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クロノスフィア  作者: 遙 カナタ


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第十話(後編):成層圏の鳴動、あるいは星の境界線にて

 非常用赤色灯が、地下室のコンクリート壁を狂ったように真っ赤に染め上げている。

 ジジジ、ジジジと、限界を超えて火花を散らす真鍮の歯車。デスクの上に広げられた世界地図は、蓮がプロットした赤インクの点から光の血管が急速に拡張し、ペルーのナスカ、エジプトのギザ、そして蓮たちが今いるこの島国の極小の座標を結ぶ『大容量魔導回路ブループリント』として、禍々しく明滅していた。


「少年、お嬢様! ぐずぐずしている暇はない、車を出すよ! これから起こることは、局所的な遺物の回収なんて可愛いレベルじゃない。地球というハードディスクの『ポート』が無理やりこじ開けられようとしているんだ!」


 乾がヨレヨレのトレンチコートの裾を激しく翻し、デスクの引き出しを乱暴に引き抜いた。中から現れたのは、半透明のガラス管に詰められた、怪しく発光する青い液体――アトランティス製の高濃度『因果燃料(タキオン・エーテル))』のアンプルだ。乾はそれを三本纏めて掴むと、愛用の『因果中和銃アンチ・タキオン・ライフル』のシリンダーへ力任せに叩き込んだ。ガチャン、と重々しい金属音が地下室に響く。その横顔には、いつものうだつの上がらない昼行灯な公務員の気配は微塵もなく、世界の境界線を守る「清掃員」としての冷徹な狂気が宿っていた。


「蓮、持っていきなさい!」

 机の上で明滅するエレナのホログラムが、蓮の足元に転がっていた『不錆の鉄剣』を指差して鋭く叫んだ。その立体映像の輪郭は、彼女の精神的動揺を反映して激しくバチバチとノイズが走っている。

『さっきあなたが地図にプロットしたせいで、ナスカやピラミッドに眠っていたアトランティスの古いパスラインが、あなたの高校の裏山に一斉に逆流し始めているわ! あいつらヴァルハラは、その逆流で生じた時空の「極薄の隙間」を突いて、軍隊規模の戦力を直接この世界線に空間転移させる気よ!』


「俺が……余計な点を打ったせいで……!」

 蓮は鈍色の鉄剣をひったくるように掴み取った。手の平が、あの戦闘の記憶を思い出してジンジンと熱を帯びる。乾の後に続いて地下室のコンクリート階段を駆け上がり、重い鉄扉を蹴り開けて夜の街へと飛び出した瞬間、蓮は息を呑んだ。


 まだ午後七時を過ぎたばかりの、いつもなら家々の明かりと街灯が点るだけの静かな地方都市の夜空。

 それが、今は見たこともないような禍々しいオーロラによって、不気味な紫色に染め上げられていた。しかも、そのオーロラはただの光の帯ではない。よく見ると、空の彼方で、幾千、幾万もの「光の幾何学模様」――まさに、先ほど地図に書き写したナスカの地上絵の蜘蛛や鳥、巨大な樹木の紋様が、地球を包み込む巨大なネオンサインのように夜天を這い回っているのだ。


「世界中の回路が、裏山の一点を目指してエネルギーを加速させている。……少年、乗れ!」

 乾がアクセルを踏み込み、薄汚れた軽自動車が悲鳴のようなエンジン音を立てて夜の道路へと飛び出した。


 窓の外を流れる景色は、すでに現実のそれから乖離し始めていた。

 アスファルトの隙間から、青白いエーテルの光がじくじくと噴き出し、すれ違う電柱の影が、まるで時空が歪んでいるかのようにグニャリと前後に伸び縮みしている。蓮は助手席で、冷たい鉄剣の柄を、文字通り指が白くなるほどの力で握りしめていた。


 緑ヶ丘高校の第二裏山の麓に車が急ブレーキで突っ込んだ時、そこはすでに「この世の果て」だった。


 普段ならサボり魔の生徒たちがたむろする鬱蒼とした雑木林は、空間そのものが融解したかのようにドロドロとした光の泥濘と化し、山頂へと向かう斜面全体が、巨大な桜色の光の柱によって貫かれていた。

 その光の柱の根元――地球の『入力ポート』の真上に、それは出現していた。


 バリバリバリバリバリッ!!!


