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クロノスフィア  作者: 遙 カナタ


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第十一話:氷棺のヴァルハラ

 乾が立ち上がり、煙草に火を付けようとした、まさにその刹那。

 ピキィ、と。鼓膜を突き刺すような、不快なガラスのひび割れ音が、二人の足元から響いた。


「……ッ!? 蓮、エレナ、離れろ!!」

 乾の顔から一瞬で余裕が消え去り、怒号が飛ぶ。

 終わったはずだった。アトランティスの地殻回路は確かに停止させたはずだった。しかし、臨界点を超えて暴走した因果の歪みは、すでに地球の許容量を超えていたのだ。


 直後、大気を引き裂く音は、金属が擦れ合う悲鳴に似ていた。大気を引き裂く音は、金属が擦れ合う悲鳴に似ていた。


「――蓮、下がって……!」

 

 蓮のポケットの中、泥に汚れたデバイスの画面が激しく明滅し、エレナの悲痛な叫びがスピーカーから爆音で鳴り響いた。

 画面の向こうのアトランティス規格のシステムからは、過負荷を示すエラーコードが真紅のノイズとなって溢れ出している。だが、そのエレナの声すらも、眼前に広がった『亀裂』が吸い込む圧倒的な轟音にかき消されていく。

 

 地殻回路の起動に伴い、戦場と化した裏山。

 ヴァルハラの軍勢とのどろどろの総力戦は、すでに防衛の限界を超え、最悪の破局を迎えていた。

 空間そのものが、まるで叩き割られた鏡のように鋭利な破片となって剥がれ落ちていく。漆黒の裂け目の向こう側に見えるのは、星々の光すら凍りついたような、見たこともない灰白色の異界だ。


「エレナ! 乾さんは!?」

「通信不能! この座標の因果律が完全に遮断されてる……ヴァルハラめ、ただの物資略奪じゃない、空間ごとこのエリアを削り取る気よ!」


 エレナの視線の先、裂け目の奥底から、無数の『影』が這い出してきていた。

 それは蓮が何度も戦ってきた、ヴァルハラの自動人形――そして、その前衛を率いるのは、エレナと全く同じ顔、同じ銀髪、同じ声を持つ『複製体』の軍勢だ。


 だが、今日の彼女たちは明らかに異常だった。

 纏う重装甲は錆び付き、内部の魔導炉からは、エネルギー枯渇を示す耳障りなノイズが鳴り響いている。駆動系からオイルではなく火花を散らしながら、飢えた獣のような狂気を目に宿して、彼女たちは地球の土を、草を、転がっているオーパーツを、貪るように掴み取ろうと手を伸ばしていた。


「あ……ああ……あ……」


 先頭の複製体が、掠れた声で啼く。

「熱……を……。因果、を……よこ、せ……!」


「来させるかよ……っ!」

 乾が対物魔導ライフルの銃口を跳ね上げ、引き金を引いた。鼓膜を震わせる爆音とともに放たれた魔導弾頭が、迫る複製体の胸を撃ち抜く。結晶化した火花が爆ぜ、駆動力を失った人形が崩れ落ちる。


 だが、数が違いすぎた。

 乾の放つ銃撃に対し、裂け目から溢れ出るのは数十、数百の絶望。

 そして、限界を迎えていた空間の歪みが、ついに本当の臨界点を迎えた。


 キィィィィィィィン――。


 脳髄を直接針で刺すような高周波。

 次の瞬間、裂け目の吸引力が爆発的に膨れ上がった。地表の土砂が、木々が、そしてこれまで命がけで死守してきたオーパーツの数々が、凄まじい濁流となって虚空へと吸い込まれていく。


