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クロノスフィア  作者: 遙 カナタ


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第十二話:凍土の生存者たち

 どれほど走っただろうか。

 肺が爆発しそうなほど冷たい空気を吸い込み、蓮はただ前を行く乾のトレンチコートの背中だけを追いかけていた。

 一歩足を踏み出すごとに、スニーカーの底を通じて錆びついた鉄板の硬い振動が伝わってくる。背後から響く、無数の複製体たちのカツン、カツンという規則正しい、だがどこか歪な金属の歩行音。それは止むことのない地鳴りのように、じわじわと、しかし確実に二人の距離を縮めてきていた。


「乾さん……! 剣が……『不錆の鉄剣』が、全く起動しません……!」

 走りながら、蓮は右手の中の鈍色の鉄剣を見つめた。

 地球であれほどの虹色の輝きを放ち、エレナの複製体たちの重装甲を容易く切り裂いていた因果律の刃は、今はただの重く冷たい古鉄の塊と化している。いくら意識を集中させても、刃の表面に淡い光の粒子すら浮かび上がらない。


「当たり前だ、少年! ここはα世界線(アトランティス)にほぼすべての因果を吸い尽くされた『死んだ世界』だ!」

 乾は並走しながら、トレンチコートを激しく翻して振り返り、背後へ向けて『因果中和銃』の引き金を引いた。


 ズドォン!


 重厚な電子音が地下回廊に響き渡る。だが、銃口から放たれた半透明の透過波は、地球の時よりも明らかに細く、弱かった。追尾してきた一体の複製体の足元を辛うじて爆破し、そのバランスを崩させるのが精一杯だ。

「大気中に魔導エネルギーなんて1ミリも残っちゃいない。世界そのもののバッテリーが完全に干上がってやがるんだ。エネルギーの供給元がなけりゃ、α世界線(アトランティス)規格の魔剣も、お嬢様の入ったデバイスも、ただの贅沢な文鎮だよ。こっちの銃の残量もあと数発だ。大気中からエネルギーを自動再充填(リチャージ)できねえのが、これほどキツいとはな……!」


 乾の額から流れた汗が、顎のあたりで一瞬にして白く凍りつき、床に落ちて微かな音を立てた。

 二人が逃げ込んだのは、半ば崩落した巨大な地下回廊だった。かつては地下鉄の広大な駅構内、あるいは地下街だったのだろうか。頭上を走る太い配管はどれも凍りついて破裂し、つららが牙のように何本も垂れ下がっている。錆びついた鉄骨と凍りついたコンクリートの壁が、不気味な迷宮のように暗闇の奥へと続いていた。


 だが、その行き止まりの角を曲がった瞬間、蓮は目を見開いた。

 行く手を阻むように、巨大なコンクリートの天井が完全に崩落し、完全に退路が塞がれている。


「しまっ――」

 乾が苦渋の声を上げた時には、すでに遅かった。

 回廊の入り口を埋め尽くすように、猛烈な吹雪とともに、数十体の『複製体』がなだれ込んでくる。

 単眼のセンサーを怪しく真紅に光らせ、内部の魔導炉から耳障りなノイズを響かせる銀髪の少女たち。纏う重装甲は錆び付き、関節を駆動させるたびにオイルではなく火花を散らしている。だが、その瞳に宿る『飢餓』の光は、地球で見せたものよりも遥かに苛烈で、狂気に満ちていた。


「熱を……」

「因果の……因子を、よこせ……!」


 ノイズ混じりの掠れた声が、何重にも重なって地下回廊に木霊する。

 逃げ場はない。剣は動かない。乾の銃も、もう数発しか撃てない。ポケットの中のデバイスは、エレナとの通信を完全に断絶したまま、画面は真っ黒に沈黙している。


(ここまで、なのか……。俺は、この見知らぬ凍える世界で、彼女たちに吸い尽くされて終わるのか……?)

 蓮が奥歯を噛み締め、動かない鉄剣をせめてもの盾にしようと胸元に構えた、その瞬間だった。


 カァァァァァンッ!!!


