黒い刃
ガレス師匠の修行は、地獄だった。
朝六時。授業が始まる前の二時間だけ。一秒でも遅れたら破門。
「構え」
木剣を構えた瞬間に転がされる。朝の挨拶代わり。
「遅い。寝ぼけるな」
「起きてます……」
「体が起きてない。もう五十回振れ」
朝の二時間で素振りと組み手。授業に出て、放課後また道場に戻る。夕方は体術と走り込み。夜まで。
昼食は授業の合間に食堂で食べるが、休日は道場で師匠と食べた。ガレス師匠の手料理——これが修行より辛かった。
「師匠。これ、何ですか」
「肉の煮込みだ」
「黒いんですけど」
「味はある」
「ないです」
三日目から俺が料理を作るようになった。師匠は「お前の方がマシだな」と言って酒を飲んだ。褒めてるんだか何なんだか。
修行の合間、師匠は酒を飲む。
「お前も飲むか」
「未成年です」
「異世界に法律はないぞ」
「ダメです」
「真面目か」
「師匠が不真面目すぎるんです」
——でも。木剣を構えた瞬間、この人は別人になる。
一切の無駄がない。俺の動きの全てが見えている。どこに力を入れて、どこで抜くか。足の運び一つで相手の重心を崩す方法。剣は力ではなく技だと、体で教えてくれる。
「剣は人を守るためにある。それを忘れたら終わりだ」
何度も言われた。殺すための剣ではない。守るための剣。
——俺には、ちょうどいい教えだった。
六日目。いつものように酒瓶を持ったまま俺を転がした後——師匠が止まった。
「……もう一本やるか」
「はい!」
構えた。師匠が酒瓶を——
——置いた。
初めてだった。六日間、何十回転がされても、一度も置かなかった酒瓶。
空気が変わった。道場の温度が二度下がった。
「百年早いと言ったが——」
木剣を構えた。目が変わった。別人だ。酒瓶を持っていた時の何倍も鋭い。
「——思ったより飲み込みが早い。退屈はしなさそうだ」
五秒後、俺は天井を見ていた。酒瓶ありの時とは次元が違った。見えなかった。一手目すら。
でも——嬉しかった。認められた気がした。
◇
修行が始まって一週間が経った夜。
寮に帰る途中、屋上にハルカがいた。いつもの場所。二つの月を見上げている。
「隣、いいか」
「うん」
並んで座った。月明かり。風が少し冷たくなってきた。季節が変わりつつある。
ハルカが光属性の練習をしていた。手のひらの上に小さな白い光を灯している。蛍みたいに、ふわふわと揺れる。
「上手くなったな」
「ミレイ先輩に教えてもらってるの。制御が大事だって」
「俺も師匠に同じこと言われてる。力じゃなくて制御」
「似てるね」
沈黙。でも、居心地がいい。
「ワタルは」
「ん?」
「怖くないの? 属性がないこと」
ハルカが月を見たまま聞いた。小さな声。でも真剣な声。
「怖いよ」
正直に言った。
「毎日怖い。みんなは伸びてるのに、俺だけ何もできない。師匠の修行で剣は少し上手くなったけど、魔法は何も出ない。このまま何も変わらなかったらって——考えると、怖い」
「……」
「でも。怖いからってやめたら、もっと怖い」
「もっと怖い?」
「みんなの隣に立てなくなることが。俺がいない戦場でみんなが戦うことが。それが一番怖い」
ハルカが俺を見た。月明かりの中の横顔。
「……強いね、ワタルは」
「強くないよ。ただの意地っ張り」
ハルカが笑った。月明かりに照らされた笑顔。柔らかくて、温かい。
——ふと、思い出した。
小学生の頃。フタバとリクトが些細なことでケンカした。ユウスケが仲裁しようとして失敗した。ハルカが泣いた。
俺が、丘の上の大きな木の下に全員を集めて言った。
「もうケンカ禁止。俺たちは絶対に離れない」。
子供の約束。馬鹿みたいに真っ直ぐで、何の根拠もない約束。
でも——まだ守られている。
「帰れたら」
ハルカが言った。
「あの丘の木の下に行こうね。みんなで」
「ああ」
「約束」
「約束だ」
ハルカが小指を出した。子供みたいな仕草。——でも、迷わず小指を絡めた。
指先が温かかった。
月明かりの下で、約束をした。
あの木の下で、また会おうと。
◇
修行が本格化して三週間。
剣の稽古は続いている。だが師匠はもう一つ、別の訓練を始めた。
ガレス師匠が、俺の右手を見た。
「お前の中に眠ってるもの……こいつは闇だ」
「闇……?」
「六属性の一つ。だが禁忌とされている。二百年前に封印された属性」
