第四話:自由になった英雄
フェルゼン国を後にし、クラウスは西方へと馬を走らせた。
目指すは海洋国家アンダルス。
懐には、アルリックが持たせてくれた十分すぎるほどの路銀が入っている。
豪華な宿に泊まり、温かいベッドで眠ることも容易い。
だが、クラウスはそうしなかった。
聖王国を追放された身で人目の多い宿場町に逗留することへの懸念もあったが、それ以上に、今の彼には自然の温かさが心地よかった。
夜の帳が下りる頃、街道から外れた森の開けた場所、湖の畔に野営の準備をする。
美しい焚き火の光。
風に揺れる木の葉の音。
頭上に広がる満天の星々。
これらは、宿屋では体験できない野営の醍醐味である。
その夜、クラウスは久しぶりに夢を見た。
それは、幼き日の情景。
視界は低く、世界は灰色に淀んでいる。
たくさんの目……。
子供や大人、様々な種族が向ける、汚いものを見る目。
「気持ち悪い」
「こっちを見るな」
「化け物め」
「消えろ、村の恥さらしが」
ありとあらゆる罵詈雑言が、容赦なく全身を打ち据える。
夢の中の少年は、ただ頭を抱え、泥の中にうずくまっていた。
嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のようにじっと震え、自身の存在が世界から消滅することだけを願っている。
感情は、何もない。
ただひたすらに、その少年はじっと耐えていた。
終わることのない悪口雑言が永遠のように続き、やがて潮が引くように遠のいていく。
……ふと、クラウスは意識を取り戻した。
ゆっくりと目を開ける。
額に脂汗一つないし、呼吸も寸分違わず整っている。
クラウスにとって、これは悪夢でも何でもない。呼吸をするのと同じくらい、当たり前に繰り返されてきた記憶の再生でしかなかった。
彼が覚醒したのは、別の理由だった。
何かが、テントの中に入り込んできたのだ。
敵意はない。
もし殺気を含んだ気配であれば、たとえ眠っていても数百メートルの範囲で探知することが出来る。
テントに入ってきたそれはあまりにも微弱で、そして哀れなほどに怯えていた。
クラウスは身を起こし、足元に視線を落とした。
小さな塊が、そこにあった。
野生動物か……いや、違う。
そこには、暗闇でもよく目立つ綺麗な赤毛の少女が、寒さを凌ぐように体を丸めて眠っていた。
着ている服は、上から羽織った粗末な白い布一枚。
全身泥だらけで、まさしくボロボロの有様だった。
(……この格好、奴隷か。あるいは、人買いから逃げ出してきたか)
少女の足首には、鎖を引きちぎったような生々しい傷跡が残っている。
ここまで、どれほどの距離を、どれほどの恐怖と共に走ってきたのだろうか。
同情したわけではない。
自分にそんな優しさを持ち合わせた善人の心がないことは、よく理解している。
だが、先ほどの夢見のせいだろうか。
世界から拒絶され、行き場を失って流れ着いたこの小さな命を、無慈悲に追い出す気にはなれなかった。
クラウスは音もなく立ち上がると、自分の毛布を手に取り、震える少女の背中にそっと掛けてやった。
そして、再び自身の眠りへと落ちていった。
翌朝。
少女は、鼻孔をくすぐる香ばしい匂いに目を覚ました。
意識が覚醒した瞬間、彼女は弾かれたように体を強張らせた。
逃げなきゃ。
捕まったら、またあの暗い檻に戻される。
鞭で打たれ、焼けた鉄を押し付けられる日々に戻ってしまう。
少女はバッと飛び起き、周囲を警戒しようとした。
だが、彼女の視界を覆ったのは、ふんわりと柔らかな毛布の感触だった。
その布からは、日向のような、あるいは乾いた草のような、不思議と心が落ち着く匂いがした。
あまりの心地よさに、少女は思わず毛布に顔を埋め、深く息を吸い込んでしまう。
(いけない……うっとりしてしまった……)
少女は自分を戒めるように頭を振った。
安心している場合ではない。今いるこの場所すらも、死地かもしれないのだ。
昔から、他人の悪意には敏感だった。だが、不思議と何も感じない。
少女は毛布から這い出すと、こっそりとテントの隙間から外を覗いた。
世界は、朝の光に満ちていた。
そして少し先には、少し疲れたような顔立ちの男が、焚き火の前に座って川魚を焼いていた。
「お、起きたかい? よく眠れた?」
男が、穏やかな声で話しかけてきた。
少女はビクリと肩を跳ねさせ、反射的にテントの陰へと身を隠す。心臓が痛いほど脈打っている。
「大丈夫だよ。怖くない。さ……、魚を食べよう」
男は動かない。追いかけてもこない。
少女は、テントの陰からもう一度、注意深く男を観察した。
彼の纏う空気は、今まで出会ったどの大人とも違っていた。
欲望も、蔑みも、そして憐れみさえもない。
男の周囲を流れる力の波は、美しく淀みなく、見とれてしまうほどだった。
(この人は、敵じゃない……)
本能ではそう理解していても、足が一歩前に出ない。
そんな時だった。
「……ぐうううぅ」
魚の焼ける匂いに、お腹が悲鳴を上げる。
口の中が一瞬にして唾液で満たされた。
少女は衣服についたボロボロのフードを深々と被ると、恐る恐る男の焚き火へと近づいて行った。
クラウスは微笑みながら、木の棒に刺した魚を少女に差し出した。
焼きたては熱いだろうと思い、軽く口で息を吹きかけ、粗熱を取ってやる。
その何気ない仕草に、少女は目を丸くした。
少女は鼻をひくつかせ、獣のように匂いを嗅ぐと、一呼吸置いてから魚に食らいついた。