 回廊に響き渡ったのは、魔導兵器の電子音ではなかった。

 耳を聾するほどの強烈な爆音。それは、泥臭い火薬の爆発を伴う「実弾」の銃撃だった。


 蓮の目の前、最前列にいた複製体の頭部が、強烈な物理的衝撃によって文字通り粉砕された。火花と金属片を撒き散らしながら、駆動力を失った少女の形をした身体が、硬質な音を立てて床の氷の上に転がる。


「――っ!? 乾さん、今の銃声は……!」

「俺じゃない! 下がれ、少年!」


 驚愕する蓮たちの前に、地下の闇、崩れた壁の隙間からいくつかの『影』が音もなく飛び出してきた。

 それは、機械の自動人形ではなかった。

 ボロボロの防寒具を幾重にも纏い、ガスマスクや傷だらけのゴーグルで顔のすべてを覆った者たち――「人間」だった。

 その手には、お世辞にも高性能とは言えない、錆びた鉄パイプや鉄くずを溶接して作ったような、不格好で巨大な実弾銃が握られている。


「あいつらが集まってきやがった! 撃て! 脳核(コア)をブチ抜いてスクラップにしろ!」

「エネルギーを渡すな! 1ミリでも掠め取られたら、俺たちの寿命が縮むぞ!」


 荒々しい人間の怒号が飛び交う。

 容赦のない実弾の嵐が、狭い地下回廊を埋め尽くした。複製体たちは機械の身体に何発も鉛の弾丸を受け、肉薄する前に内部の魔導炉を物理的に破壊され、次々と雪の中に崩れ落ちていく。

 生き残った数体の複製体は、その圧倒的な火力を前にして、不気味な警戒音を鳴らしながら吹雪の向こうへと退いていった。


 静寂が戻る。激しい火薬の臭いが、凍りついた空気を満たしていく。

 複製体の群れを瞬く間に沈黙させたその武装集団は、一斉に、銃口を蓮と乾の二人に向けた。


「動くな」

 ガスマスクの排気弁から、低く濁った男の声が漏れる。


 蓮は全身を硬直させた。震える手で眼鏡の位置を直そうとしたが、指先が完全に凍えきって動かない。そこにいたのは、間違いなく、このγ世界線(ヴァルハラ)の過酷な環境の中で生き延びていた、本物の人間たちだった。


「……おいおい。機械の次は、現地民の手荒い歓迎か」

 乾が両手を軽く上げながらも、その目はいつもの気怠さを完全に捨て去り、鋭く相手の出方を伺っている。

 武装集団のリーダーらしき大柄な男が、蓮の着ている地球の高度な防刃ベストや、乾の持つ洗練された管理局のライフルを、忌々しげに睨みつけた。


「その衣服……その贅沢なエネルギー兵器。お前たち、あのα世界線(アトランティス)の回し者か? それとも……俺たちの命を吸い上げて、のうのうと明日を迎えている『あっち側』の人間か」

「俺たちは、世界線の裂け目に落ちて――」

「黙れ!」

 男が容赦なく、火薬の臭いが残る重い銃口を蓮の額に突きつけた。金属の冷たさと、生々しい死の予感が、恐怖とともに蓮の肌に突き刺さる。

「連れて行くぞ。抵抗すれば、ここで肉塊にして、その衣服のエネルギーごと剥ぎ取るだけだ」


 両手を硬いワイヤーで後ろ手に縛られ、蓮たちは暗い地下通路をひたすら歩かされた。

 乾は抵抗する素振りも見せず、ただ静かに周囲の構造を目で記憶しているようだった。男たちの銃口は、一瞬たりとも二人の背中から外されることはなかった。


 どれほど歩いたか分からない。時間の感覚すらも凍りつくような暗闇の果て、頑丈な二重の鉄扉をくぐり抜けた先で、蓮は言葉を失った。


 そこに広がっていたのは、巨大な地下シェルターの残骸だった。

 かつては都市の広大な核シェルター、あるいは地下インフラ施設だったのだろう。分厚いコンクリートの壁に囲まれたその空間へ入った瞬間、蓮の目に飛び込んできたのは、言葉を失うほどの「世界の底辺」の光景だった。


 薄暗く、埃っぽい広大な空間に、何十人、何百人もの人々が身を寄せ合って凍えていた。

 まともな暖房器具など一つもない。いくつかのドラム缶の中で、何かよく分からない鉄くずやプラスチックのゴミ、あるいは乾燥した有機物の塊のようなものが、微かなオレンジ色の火を上げて煙を燻らせているだけだ。

 その貧弱な火を囲むようにして、ボロボロの毛布にくるまる老人たち。ガタガタと歯を鳴らしながら、母親らしき女性の胸に顔を埋める、痩せ細った子供たち。彼らの肌は、深刻な寒さと栄養失調で、不気味なほど青白く透き通っていた。