 落雷を何千発も同時に落としたかのような、鼓膜を直接破界するような大音響と共に、裏山の空間が「ジッパーを開けられるように」左右へと引き裂かれた。

 引き裂かれた空間の裂目。その向こうに見えるのは、星の輝きすら枯渇し、ただ赤黒い砂漠と鉄の廃墟だけが広がる絶望の世界線――ガンマ世界線(ヴァルハラ)の光景だった。


「……嘘、だろ……」


 空間の裂目から、重々しい金属音を響かせて進み出てきたのは、二体や三体の略奪兵ではなかった。

 血のような赤いバイザーを煌めかせ、漆黒の重装甲を纏ったヴァルハラの『次元略奪兵(スカベンジャー)』の重装歩兵連隊。その数、およそ五十。さらには彼らの背後から、中世の攻城兵器とSFのプラズマ砲を融合させたような、巨大な『時空穿孔重砲』が、その汎用履帯を軋ませながら、獰猛な砲口をこちらの世界に向けて這い出してくる。


 そして、その連隊の先頭に立つ隊長格の少女が、重々しい金属音を立ててバイザーを跳ね上げた瞬間、蓮は完全に思考をフリーズさせた。


 そこに現れたのは、蓮のすぐ隣で怯えるホログラムの少女と、完全に同じ「顔」だった。


 だが、決定的に違っていた。

 蓮の知るエレナの瞳は、高飛車で、生意気で、それでもどこか瑞々しい生命力に満ちている。しかし、目の前に立つ漆黒の彼女の瞳は、底知れない泥のように濁り、すべての感情を摩耗させたかのように冷酷に凍りついていた。頬には、硝煙と返り血を浴び続けたような痛々しい古い傷跡が深く刻まれている。


「東雲蓮。世界線を繋ぐアトラクター、そして……ハズレ世界線にしがみつく、落ちこぼれの私」

 ヴァルハラのエレナが、ノイズ混じりの冷徹な電子音声に、わずかな嘲笑を交えて告げた。

「これより、この世界線の全因果律、および地殻回路の全エネルギーの強奪を開始する。……なぜそんな顔をする? お前たちが生き残るためにゴミを捨てるのが正義なら、私たちが生き残るためにそれを奪い返すのもまた、絶対の正義だ」


 彼女たちの背後にある、骨を突き刺すような荒涼とした世界の風。あれは、もし一歩間違えれば、今ここにいるエレナが迎えていたかもしれない姿。世界を失い、飢え、ただ明日を生き延びるためだけに、他者の世界を蹂躙する獣になるしかなかった「彼女」の成れの果てだ。


『蓮……っ』

 ポケットから覗くエレナの声が、今にも消え入りそうなほどに震えていた。

『……撃ちなさい。あれは、私であって私じゃない。世界を救えずに、ただ略奪することを選んだ亡霊よ。同情なんてしたら、あなたが消される……!』


 そう言うエレナのホログラムの手は、自身の顔を覆うように強く握りしめられていた。自分の未来の可能性が、あんなにも冷酷に汚れ果ててしまったことへの、吐き気をもよおすほどの自己嫌悪と絶望が、その小さな身体から痛いほど伝わってくる。


「同情なんて……できるかよ……」

 蓮は歯を食いしばり、一歩を踏み出そうとした。だが、足が泥に囚われたように動かない。

 目の前にいる五十人の兵士全員が、仮面の下に「エレナの顔」を隠しているのだ。これから自分は、あのアメジスト色の瞳を、エレナと同じその身体を、この剣で切り裂かなければならないのか。その事実が、普通の高校生である蓮の倫理観と精神を、内側から凄まじい力で削り取っていく。


「少年」

 乾が、蓮の肩にポン、と無造作に手を置いた。その手は、驚くほど温かく、そして固かった。

「残酷だけどね、これが『清掃員』の仕事だ。どちらが正しいかなんて、神様でも決められない。だけど――君が今守りたいのは、あっちの過去の絶望かい? それとも、今隣で泣きそうな顔をしてる、この生意気なお嬢様の明日かい?」


