リーシャの素顔
——私には、友達がいない。
リーシャは、それを事実として受け止めていた。
王女。その称号は、壁だ。見えない壁。誰も超えてこない。超えようとしない。
朝。廊下を歩く。すれ違う生徒たちが道を開ける。「おはようございます、王女殿下」。頭を下げる。目を合わせない。
教室に入る。会話が止まる。席に座ると、周囲三メートルに誰もいない。空間が空く。まるで結界のように。
——慣れた。
物心ついた時から、こうだった。城の中でも同じ。侍女たちは丁寧だけれど、対等ではない。同い年の子供と遊んだ記憶がない。剣を交えた相手は教官だけで、手加減されていた。全力で来てくれる人は、いなかった。
——あのランク外の男を除いて。
◇
小さい頃の記憶がある。
父——国王の膝の上で、本を読んでもらった。
父の声は低くて温かかった。冒険の物語。勇者が竜を倒す話。お姫様が騎士に救われる話。
「お父様、お姫様はいつも助けられるの?」
「そうだな。でも、リーシャは違う」
「違うの?」
「お前は自分で剣を持て。自分の足で立て。それが、本当の強さだ」
父が笑った。温かい笑顔。大きな手が頭を撫でた。
あの手の温もりを、今でも覚えている。
——いつから変わったのだろう。
父の目から温かさが消えた。代わりに入ったのは、冷たい光。「国のために」が口癖になった。リーシャを見る目が、娘を見る目ではなくなった。道具を見る目。
何があったのかは、分からない。聞けなかった。聞く隙がなかった。
膝の上で本を読んでもらった日々は、もう戻らない。
◇
昼。食堂。
いつもの窓際の席。いつもの一人の食事。スープとパンと、魔獣肉の煮込み。美味しいはずだ。でも、味が薄い。いつからか、一人で食べる食事は味が薄くなった。
周囲では笑い声が聞こえる。友達同士で肩を組んでいる。誰かの皿からおかずを盗んでいる。
——別に、羨ましくない。
嘘だ。
トレイを持った影が、真正面に来た。
「ここ、空いてる?」
ワタルだった。
王女の席に、何の躊躇もなく向かいに座ろうとしている。周囲の視線が一瞬集まった。「え、王女殿下の正面に?」「あのランク外の転移者が?」
「……好きにしなさい」
断る理由がなかった。いや——断りたくなかった。
ワタルがトレイを置いて座った。シチューとパン。いつもと同じメニュー。
「今日も一人だったから」
「余計なお世話よ」
「そうかもな」
笑っている。この男は、いつも笑っている。ランク外で、才能がなくて、周囲に馬鹿にされているのに。
——なぜ笑えるのだろう。
「リーシャちゃーん! 一緒に食べよう!」
嵐が来た。フタバだ。トレイを持って駆け寄ってくる。ガンがその後ろをのしのし歩いている。
「ちゃん付けしないでと言ったでしょう」
「えー、じゃあリーシャさん?」
「……好きにしなさい」
「やった! じゃあリーシャちゃんで!」
「好きにしなさいと言ったのであって、ちゃん付けを許可したわけでは——」
「リーシャちゃん! リーシャちゃん!」
「……もういい」
ハルカも来た。「隣いいかな」。穏やかに微笑んで座る。リクトが向かいの端に座ってノートを開いた。ユウスケが黙ってハルカの隣に座った。
気づけば——テーブルが埋まっていた。
ノクスがワタルの肩からリーシャの皿を狙っている。「おい、やめろ」とワタルが押さえる。フタバがガンにパンを分けながら「リーシャちゃん、ソラって何食べるの?」と話しかけてくる。リクトが「リーシャさん、この魔法理論の解釈なんですが」と質問してくる。
うるさい。
うるさいのに——嫌じゃない。
スープを一口飲んだ。
——美味しかった。
いつもと同じスープのはずなのに。同じ味のはずなのに。
◇
夜。自室。
机の上に便箋がある。ペンを持って、一行目を書こうとする。
「お父様へ」
——書けない。
何を書けばいいのか分からない。「元気ですか」? 形式的すぎる。「会いたいです」? 本心だけど、あの冷たい目を思い出すと書けない。「なぜ変わったのですか」? 聞きたいけど、答えが怖い。
ペンを置いた。
窓の外に二つの月。
ソラが窓枠に止まっている。金と白の羽根が月光を受けて淡く光る。
リーシャがソラの頭を指先で撫でた。ソラが目を細める。
「……私には、あなたがいるわね」
ソラが小さく鳴いた。高い、澄んだ声。
——一人じゃない。少なくとも、ソラがいる。
でも。
今日の昼食を思い出す。うるさい連中。笑い声。ノクスの肉泥棒。フタバの「リーシャちゃん」。ハルカの柔らかい笑顔。リクトの真剣な質問。
そして——「ここ、空いてる?」
あの声。何の躊躇もなく、隣に座った男。
便箋を引き寄せた。
書けないけれど——書く気は、まだある。明日にしよう。
◇
翌朝。
訓練場を通りかかった時、足を止めた。
朝日が昇り始めたばかりの訓練場。石畳がオレンジ色に染まっている。
その中央に、一人の男がいた。
木剣を振っている。何度も。何度も。同じ動作を繰り返している。
ワタル。
額に汗。腕が震えている。手のひらの包帯に血が滲んでいる。それでも止めない。一回、また一回。
ランク外。才能がない。セリア先輩にもそう言われたと聞いた。魔力も属性もない。剣の筋もない。
——なのに。
なぜ、こんなに必死に振れるのだろう。
リーシャは剣を知っている。幼い頃から握ってきた。才能があると言われた。何でも早く習得できた。
だから分かる。あの素振りがどれだけ下手か。軸がぶれている。手首の角度が甘い。力の入れ方が非効率的。百点満点で言えば、三十点がいいところ。
——でも。
昨日より、少しだけ良くなっている。ほんの少しだけ。軸のブレが小さくなっている。手首の角度が一度だけ正しい方に寄っている。
毎日。毎日。一ミリずつ。
馬鹿みたい。
こんな地味な積み重ねで、Cランクに追いつけるわけがない。私でさえ、長い年月をかけてここにいる。ランク外からでは、何年かかるか分からない。
——でも。
目が離せなかった。
あの背中から。汗で張り付いた訓練着。震える腕。折れない膝。
真っ直ぐだ。あの男は、何もないくせに真っ直ぐだ。
ワタルが振り返った。リーシャと目が合った。
「おはよう」
——普通に。何の気負いもなく。王女に向かって。
「……おはよう」
声が出た。自分でも驚いた。
ワタルが笑った。朝日の中で。汗だらけの顔で。
——馬鹿みたい。
柱の影を離れて、自分の訓練場所に向かった。
胸の奥に、小さな棘が刺さっていた。痛くはない。温かい棘だ。
王女には、友達がいなかった。
でも今、隣にうるさい人たちがいる。
——それが嫌じゃないと気づいた時、少しだけ心が軽くなった。