熱いのか、美味しいのか、あるいはその両方か。
少女の体は小刻みに震え、骨ごと噛み砕く勢いで魚を頬張っている。
「たくさんあるから、ゆっくりお食べ。大丈夫、ここは安全だ」
少女は一瞬クラウスをチラリと見ると、再び無心で魚を食べ始めた。
その瞳は、透き通るような黄金色。
まるで磨き上げられた琥珀か、あるいは夜の森を見通す猫の目のように、美しく大きな瞳だった。
あっという間に一匹を食べきると、少女は物欲しそうにじっとクラウスの手元を見つめる。
クラウスは苦笑し、焼けたばかりの二匹目を差し出した。
「あはは、いいよ。お腹いっぱいお食べ」
少女はひったくるように魚を受け取り、再び無心で食べ始めた。
生きるための食事。命を繋ぐための営み。
その姿は、どこか神聖ですらあった。
その時だった。
森を吹き抜けるやわらかな風が、二人の間をフワリと通り抜けた。
食事に夢中になっていた少女の頭から、深々と被っていたフードが、スルリと滑り落ちた。
「あっ!」
少女が声を上げるのと同時に、朝の光の下にその頭部が露わになる。
燃えるような赤色の髪。
そしてその隙間から、天を突くように生えた、二本の美しい紅色の角。
「魔族か。いや、ハーフリンクかな?」
クラウスの独り言に、少女は弾かれたように反応した。
食べかけの魚を放り出し、即座に後方へと飛び退く。
そして、魚の串を剣に見立てて構え、フーッ、フーッと、追い詰められた野良猫のような唸り声を上げて威嚇した。
だが……。
「大丈夫だよ。怖くないって言っただろう?」
クラウスは驚きもせず、ただニッコリと微笑む。
その笑顔は、作り物ではない心の底からの安らぎを含んでいた。
少女の動きが止まる。
ゆっくりと、荒い呼吸が整っていく。
相変わらず、クラウスからは敵意の一欠片も感じられなかった。
少女は串を下ろし、恐る恐る焚き火の傍へと戻ってきた。
それでも、視線は不安げに泳いでいる。
「私の名はクラウスだ。……きみ、名前は?」
少女は押し黙ったまま下を向いた。
小さな手が、自身の角を隠すように頭を抱える。
「……ない」
「ナイ?」
「なまえ……ない……」
消え入りそうな声だった。
奴隷であれば、確かにそうなのかもしれない。
クラウスは焚き火に新しい薪をくべながら、尋ねた。
「行く当てはあるのか?」
少女は首を横に振る。
「なら、私はこれから西のアンダルスへ向かうのだが……一緒に来ないか?」
少女はハッとして顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまった。
自分の頭にある角を、忌々しそうに指先で触れる。
「……むり。これ、あるから。どこもいけない。だれも、いれてくれない」
魔族の血。呪われた証。
この角がある限り、彼女はどこへ行っても迫害される。
魔族と敵対していたこの社会に、彼女の居場所はない。
その絶望が、十二歳の小さな背中を押し潰していた。
「大丈夫だ。私が、守ってあげよう」
「え?」
「きみは、今いくつだ?」
「……じゅうに」
「そうか。……なら、その角はじきに消えるから安心しなさい」
「えっ!?」
クラウスは、事も無げに言った。
少女は信じられないものを見る目で彼を見つめた。
「うそだ。そんなの、きいたことない」
「本当だとも。証拠に、私を見なさい。私にも角はないだろう?」
「……?」
少女はクラウスの頭をじっと見た。確かに角はない。
だが、それがどうしたというのか。
「私も、昔はそうだったからな」
クラウスはそう言うと、何かを思いついたようにテントへと戻った。
ゴソゴソと荷物を漁り、一つの帽子を取り出して戻ってくる。
それは、少し大き目な、少女の頭をすっぽりと覆う程の帽子だった。
「ほら、これを被るといい」
クラウスは少女の頭に、その帽子をぽすんと被せた。
サイズが大きすぎて、視界が半分ほど遮られる。
だが、そのぶかぶかの帽子は、少女の忌むべき角を完全に、そして優しく覆い隠していた。
「私が子供の時に使っていたものだ。捨てずに大事にとっておいてよかった」
クラウスは満足げに頷いた。
少女は、おずおずと頭の帽子に触れた。
角が、すっぽりと覆われていることがわかる。
そして、この帽子からはあの毛布と同じ、クラウスの匂いがした。
「……ありがとう」
少女は顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。
それは、太陽の光を受けた花が綻ぶような、眩しい笑顔だった。
「さて、名前がないのは不便だな。……私が付けてもいいかな?」
「うん!」
「そうだな……」
クラウスは少し考え込み、燃え盛る焚き火と、少女の赤い髪を見比べた。
強く、気高く、そして優しく育ってほしい。
「……シャルロッテ。シャルロッテというのはどうだ?」
少女は口の中で、その名前を何度か転がした。
シャルロッテ。シャルロッテ。
響きが柔らかく、そして何よりも、自分だけの特別な音がする。
「シャルロッテ……うん、いい! わたし、シャルロッテ!」
少女――シャルロッテは、帽子を押さえながら立ち上がり、クラウスを指差した。
「じゃあ、あなたはクラウス!」
名前を確認し、彼女はケラケラと嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、クラウスは胸の奥のよどみが、少しだけ軽くなるのを感じた。