「……っ!」

 蓮はハッと隣を見た。ホログラムのエレナは、唇を血が出るほどに噛み締め、消えそうな光の中で必死に蓮を見つめている。


 守るということは、他の何かを切り捨てるということだ。その血の滲むような等価交換の現実が、蓮の脳髄を貫いた。

「……俺は……」

 蓮は、涙で歪みそうになる視界を無理やりこじ開け、鈍色の鉄剣を両手で強く、強く握り直した。

「俺は、俺の隣にいるエレナの明日を……絶対にゴミ箱には入れさせないッ!!!」


「全軍、突撃。因果の芽を摘み取れ」

 ヴァルハラのエレナが冷酷に手を振り下ろすと同時に、漆黒の略奪兵たちが一斉に斜面を駆け下りてきた。地表を蹴る重装甲の足音が、裏山の大地を不気味に揺らす。


「少年、突っ込むよ! 雑魚は僕が引き受ける、君はあの重砲へ道を切り拓くんだ!」

 乾がトレンチコートを翻し、最前列の敵目掛けて『因果中和銃』の砲口を向けた。


 ズドォォォォン!!!


 銃口から放たれたのは、光ではなく、空間そのものを消滅させる透過波だった。突撃してきた三体の略奪兵が、その直撃を受けて音もなく輪郭をかき消され、存在確率を強制的にゼロにされて時空の彼方へ消え去る。だが、敵の数は多すぎる。消し飛んだ仲間の死体を踏み越え、さらに十数体の略奪兵がエメラルドグリーンの高周波ブレードを引き抜き、津波のように蓮目掛けて殺到した。


「うおおおおおおおおおっっ!!!」

 蓮はがむしゃらに地を蹴り、桜色のプラズマを噴き上げる鉄剣を上方へと跳ね上げた。


 キィィィィィィン!!!


 金属同士が擦れ合う凄まじい火花と、二つの異なる世界線のエネルギーが衝突する高周波の絶叫が夜の雑木林に響き渡る。

 一体目の略奪兵のブレードを力任せに弾き飛ばし、その勢いのまま胴体を桜色の刃で横一線に薙ぎ払う。アトランティス規格の超高周波プラズマは、敵の次元装甲をバターのように容易く切り裂いた。


 パキィン、と硬質な音がして、切り伏せた略奪兵の仮面が真っ二つに割れる。

 地面に転がったその顔が、夕暮れの光に晒された。――やはり、エレナだ。固く結ばれた唇、短い銀髪、そして激痛に耐えるように歪められた、あの見慣れた顔。


「っ……!」

 蓮の身体が、一瞬だけ恐怖と罪悪感で硬直した。今、自分はエレナを斬った。その実感が、冷たい刃となって蓮の心臓を突き刺す。


「少年、止まるな! 動きを止めれば死ぬぞ!」

 乾の叫びと同時に、蓮の視界の死角から、別の二体の略奪兵が同時にブレードを突き出してきた。


『左からの一撃、しゃがんでかわしなさい! そのまま右の奴の膝の関節を狙うのよ!』

 ポケットから飛び出したエレナのホログラムが、涙声で絶叫する。

『見ちゃダメ! 彼女たちの顔を見ちゃダメよ、蓮! 彼女たちはあなたを殺すためにここに来たの! 迷いは死よ!!』


「分かってる……分かってるよ!!」

 蓮は叫びながら、地を這うように身を屈めた。頭上を敵の緑色のブレードが鋭くかすめ、蓮の髪の毛が数本、熱線でチリチリと焦げて舞う。

 体勢を崩したまま、蓮は右足を踏み込み、鉄剣を右側の略奪兵の装甲の隙間――膝の駆動部へと突き立てた。


 ドガァァァン!!!


 桜色のプラズマが内部で爆発し、略奪兵の巨体が斜面を転がり落ちていく。しかし、間髪入れずに三人目、四人目の略奪兵が、執拗に蓮の首を狙って刃を振り下ろしてくる。

 防戦一方だった。一本の刃を合わせるごとに、敵の剣を通じて、言葉にならない「滅びゆく世界の絶望」や「飢えの記憶」が、蓮の脳内に直接逆流してくるような錯覚に陥る。


(私達の世界には、もう水も光もない)

(奪わなければ、明日にはみんな消えてしまう)

(なぜお前たちのような『ハズレ』の世界が、のんきに明日を迎えているんだ――)


