師匠
学園の外れに、古い建物がある。
誰も近づかない。授業で使われている様子もない。蔦が壁を覆い、屋根の一部が崩れている。地図にも載っていない場所。
俺がそこに迷い込んだのは、完全に偶然だった。
裏庭で夜の秘密練習をしていた帰り、道を間違えた。暗かったし、ノクスが肩の上で寝ていて役に立たなかった。気づいたら、見知らぬ建物の前に立っていた。
中から、明かりが漏れていた。
そして——酒の匂いがした。
「ん?」
扉を開けると、広い部屋があった。
道場だ。木の床。壁に木剣が何本も掛かっている。天井は高い。かつては立派な場所だったのだろう。今は埃と蜘蛛の巣だらけだが。
その中央に、男が座っていた。
銀髪混じりの髪。無精髭。片目の下に古い傷。四十代くらい——いや、もっと上かもしれない。年齢が読めない。着物のような服を着崩していて、帯が緩い。
そして、手に酒瓶を持っていた。
「生徒か。肝試しなら他でやれ」
酔っている。声が少し呂律が回っていない。
「いや、道に迷って——」
「迷う場所でもないだろう。さっさと帰れ。俺は飲んでるんだ」
男が酒瓶を傾けた。ぐびぐびと飲む。だらしない。昼間——いや、もう夜だが——から酒を飲んでいる飲んだくれだ。
帰ろうとした。
でも——足が止まった。
壁に掛かった木剣。その並び方。間隔が均等で、高さが揃っている。埃をかぶっているのに、柄だけが磨かれている。
——この人、剣を使う人だ。
振り返った。男がこちらを見ていた。
さっきまでの酔っぱらいの目じゃなかった。
鋭い。深い。底が見えない目。一瞬で空気が変わった。温度が二度下がったような——いや、リーシャの時とは違う。これは、重さだ。存在の重さ。
「……お前、面白い魔力を持ってるな」
男が立ち上がった。酒瓶を置いて。
——速い。
立ち上がっただけだ。なのに、体が反応した。全身の毛が逆立った。本能が叫んでいる。この人は——強い。信じられないくらい。
「名前は」
「ワタル。転移者です」
「転移者か。……そうか。それで闇の気配がするわけだ」
「闇……?」
「右手だろう。そこに何かが眠っている」
心臓が跳ねた。この人は、一目で分かったのか。リクトが何日もかけて分析したことを。
「あんた……誰だ」
「ガレス。ただの飲んだくれだ」
嘘だ。ただの飲んだくれがこんな圧を出すわけがない。
壁の木剣が目に入った。並び方。間隔が均等で、高さが揃っている。埃をかぶっているのに、柄だけが磨かれている。
「……あんた、剣を使う人だ」
ガレスが一瞬、目を細めた。
「俺に——剣を教えてください」
自分でも驚いた。体が勝手に動いた。頭を下げていた。
「断る。帰れ」
「お願いします。俺の中には——力があるらしいんです。でも、制御できない。自分の意志で出せない。いつ暴走するかも分からない。——だから、剣が要るんです。自分の意志で振れる武器が」
「……」
ガレスが酒瓶を置いた。壁から木剣を取った。一本を俺に投げてよこした。
「一手だけだ。それで帰れ」
◇
ガレスが構えた。
——構えた瞬間、別人になった。
目が変わった。体の軸が変わった。だらしなく着崩した服が、鎧のように見えた。木剣が、本物の剣に見えた。
空気が、震えた。
俺も木剣を構えた。セリア先輩に教わった構え。足の幅、腰の高さ、手首の角度。全部正しい。——はずだ。
踏み込んだ。
——気づいたら石の床に転がっていた。
何が起きた。一歩踏み込んだ。その次の瞬間には仰向けだった。体に衝撃はある。でも、どこを打たれたか分からない。見えなかった。
「遅い。軽い。読みやすい」
ガレスが木剣を肩に乗せて見下ろしている。
「——終わりだ。一手だ。帰れ」
「もう一回!」
立ち上がった。ガレスが眉を上げた。
「聞こえなかったか? 一手だけだと——」
「もう一回、お願いします!」
ガレスが俺の目を見た。二秒。ため息をついた。
「……勝手にしろ」
構えた。踏み込んだ。
転がった。
「もう一回!」
転がった。
「もう一回!」
転がった。
五回。六回。七回。全部一瞬。何をされているか分からない。ただ転がされる。ガレスは「一手だけ」と言ったのに、付き合ってくれている。口では面倒だと言いながら。
八回目。少しだけ見えた。ガレスの木剣が俺の構えの隙間を通って、足を払っている。速い。だが——見えた。
九回目。足払いを避けた。が、次の瞬間に胴を打たれた。
十回目。胴打ちも見えた。避けようとした。でも体が追いつかなかった。
転がった。十回目。
「……ほう」
ガレスの声に、さっきまでなかったものが混じった。
興味だ。
「十回目で三手目が見えたか。反射神経は悪くない」
「でも全敗です」
「当たり前だ。俺に触れるには百年早い」
ガレスが木剣を壁に戻した。酒瓶を拾って、また飲み始めた。飲んだくれモードに戻った。
「俺を——弟子にしてください」
言った。考えるより先に口が動いた。