リクトの分析と一致する。闇属性。二人だけの秘密。師匠もまた、同じ答えに辿り着いた。
「封印された属性が、なぜ俺に?」
「知らん。だが事実としてお前の中にある。封印が薄い。少しずつ漏れ出している。あの黒い光は、漏れ出した闇だ」
師匠が酒瓶を置いた。珍しく真面目な目だ。
「いいか。闇を恐れるな。拒絶するな。お前の一部として受け入れろ。そうすれば、制御できる」
「受け入れる……」
「闇は悪じゃない。ただの力だ。火が善でも悪でもないように、闇もそうだ。使う者次第」
師匠が壁から木剣を取って、俺に渡した。
「お前は剣士だ。手のひらから光を出す芸人じゃない。——闇を、剣に流せ」
木剣を握った。右手に集中する。闇を呼ぶ。剣に流す。
——何も起きない。
「もう一回」
集中する。闇を。剣に。
指先が一瞬だけ黒く光った。木剣には届かない。三秒で消える。
「弱い。だが方向は合っている。毎日やれ」
毎日やった。
木剣を握って、闇を流す。三秒で消える光が五秒に。五秒が八秒に。八秒が十秒に。指先だけだった光が、手のひらまで広がるようになった。でも——木剣には届かない。
少しずつ。一秒ずつ。地味で、派手さのない積み重ね。
師匠が見守っている。酒を飲みながら。でもその目は、一瞬も俺から離れていなかった。
修行から一ヶ月が経った日。
その日は、妙に集中できた。
木剣を握る。右手に意識を集中する。闇を呼ぶ。恐れない。拒絶しない。俺の一部。
黒い光が灯った。いつもより強い。指先から手のひら全体に広がる。——手のひらだけじゃない。初めて——光が、木剣に流れ込んでいった。
木剣の刀身が、黒く染まった。
漆黒。光を吸い込むような深い闇が、木の刀身を覆っている。でも不思議と温かい。ノクスの温もりに似ている。
肩の上でノクスが「クゥ!」と鳴いた。嬉しそうに。
「安定してるか?」師匠の声。
「……はい。消えない」
十秒。二十秒。三十秒。消えない。黒い光が木剣を包んだまま、静かに脈打っている。
「振ってみろ。あの木を斬れ」
道場の外。十メートル先の古い木を狙う。
踏み込んだ。振り下ろした。
——木が、両断された。
斬り口が黒く焦げている。切断面が滑らかだ。木剣で——木の剣で、木を両断した。闇が切れ味を与えている。
沈黙。
「……ほう」
師匠が酒瓶を下ろした。口元が、かすかに上がっていた。
「闇を剣に纏わせたか。——お前らしいな、ワタル」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
足が震えた。嬉しさで。ようやく——ようやく、一歩。
◇
翌日。学園の掲示板。
光の文字が更新された。
ワタル——ランクD。
ランク外から、D。Dはランクの一番下。みんなはCだ。まだ追いついていない。でも——ランク外とDの間には壁がある。「何もない」から「何かある」への壁。ゼロから一への距離は、一から百より遠い。
食堂で報告した。最近はリーシャがたまに同じテーブルにつくようになっていた。「たまたま席が空いてなかっただけよ」と言い張るが、空席は山ほどある。
「ランク、Dになった」
一瞬の沈黙。そして——
「やったー!!」
フタバが椅子から飛び上がった。ガンが鼻を上げて赤い光を放った。祝砲のつもりらしい。
「師匠の修行の成果だね!」ハルカが嬉しそうに言った。剣の修行のおかげだと思っている。
「遅いぞ」ユウスケが言った。でも——笑っていた。こいつが笑うのは、本当に珍しい。
リクトが眼鏡を押し上げた。目だけで俺を見た。——二人だけの秘密。リクトは知っている。剣だけじゃない。闇属性の力が安定し始めていることを。でも何も言わなかった。ただ頷いた。
「おめでとう、ワタル」
ハルカが言った。六人の中で——一番嬉しそうな顔をしていた。目が少し潤んでいる。
「泣くなよ」
「泣いてない。……ちょっとだけ」
食堂の向こう。窓際の席で、リーシャがこちらを見ていた。
目が合った。
リーシャが——ほんの少しだけ、微笑んだ。すぐに目を逸らしたけど。
そして——食堂の入り口に、ディオンが立っていた。
腕を組んで、掲示板を見ている。「ランクD」の文字を。
俺と目が合った。
ディオンは何も言わなかった。ただ一瞬だけ——目が、鋭くなった。
——来る。
そう思った。次は、あいつとやる。
ランク外から、D。
ゼロから、一。
ここからだ。