 そんな幻聴が、耳の奥で幾重にも重なって蓮の精神を狂わせにかかる。

「くそっ……、くそおおおっ!」

 躊躇った蓮の脇腹を、敵のブレードの先端がかすめた。制服の生地が裂け、鮮血が夜の闇にピシャリと舞う。


「痛っ……!」

「現地民が、これ以上の抵抗は無駄だ。因果を差し出し、大人しく消え去れ」

 包囲網が狭まる。三本の緑色の刃が、蓮の退路を完全に断つように同時に突き出された。


『これ以上……私の名前を、私の顔を、汚さないでえええええええええっ!!!』


 その瞬間、蓮のポケットから放たれた桜色の光が、これまでにないほどの質量を持って爆発した。

 エレナのホログラムが、自身の全データ、全演算能力をこの戦闘空間へ強制デプロイしたのだ。彼女の姿を中心として、アトランティス製の電子防護壁が三重に展開され、迫り来る略奪兵たちのブレードをギリギリのところでガチィン!と受け止めた。


「何っ!? ベータ世界の魔女、端末の身でありながら、これほどの出力を……!?」

 略奪兵たちが驚愕に目を見張る。


『蓮、今よ! 彼女たちはシステムに縛られている! でも、あなたには世界線を縛る因果を書き換える「特異点」の力がある! 手加減なんて、彼女たちへの一番の侮辱よ! 全力で、あいつらの絶望ごと叩き潰しなさい!!』


 エレナの叫びが、蓮の胸の奥で燻っていた最後の迷いを完全に焼き尽くした。

 そうだ、同情して手加減することこそが、生き残るために全てを捨ててここまで来た彼女たちの「覚悟」に対する、最大の侮辱だ。


「……分かった」

 蓮は溢れそうになる涙を完全に怒りへと変え、眼鏡の奥の目をカッと見開いた。

 右手の鉄剣の柄を、文字通り肉がちぎれるほどの力で握り直す。

 地殻から逆流してくるナスカの地上絵の全エネルギー。アトランティスがこの星に埋め込んだ、数千年の因果の残骸。それら全てを、蓮の『特異点』としての肉体が、一本の導線となって鉄剣へと強制的に収束させていく。


 ゴオォォォォォォォォッッ!!!


 蓮の持つ鉄剣から放たれる桜色のプラズマが、もはや光の刃という領域を超え、山頂を包み込むほどの「巨大な光の嵐」へと膨れ上がった。その圧倒的なエネルギーの余波だけで、周囲の雑木林の木々が一瞬で灰へと変わり、地表のアスファルトがガラス状に融解していく。


「退けええええええええええええっっっ!!!!」


 蓮は嵐そのものとなって突撃した。

 横一線に振り抜かれた桜色の巨大な一撃が、包囲していた略奪兵十数体のブレードを、その装甲ごと文字通り「一撃」で粉砕し、斜面の後方へと一斉に吹き飛ばした。

 割れた仮面の隙間から覗く、五十人のエレナたちの顔。彼女たちは驚愕に目をみはりながらも、どこか、その圧倒的な光の前に、救いを見出したかのような表情で光の彼方へと弾き飛ばされていく。


「残るは……あの砲だけだ!」

 蓮は泥と血にまみれた顔を上げ、山頂の『時空穿孔重砲』を見据えた。


 だが、ヴァルハラの本隊もまた、全滅を前にして最後の狂気を暴発させていた。

 重砲の砲座の真上に立つ、あの隊長格のヴァルハラのエレナが、自身の胸の装甲を強引に引き剥がし、内部の機械化された心臓から、直接重砲へとエネルギーのバイパス線を繋ぎ替えたのだ。


「我が命の因果を以て、ポートを完全破壊する。ハズレ世界線ごと、塵に還れ」

 彼女の濁ったアメジスト色の瞳が、自爆を覚悟した狂気の光でギラリと輝く。

 重砲の砲口に集束していた暗紫色の光球が、一瞬にして周囲の空間をブラックホールのように歪ませながら、限界を超えて膨張を始めた。発射まで、あと三秒。防ぎきれなければ、この街どころか、この世界線の地球そのものが因果の崩壊を起こして消滅する。