 引き裂かれる空間の強烈なGに、蓮の身体が宙に浮いた。


『ダメ、因果の境界線が完全に崩壊してる……! 蓮、そのデバイスを離さないで――ッ!!』

 デバイスの画面の中で、エレナが必死に現実のこちら側へと手を伸ばす。だが、電子の画面からその実体が伸びてくるはずもなかった。


 叫んだ声は、世界線を引き裂く絶対的な断絶の前に霧散した。

 光が消え、音が消え、思考すらも凍結していく感覚の中で、蓮は乾の制止の声すら振り切るようにして、暗黒の底――凍てつくヴァルハラの世界へと墜ちていった。






 頬を刺すような痛烈な寒さで、蓮は目を覚ました。


「がはっ……、ごほっ……!」


 激しく咳き込むと、口から吐き出された息が一瞬で白い結晶となって散った。

 蓮は臨戦態勢のまま地べたを這うようにして身体を起こす。手のひらに触れたのは、土でも草でもない。完全に凍りついた、錆びた鉄板の感触だった。


「ここは……どこだ……」


 震える手で眼鏡を拭き、周囲を見渡した蓮は、その光景に息を呑んだ。


 頭上に広がるのは、星の輝きすら絶え絶えな、不気味なほどに淀んだ灰色の空。

 そして視線の先に広がっていたのは、『世界の死骸』だった。


 超高層ビルを思わせる巨大な建造物群が、まるで巨大な墓標のように幾重にも立ち並んでいる。だが、そのすべてが半ば崩壊し、厚い氷と雪に覆われていた。地平線の彼方まで続くのは、色彩を失った白と灰色のディストピア。

 耳を澄ましても、風が鉄骨を鳴らす陰鬱な鳴き声しか聞こえない。生命の気配が、完全に絶えている。


「これが……ヴァルハラ……」


 蓮のいる地球も、アトランティスからゴミを捨てられる不条理な世界だった。だが、ここには「ゴミ」すらもない。ただ、すべてが使い果たされ、凍りつき、終わりを待つだけの虚無だけが広がっていた。


 ガチガチと歯が鳴る。防刃ベストの下の薄い衣服では、この世界の絶対的な低温に数十秒と耐えられない。立ち尽くしているだけで体温を根こそぎ奪い去り、死へと誘う冷気。


 歩かなければ死ぬ。

 蓮は震える足に力を込め、雪に埋もれた鉄の街へと歩き出した。


 どれほど歩いただろうか。時間の感覚すら凍りつく中で、蓮は奇妙な「音」を耳にした。

 カツン。カツン。カツン。

 規則正しい、だがどこか歪な金属の歩行音。


 蓮が崩れたコンクリートの影に身を潜めると、吹雪の向こうから、数体のシルエットが現れた。


 それは、先ほどまで裏山で戦っていた、ヴァルハラの『複製体』たちだった。

 だが、その姿はあまりにも凄惨だった。

 片腕が引きちぎれ、内部の魔導配線(マギ・ケーブル)が剥き出しになった個体。頭部の大半が破損し、単眼のセンサーだけが怪しく明滅している個体。彼女たちは、互いの身体を支え合うようにして、限界を迎えた足取りで雪原を進んでいた。


「エネルギー……残量……〇・〇四パーセント……」

「次……の因果収穫……まで、保た……ない……」


 ノイズ混じりの声で、彼女たちは呟く。その表情には、地球で襲いかかってきた時の獰猛さは微塵もない。ただ、飢えと消滅の恐怖に怯える、迷子の少女たちの顔だった。


 突然、先頭を歩いていた個体が、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。

 完全にエネルギーが底をついたのだ。


「あ……」

 残された複製体たちが、その場にへたり込む。彼女たちは動かなくなった仲間の身体から、せめてものエネルギーを残存した魔導コアから抜き取ろうとしたが、そこから放たれたのは、冷たい灰色の光だけだった。


「もう……何も、無い……」


 一人の複製体が、凍りついた空を見上げて、ぽつりと言った。

「私たちの世界は……いつ、あたたかくなるの……?」


 その言葉が、蓮の胸を激しく抉った。

 アトランティスから見捨てられ、生き残るために地球から「因果の残滓」を盗み出すしか生きる道がない。彼女たちはただの侵略者などではない。ただ、システムによって極限まで追い詰められた、この世界の被害者なのだ。


 その時、蓮の足元で、凍りついた鉄くずが乾いた音を立てて転がった。


「――っ! 誰!?」


 センサーを鋭く光らせ、生き残った複製体たちが一斉に蓮の隠れるビル影へと視線を向けた。


「人間……? いいえ、この魔導波形は……『ハズレ世界線』の……!」


 不完全なセンサーが蓮を捉えた瞬間、彼女たちの目が変わった。

 絶望に沈んでいた瞳に、恐るべき『飢餓』の炎が灯る。


「因果……! 熱を持っている……! あの世界の世界線因子だ……!」

「あれを喰えば……魔導炉が……起動する……!」


「くそっ……!」


 蓮は回れ右をして、全力で雪原を駆け出した。

 背後から、凍りついた関節を悲鳴のように軋ませながら、猛烈な勢いで追ってくる金属音が響く。先ほどまで限界を迎えていたはずの複製体たちが、蓮という『熱源』を前にして、残りの全エネルギーを絞り出して追ってきているのだ。


