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クロノスフィア  作者: 遙 カナタ


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第九話(前編):星を覆う青写真

 第二裏山での激戦から三日。東雲蓮の身体は、ようやくあの強烈な筋肉痛と因果律の逆流による微熱から解放されつつあった。

 だが、右手の平に残るあの桜色のプラズマの熱い感触だけは、どれだけ石鹸で洗っても、授業中にシャーペンを握りしめていても、消えることはなかった。


「――はい、臨時ボーナス。今週もよく働いてくれたね、少年」


 放課後、いつものように雑居ビル地下の『乾総合信用調査(株)』の重い鉄扉を叩いた蓮の前に、コト、と置かれたのは、一本のぬるい缶コーヒーだった。


「乾さん。俺、事前に言っておきますけど、高校生だからって労働基準法を舐めないでほしい。命がけでヴァルハラのサイボーグ少女を叩きのめした報酬が、時給一、二〇〇円とこの缶コーヒー一本って、さすがに暴動が起きますよ?」

 蓮はカバンをソファに放り出し、呆れたように眼鏡を押し上げた。


「何を言うんだい。今回は現物支給だけじゃないさ。ほら、君のために、管理局の本部からちょっと面白い『資料』を取り寄せておいたんだ」

 乾はヨレヨレのトレンチコートのポケットから、何枚もの折り畳まれた古びた紙を取り出し、油汚れの目立つデスクの上に広げた。


 それは、一見すると何の変哲もない大判の世界地図だった。しかし、長年使い込まれているのか、羊皮紙のように黄ばみ、端々が擦り切れている。

 乾は引き出しから、インクが半分固まりかけた一本の赤インクの万年筆を取り出し、蓮の前に差し出した。


「少年。君に、ちょっとした『内職』を頼みたい。これまでの任務で、君の『特異点』としての網膜には、この世界に落ちてきている『時空のゴミ』の残響を正確に捉える力が備わっているはずだ。僕の指示する歴史的座標に、その万年筆で、君の目に見える『因果の歪みの点』をプロットしていってほしい」


「内職……? 地図に点を書くだけですか?」


『違うわよ、この原始人!』

 蓮の胸ポケットからピカリと桜色の光が放たれ、机の上に銀髪ツインテールの少女がふわりと現れた。エレナは地図の上に屈み込み、そのアメジスト色の瞳に深い警戒の色を浮かべている。

『ハズレ世界線の公務員、あなた……蓮の「特異点」としての固定能力を、世界規模の「因果の逆引きレーダー」として使う気ね?』


「流石はお嬢様、話が早くて助かるよ。地上からいくら観測機器を回しても、僕たちの世界の物理法則のノイズが邪魔をして、ゴミの『本当の配置』が見えてこないんだ。少年、僕が今から世界各地の時空歪曲ポイントの歴史名称を読み上げる。君は、その場所をじっと見つめて、インクを落としてくれ」


 乾はデスクの真空管付きスマホの画面を見つめ、ひどく低い、真面目な声で告げた。


「まずは、ペルー――ナスカ台地」

 

「ナスカ……地上絵があるところ、ですか?」

 蓮は言われるがままに万年筆を握り、世界地図の南米大陸、ペルーの海岸線沿いの砂漠地帯へとペン先を近づけた。


 その瞬間、蓮の脳裏に激しい、耳鳴りのような電子ノイズが走った。

 ただの印刷された紙の地図のはずなのに、ペン先がその座標に近づいた瞬間、紙の奥から「ジジ、ジジ……」と不気味な磁気のような抵抗を感じる。眼鏡の奥の視界が歪み、ナスカの座標を中心に、目に見えない光の波紋がじわリと広がっていくのが見えた。


「――見える。ここだ」

 蓮は吸い寄せられるように、ナスカへ赤インクの点を打った。


「次。エジプト、ギザの大ピラミッド。……続けていくよ。大西洋、バミューダ海域。イギリス、ストーンヘンジ。日本、奈良の飛鳥の石造物群。太平洋、イースター島」


 乾が淡々と、呪詛のように世界のオカルトスポットの名称を読み上げていく。

 蓮の右手は、まるで何者かに操られているかのように、地図の上を狂ったように走り始めた。ペン先が紙に触れるたび、パチリ、パチリと、小さな静電気のような桜色の火花が散る。