「少年、跳べ! 僕が足場を作る!」

 後方から満身創痍の乾が叫び、因果中和銃の最後のエネルギーを蓮の足元へと撃ち込んだ。

 中和波の反発によって、蓮の足元の大地がドカンと爆発し、蓮の身体を一気に山頂の重砲の真上へと、大砲のように打ち上げる。


「はああああああっ!!!」

 高度数十メートル。夜空のオーロラを背に、蓮は落下を開始した。

 右手の中の鉄剣は、地球全土の回路のエネルギーを吸い尽くし、もはや直視することすら不可能なほどの虹色の輝きを放っている。


「これで……終わりだァァァァァッ!!!」


 ヴァルハラのエレナが、重砲の発射レバーを引こうとした、その刹那。

 蓮は空中から、自身の全体重と、この世界を守りたいという全ての意志を乗せて、虹色の魔剣を砲口へと真っ直ぐに突き立てた。


 ――カグァァァァァァァァァンッッッ!!!!!


 世界から、一瞬にしてすべての「色」と「音」が消失した。

 激突の瞬間、蓮は確かに見た。

 光の奔流の中に消えゆくヴァルハラのエレナが、最後にバイザーを完全に落とし、傷だらけの顔で――ずっと張り詰めていた糸が切れたような、どこか救われたような、心からの穏やかな笑みを浮かべたのを。


「……ありがとう、私を止めてくれて」


 そんな声が、幻のように蓮の耳の奥に届いた気がした。

 直後、重砲のエネルギーが内側から大爆発を起こし、ガンマ世界線へと繋がっていた空間の裂目を、その絶望の歴史ごと完全に引き裂き、強引に閉鎖していった。


 風が、吹き抜けていく。

 気がつくと、蓮は焦げ付いた裏山の泥の中に、大の字になってひっくり返っていた。


 夜空を見上げると、禍々しい紫色のオーロラも、ナスカの地上絵のネオンも、嘘のように綺麗さっぱり消え去っていた。そこにあるのは、いつも通りの、少しだけ星の見える地方都市の、静かな静かな夜空だった。


「……はぁ、はぁ、……っ、げほっ」

 蓮は激しく咳き込みながら、自分の右手を見つめた。

 右手の中の鉄剣は、役目を終えたように完全に静まり返り、刃のあちこちがボロボロに欠けた、ただの冷たい古鉄に戻っている。全身の筋肉がちぎれそうなほどに痛み、脇腹の傷がズキズキと熱を持っていた。


 敵を退けた。世界は守られた。

 しかし、その掌に残る「同じ顔をした少女たちを斬り伏せた」という感触は、どこまでも重く、冷たく、少年の心に消えない傷跡として深く刻まれていた。


『……蓮』

 ふわりと、蓮の視界を遮るように、銀髪の少女のホログラムが現れた。

 エレナのホログラムは、これまでにないほどに薄く、今にも消えてしまいそうなほど半透明になっていた。自身の全データを使って蓮を守った代償だ。

 彼女は、泥だらけで傷だらけの蓮の顔をじっと見つめ、そのアメジスト色の瞳から、静かに光の粒子を涙のようにこぼし落とした。そして、そっと蓮の手の上に、自身の温もりのない光の手を重ねた。


『ありがとう、蓮。……そして、ごめんなさい。私の代わりに、私を……殺させてしまって』


「……違うよ。俺は……」

 蓮はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。

 守り抜いたこの退屈で愛おしい日常の背後に、確かに存在した「救えなかったもう一人のエレナ」の影。その痛みを背負いながら、それでも少年は、この世界のゴミを拾い続けるしかないのだ。


「いやぁ、本当にお疲れ様。少年、君はもう、時給三、〇〇〇円じゃ安すぎる世界の救世主だよ」

 隣に歩み寄ってきた乾が、膝をつき、自身の泥だらけのトレンチコートの袖で、蓮の額の血を乱暴に、しかし優しく拭った。

 乾の目にも、いつもはおちゃらけている大人の、言葉にならない切なさと、少年を戦わせてしまったことへの苦い後悔が滲んでいた。


 地球という巨大なオーパーツを巡る、最初の世界規模の危機の連鎖は、こうして、少年の胸に決して消えない傷を刻みながら、辛うじて最初の幕を閉じたのだった。

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