 この世界には、エネルギーがないのだ。

 地球では当たり前だった、部屋を暖めるための熱も、夜を照らすための電力も、水道から出る温かいお湯も。そのすべてが、過去にα世界線(アトランティス)という上位世界によって、徹底的に搾取され尽くした結果がこれだった。


「のお、お頭。こいつらは一体何なんだ?」

 シェルターの奥から、汚れに塗れた防寒着を着た一人の若い女性が歩み寄ってきた。男たちがガスマスクやゴーグルを外すと、その下にあるのは、絶望と怒りに摩耗しきった、冷たい人間の顔だった。


「地表のポートの近くに落ちていた。あっちの世界の人間だ」

 リーダーの男が吐き捨てるように言うと、シェルター内の視線が一斉に蓮と乾へと集まった。

 それは、純粋な「憎悪」と、自分たちが持たざる「熱」を持つ者への、生気のない「羨望」がドロドロに混ざり合った、刺すような視線だった。子供たちの瞳にすら、怯えではなく、獲物を見るような鋭い飢餓感が宿っている。


 蓮は、その視線の重さに耐えかねて、思わず目を背けそうになった。

 自分の世界が、α世界線(アトランティス)からのゴミに悩まされているとはいえ、いかに恵まれていたかを嫌というほど見せつけられていた。少なくとも、地球には太陽の光があり、緑があり、凍死の恐怖に怯えることのない日常があった。


 蓮は胸の奥を激しく掻きむしられるような痛みを覚えながら、どうしても気になっていた疑問を、リーダーの男にぶつけた。


「あの……さっきの、地上で俺たちを襲ってきた……エレナの顔をしたロボットたちは、一体何なんですか? どうして、彼女たちは俺たちの世界に……」


 蓮が震える声で尋ねると、男はドラム缶の微かな火を見つめながら、冷たく鼻で笑った。その笑みには、自嘲と、深い諦念が入り混じっていた。


「エレナ? ……ああ、あの自動人形の顔のことか。あいつらはな、この世界が完全にα世界線(アトランティス)に干上がらされる直前、当時の技術者たちが最後に遺した『因果略奪システム』だよ。残された僅かなα世界線(アトランティス)規格の魔導回路を組み込んで、あいつらは世界線の境界線を越え、他所の世界線からエネルギーを『盗んでくる』ようにプログラムされている。それしか、この世界の人間が生き延びる方法がなかったからだ」


 男は一歩、蓮に歩み寄り、その胸元に手を置いた。男の手は、氷そのもののように冷たかった。


「いいか、ガキ。あいつらが他所の世界を蹂躙して、因果の残滓を奪ってここに持ち帰ってこなければ、このシェルターのドラム缶の熱は、明日には完全に消える。……お前たちの世界が、何も知らずに『バイト代が安い』だの『平和で退屈だ』だのとのんきに明日を迎えているその裏で、俺たちの世界の子供が、毎日何人も凍死しているんだよ。あいつらは、俺たちの命の綱なんだ」


「――っ」


 蓮の心臓が、凄まじい力で締め付けられた。

 頭をハンマーで殴られたような衝撃が走り、呼吸の仕方を忘れるほどの絶望が少年を襲う。


 地球で「日常を守るため」に、エレナと共に必死に切り伏せていたあの複製体たち。

「手加減は侮辱だ」と覚悟を決めて全力で叩き潰した、あの銀髪の少女たち。

 彼女たちは、ただの世界を脅かす邪悪な侵略者などではなかった。

 この凍える地下の底で、明日をも知れぬ命を繋いでいる、本物の人間たちを生きながらえさせるための、悲しい「システム」だったのだ。彼女たちが地球から奪おうとしていたエネルギーは、この子供たちの明日の体温だった。


 どちらが正しいかなんて、神様でも決められない。

 守るということは、他の何かを切り捨てるということ。

 第十話の戦場の跡地で、乾に言われたその言葉の、本当の、そしてあまりにも残酷な意味が、少年の胸に深く、深く突き刺さった。


 蓮は縛られた手のまま、何も言えずに立ち尽くした。

 薄暗いシェルターの奥で、ドラム缶の火がパチリと爆ぜ、冷たい灰が虚空へと舞い上がっていった。

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