 ザザザッ、と雪を蹴立てる音。

「待って……! お願い、それをよこして……! 私たちは、消えたくない……!」


 背後から迫る声は、悲痛な叫びそのものだった。だが、捕まれば確実に命は無い。彼女たちの魔導炉に直接エネルギーとして吸い尽くされ、蓮自身が凍りついた肉塊に変わってしまう。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


 冷たい空気が肺を灼き、呼吸が上手くできない。足がもつれ、雪に足を取られて蓮は激しく転倒した。錆びた鉄板の上に叩きつけられ、激痛が走る。


 見上げれば、すでに頭上には単眼のセンサーを真紅に光らせた複製体が迫っていた。

 剥き出しの金属の指先が、蓮の胸元へと突き立てられる。


「熱を――!!」


(ここまでか――)

 蓮が目を瞑った、その瞬間だった。


 ドォォォォォン――ッ!!!


 鼓膜を震わせる圧倒的な重低音。

 蓮のすぐ側、コンクリートの壁が木端微塵に吹き飛び、猛烈な衝撃波が複製体たちを薙ぎ払った。


「――が、あぁっ!?」

 不意の打撃を受け、複製体たちが雪原へと吹き飛んでいく。


 何が起きたのか分からず、蓮が目を開けると、立ち込める硝煙の向こうから、一人の男がゆっくりと歩み出てくるのが見えた。

 その手には、見紛うはずもない巨大な対物魔導ライフルが握られている。


「……最悪の場所に落ちてくれたな、蓮」


「乾……さん……!?」


 そこに立っていたのは、地球で自分たちを統括していた乾だった。だが、その表情にはいつも浮かべていた気怠い緩さは微塵もなく、ただ冷徹な戦士の眼光だけが宿っていた。


 乾はライフルのボルトを引いた。カシャイン、と重厚な金属音が凍てつく大気に響き渡り、巨大な薬莢が雪の上に落ちて熱を上げながら蒸発する。


「乾さん! なんでここに……!?」

「お前が裂け目に吸い込まれたからだ。前線指揮官が、部下を現場に置き去りにできるかよ」


 乾は短く言うと、ライフルを構え直した。その視線の先では、吹き飛ばされた複製体たちが、ボロボロの身体を無理やり駆動させて立ち上がろうとしていた。


「チッ……しぶといな。こいつら、完全にシステムが飢餓モードに入ってやがる。理屈が通じる状態じゃねえ」

「乾さん、彼女たちは……!」

「分かっている。だが、今は情をかける余裕はねえぞ、蓮」


 乾の目が、鋭く蓮を射抜く。

「寝言は終わりだ。ここにはお前を守る法も、安全な日常もありゃしない。生き残りたきゃ、その防刃ベストを死に物狂いで握りしめて俺の後ろを走れ。一歩でも遅れたら、その瞬間に凍った肉塊になるぞ」


 乾のライフルが再び火を噴いた。

 魔導弾頭が空間を歪めながら着弾し、迫り来る複製体の足元を正確に爆破して足止めする。乾の戦闘技術は圧倒的だった。だが、周囲のビルの残骸から、銃声を感知した新たな複製体の群れが、文字通り雲霞のごとく集まりつつあった。


 数体の群れではない。数十、数百の銀髪の波が、吹雪の向こうから押し寄せてくる。


「おいおい、街一つの全戦力が集まってきやがったか……。流石にこの弾数じゃ捌ききれんぞ」

 乾の額に、微かに汗がにじむ。その汗すらも、一瞬で白く凍りついていく。


「蓮、俺の後ろにぴったりつけ。この包囲網を突破して、一時退避する!」

「はい……っ!」


 蓮は乾の背中を追い、凍りついた廃墟の迷宮へと飛び込んだ。

 背後からは、無数の少女たちの「飢え」を孕んだ叫びと、金属の足音が、止むことのない地鳴りのようにどこまでも追いかけてくるのだった。


 世界線の底辺。

 この凍てつくヴァルハラの地で、日常を完全に失った蓮の、本当の生存闘争が幕を開ける。

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