「う、く……っ!」

 蓮の額から、大粒の汗がボタボタと地図の上に滴り落ちた。

 点を打つごとに、地球全体の「重み」が右腕を通じて脳髄へと直接流れ込んでくるような、凄まじい精神的プレッシャー。

 横で見守るエレナも、明滅するホログラムの身体を強張らせ、蓮の万年筆の軌跡をじっと凝視している。


 ナスカ。ピラミッド。バミューダ。

 地上からでは、数千年の歴史の彼方に散らばる、ただの古代遺跡か不可解な怪奇スポットに過ぎない場所。

 しかし、蓮の特異点の視覚によって、それらの点が赤インクで地図上に固定され、線で結ばれていった瞬間――。


「……乾さん、これ……」

 蓮は万年筆を握ったまま、慄然として動きを止めた。


 世界地図の上に浮かび上がったのは、星座の図のようなロマンチックなものではなかった。

 世界中に打たれた赤インクの点は、毛細血管のように複雑に入り組みながら、完璧な幾何学的計算に基づいて繋ぎ合わされ――それは、巨大な、あまりにも巨大な「精密電子基板の配線図」そのものへと変貌していた。


 そして、その無数の赤い配線が、網の目のように地球全土を這い回り、最終的にドス黒い一本の幹となって収束している中心地。

 それこそが、蓮たちが今いるこの極東の島国であり――自分たちが暮らす、この地方都市の『県立緑ヶ丘高校・第二裏山』の座標だった。


『嘘……でしょ……?』

 エレナの声が、完全に血の気を失ったように掠れた。彼女は地図の上に両手を突き、自身の世界線の技術がもたらした「最悪の結末」を前に、ホログラムの身体を激しくブレさせている。


『これ、アトランティス・アカデミーの禁忌図書館の最奥、最高評議会しか閲覧を許されていない、幻の国家計画の設計図よ……! 異なる世界線を丸ごと一つ、アトランティス専用の「外付け魔導サーバー」へと改造する、星規模の接続(プラグイン)計画……!』


「接続計画……?」

 蓮は麻痺したような右腕を抱えながら、乾とエレナの顔を交互に見つめた。


『そうよ! ベータ世界線(アトランティス)がエネルギー過多でパンクして自滅しないために、ゴミを捨てるだけじゃ足りなかったのよ! あいつら……アトランティスの上層部は、この地球の地殻そのものに、数千年かけて「魔導回路」を埋め込んできたのよ! ナスカの地上絵も、ピラミッドも、すべてはその巨大なハードディスクの「配線の一部」だったのよ!』


 エレナの告白が、地下室の重苦しい空気を完全に支配した。

 地球という星そのものを、アトランティスという巨大な帝国の「内臓」として組み込み、全ての過剰な因果の毒素をリアルタイムで押し付けるための、星規模の不法投棄システム。それこそが、このハズレ世界線の真実だったのだ。


「なるほどねぇ。アトランティスの綺麗なお偉いさん方は、僕たちの住処をまるごと自分たちの都合の良い『巨大なオーパーツ』に変えようとしていたわけだ」

 乾は髪をガリガリと掻きむしり、忌々しげに舌打ちをした。


「そして少年。君の打った赤インクの配線が、すべて君の学校の裏山に収束している理由がこれで分かった。あそこが、地球というハードディスクの『メインの差し込み口』なんだよ。あそこに定期的にヤバい遺物が降ってくるのは、ゴミがたまたま落ちたんじゃない。システムが、そこを基点として地球全土にゴミを分配しているからさ」


「じゃあ……俺たちは、世界で一番危険な爆弾のスイッチの真上で、のんきに授業を受けたり部活をしたりしてたってことかよ……!?」

 蓮は激しい戦慄と共に、手元の地図を見つめた。

 ナスカの絵が鳥や蜘蛛の形をしているのは、地上から見た人間の目を欺くための偽装に過ぎなかった。上空から、あるいは因果の視点から俯瞰して初めて、それは「星を覆う青写真」としての真の機能を暴露する。


「その通り。そして、これだけ巨大な回路が世界規模で『文字通り書き写されて固定』されたんだ」

 乾は、蓮がプロットしたばかりの、いまだ生々しく桜色に微発光している世界地図を凝視した。その目が、かつてないほどの緊張感で鋭く光る。


「少年。君がこの地図に世界の歪みをガッチリと固定したことで、地球の底に眠っていた『青写真』の休眠システムが、こちらの世界線の現実として完全に認識されちゃったみたいだ。ほら、アナライザーが鳴り止まない」


 乾の首から下げられた真鍮の歯車が、ギチギチギチギチ……ッ!!と、火花を散らすほどの狂暴な速度で逆回転を始め、地下室の壁の赤色灯が、前回の比ではない凄まじい音量でサイレンを鳴らし始めた。


「ポートである緑ヶ丘高校の第二裏山で、回路の起動を検知した。……来るぞ、少年、お嬢様。この星の回路を強奪しに、ヴァルハラの本隊が、今度こそ本気で『穴』をブチ開けにやってくる」


 蓮は、手の中の万年筆を強く握りしめた。

 机の上に広げられた世界地図は、まるで生き物のように赤く脈動している。

 ナスカの地上絵から始まった星規模の陰謀が、今、蓮の住む小さな街の裏山で、世界の崩壊を懸けた大激突へと繋がろうとしていた。

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