「断る」
即答だった。酒瓶から目も離さない。
「面倒だ。ガキの面倒を見る趣味はない。帰れ」
「でも——」
「帰れ」
ガレスの目が鋭くなった。さっきの戦闘の時と同じ目。
——今日は、帰った。
翌日も来た。
「帰れ」と言われた。
その翌日も来た。
「しつこい」と言われた。
四日目。ガレスが扉を開けなかった。木剣を持って外で素振りした。
五日目。雨だった。ずぶ濡れで素振りした。ガレスが窓から覗いて「馬鹿か」と呟いた。
六日目。風邪をひいた。ハルカに怒られた。「何やってるの!」。それでも来た。鼻水を垂らしながら。
七日目。
扉が開いていた。
ガレスがため息をついて立っていた。
「……しつこい奴だな」
「はい」
「面倒くさい」
「すみません」
「泣いても知らんぞ」
「泣きません」
「嘘をつけ。絶対泣く」
——ガレスが、木剣を投げてよこした。
「明日から来い。朝六時。一秒でも遅れたら破門だ」
受け取った。ガレスの木剣。重い。あの夜、俺を十回転がした木剣とは違う、新しい一本。
「——ありがとうございます、師匠」
「師匠と呼ぶな。気持ち悪い」
「師匠」
「……勝手にしろ」
◇
翌朝。朝六時。
ガレスは酒瓶を片手に壁にもたれていた。
「遅い。五秒遅刻だ」
「す、すみません!」
「冗談だ。——構えろ」
木剣を構えた。ガレスが構えない。酒を飲んでいる。
「……師匠、構えないんですか」
「構えなくても十分だ。来い」
踏み込んだ。転がった。酒瓶を持ったまま俺を転がした。
もう一回。転がった。もう一回。転がった。
三十分で二十回転がされた。一度も触れられない。でも——昨日より、一瞬だけ長く立っていられた。
「……師匠、酒瓶置いて本気でやってくださいよ」
「俺に酒瓶を置かせるには百年早い」
鼻で笑われた。——いつか、絶対に置かせる。
◇
稽古を終えて水を飲んでいると、道場の扉が開いた。
「まだ生きてたか、この飲んだくれ」
声が響いた。入り口に立っていたのは——長身の男。黒髪。真面目そうな顔つき。姿勢が真っ直ぐ。ガレスとは正反対の雰囲気。
ガレスが振り返った。
「お前こそ」
二人が見つめ合った。三秒。
同時に——笑った。
「久しぶりだな、ロイド」
「ああ。元気そうで何よりだ。相変わらず飲んだくれているな」
「文句あるか」
「大いにある。だが今日はそれを言いに来たんじゃない」
ロイドが俺を見た。真っ直ぐな目。ガレスとは違う種類の強さがある。鉄のように硬くて、曲がらない目。
「この子が、お前の弟子か」
「弟子じゃない。ついてくる迷惑な奴だ」
「弟子です」
「師匠と呼ぶなと言っただろう」
「師匠」
ロイドが声を出して笑った。ガレスが嫌そうな顔をした。
「俺はロイド。騎士団の教官をやっている。ガレスとは昔馴染みだ」
「はじめまして。ワタルです」
「聞いているよ。転移者の——属性なし、か。なのにガレスが弟子を取るとは。君、余程見どころがあるんだろうな」
ロイドが真面目な顔に戻った。
「実はもう一人、見てやりたい生徒がいてな。君の仲間のユウスケだ」
「ユウスケを!?」
「風属性で、Aランク相当の風狼を召喚した生徒だろう。騎士団内でも話題になっている。才能は十分だが、型にはまらない指導が要る。——それで、こいつの道場を借りに来た」
ロイドがガレスを見た。ガレスが酒を飲みながら「勝手にしろ」と言った。ロイドが「相変わらずだな」と返した。旧友同士。息が合っている。
——ふと、目に入った。
ガレスの部屋の奥。壁に掛かった一枚の写真。
古い写真だ。色が褪せている。魔素写真というらしい。
写っているのは三人。若い男が二人と、女性が一人。
若いガレスだと分かった。傷がない顔。笑っている。隣のロイドも若い。短い黒髪。真面目な顔だが、笑顔。
そして——二人の間に、女性がいた。
長い髪。柔らかい笑顔。三人の中で一番自然に笑っている。
「師匠、この人は?」
ガレスの手が、一瞬止まった。酒瓶を持つ手が。
一瞬だけ、目を伏せた。
「……昔の仲間だ」
それ以上は語らなかった。
ロイドも黙っていた。さっきまで笑っていた顔が、少しだけ影を落とした。
——触れてはいけない何かがあると、分かった。
あの写真の三人は、楽しそうだった。若くて、強くて、何でもできそうな顔をしていた。
今、ここにいるのは二人だけ。
あの女性は——どこにいるのだろう。
◇
道場を出た。朝の光が眩しかった。ノクスが肩で欠伸している。
師匠ができた。飲んだくれで、だらしなくて、酒を片手に剣を振る人。
でも——剣を構えた瞬間、世界が変わった。十回転がされて、一回も触れられなかった。あれが本物の強さだ。
写真の中の三人。若くて、笑っていた三人。あの女性のことは聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
——この人の下でなら、俺は強くなれる。




