黒い影になっている。
大きくて、静かで、ずっとそこにある。
——なんだろう。
今日は、あの木が少しだけ違って見えた。
まるで、何かを待っているみたいに。
俺は首を振って、家に向かって歩き出した。
明日も、いつもと同じ一日が来ると思っていた。
——けど。
「明日」は、来なかった。




