【第59話】失墜した精神、鼓動する思考回路(おもいで)
敵地のド真ん中で、警戒する要因がありながらも無鉄砲に進んだ挙句の果てが、格下相手に地面に臥して身動きとれずにこのザマだ。
ダムが崩壊したかのように、アルフェルの胸中に情けなさと、己への自己嫌悪が留まることなく流れ込んでくる。
怒涛の如く流れ込んでくる感情の荒波を、怒りへとアルフェルは置換していく。
それが向かう鉾先は――。
突然、向けられた憎悪の感情に染められあげたオッドアイの双眸に心臓でも射抜かれたのか、漆黒姿の男は体を一瞬だけ震わせると、後方に足元を泳がせる。
たったそれだけであった。
たった数刻にも満たぬ瞬間だった。
刹那の間に漆黒姿の男には、己の眼がまやかしか、否、魔法に犯されたと思える光景が広がっていた。
「馬鹿な! なぜ! なぜにおまえは立っているのだ!?」
心臓に杭でも打たれかのように驚愕する漆黒姿の男は我武者羅に眼の前の人物を凝視する。
今すぐに瞬きしたいほどに、この数秒で眼は充血感を与えてくる。
体中から噴出す汗がとても煩わしい、額から流れ落ちる汗の一つ一つに過敏に反応するも、それらの欲求をただ抑えつけた。
眼前の標的から放たれ続ける圧力が最初の立ち会いからは、想像をもつかない絶望感を叩きつられ、今にも子供のように咽び泣きそうだ。
ほんのちょっとの間だ。
ほんのちょっとの間で、ソレは猛獣から正体不明の化け物となったのだ。
漆黒姿の男は最初から、この化け物に勝てるとは思ってはいなかった。
漆黒姿の男が受けた任務は仲間が逃げるための時間稼ぎだった。
漆黒姿の男の魔法は時間稼ぎに向いており、援護がある状況下では自身の戦線離脱率は仲間内でも高い方だと思っていた。
それゆえに漆黒姿の男は欲が出てしまった。
こちらの策略がうまく行き過ぎたために、このにっくき天使の息の根を止められる喜びを! その功績を! 確約される素晴らしき未来を! この手に天使の首を納めるハズが。
その欲は霧散と化し、勇敢な蛮人であり番人であった漆黒姿の男の心が砕かれた今、思考は即座に逃走の一手に占められた。
アルフェルはよろめく漆黒姿の男の隙を見逃さず、即座に魔法を二つ発動させていた。
一つは自身または対象の体と精神を蝕む状態異常を全て消去し、健康な状態にする『実体二元回帰』。
この魔法効果によって、肉体に侵食していた毒、神経麻痺、睡魔、精神を汚染していた虚脱感、怒り、焦燥感、意識の混濁すべてを解復することができた。
2つめは自身の体と精神に負荷をかける状態異常を一時間だけ受け付けなくする『太陽からの贈り物』。
この二つの魔法により、現在の危機は回避できたといえるが、その代償となる負債は間違いなくアルフェルの身に積まれていた。
が、そんな己が招いた危機的状況の中で、アルフェルは『実体二元回帰』がもたらしてくれた優しい子守唄のような温もりに包まれる中、脳裏には幼少時に、マーリンに教わった授業が過ぎっていた。
* * * *
「いいですかな? 坊ちゃま。魔法には天使、魔魔法使いを問わず、一日の使用回数が定められております。詠唱を行うことによって、魔法を発動させれば回数を一つ消費し、さらに無詠唱の場合は使用回数を追加で一つ消費するのです」
「知ってるよ。マーリン、いまさらだ。」
アルフェルが退屈そうに言葉を返すも、マーリンは不満や怒りを表すことなく、満足気味に頷く。
「流石は坊ちゃま。では、私たち天使はさらに条件が別にあり、強力な魔法を使える代償ともいえる規律はご存じですかな?」
「もう一つのルール? ・・知らない」
声の抑揚もなく、興味すら帯びていない返答にも、マーリンはさして気分を害した様子もなく、教え子に知識を与えられる喜びが大きいのか喜色満面で授業を続けた。
「天使の翼には一翼ごと、そして、天使のワッカに魔法系統の起源が篭められているのはご存じですな?」
アルフェルは声を出すのも億劫なのか、それとも授業を遮らないためか首を縦に振ることで肯定を示す。
「翼が多いほど、多種多様な魔法が使え十二翼聖となれますが、それは 魔魔法使いにとって畏怖の対象と同時に標的の意味合いも持ってしまったのですじゃ」
魔魔法使い《ユダ》の総称がマーリンの口から飛び出すと、ピクリとアルフェルが体を動かし、不活溌な状態からギアが入ったかのように、瞳に真剣さが混じる。
「魔魔法使いからしてみれば、われわれは避ける相手でもあり、倒すべき相手でもある天敵ですからの。複数の翼が力の誇示にも威圧的な象徴となりえても、狩る側から見れば、的を持った標的になってしまうのですじゃ」
「たしかに魔魔法使いどもからすれば見間違えることはない目印だろうけど、ぼくらはネギを背負った鴨ではなく、自身を餌に獲物を待ち構える虎のようなものだろう?」
アルフェルが、この授業中に初めて、質問ともマーリンの説明に対しての解ともいえる声を上げる。
生徒のやる気を熱に転じ、情熱を持って自身の思考を経験を注ぎ込む熟練の講師のようにマーリンは明確に一言一句を滑らかに謳う。
「坊ちゃまの指摘どおり、正面から戦闘を行えば、死屍累々の惨状を地面に書き殴るだけでしょう。事実、過去にそういう事例はたくさんあった。ただ、そんなありふれた事柄の中で二つだけ違う結果を生み出した戦闘があったのですじゃ」
波紋の一つも起きない静寂な川を連想させるような雰囲気が二人の間に流れる。
それは上流から下流へと流れる生き残る術をただただ、貪欲に静かに零すこと溢れることを拒み、己の血肉と化すように全身で経口摂取を行っているかのようだ。
「その戦闘で異常ともいえる点は三つ。一つは理想郷の鐘の構成員の異常すぎる死体の数。その数、二百三十二。二つ目は死体は一カ所ではなく、数カ所にあること。三つ目は魔魔法使いの死体はなかったこと」
不可解な結果を告げられた探偵のように、アルフェルの顔が曇る。
「これら三つの異常性の結果として、四枚翼を持つ十二翼聖がその日を境に姿が消えた。そして、翌日に三枚翼の十二翼聖もあとをたどることとなったのですじゃ」
あたかも何事件の解決を委ねる刑事役よろしく、マーリンはアルフェルの答えを待つ。
問答形式ではないが、この沈黙は思考を巡らせる時間であり、自分が誇る主ならば回答を促さずとも、当時の答えを導きだしたあの天使の如く、真実を提示するであろうと。




