第十三話:過去の残響
地下シェルターの空気は、不快なほどに冷たく、そして重かった。
ドラム缶の中でパチパチと音を立てて燃えるのは、まともな薪ではない。かつてこの世界が高度な文明を持っていた頃の、プラスチックの残骸や合成樹脂の破片だ。黒く有害な煙が燻り、シェルターの低い天井へと吸い込まれていく。その煤けたオレンジ色の微かな光に照らされて、老人や子供たちが獣のような目で、縛り上げられた蓮と乾を見つめていた。
「お前たちの世界が、何も知らずに平和な一日を迎えているその裏で、俺たちの世界の子供が、毎日誰かが凍死しているんだよ。あいつらは、俺たちの命の綱なんだ」
リーダーの男が吐き捨てたその言葉が、蓮の脳髄を何度も、何度も激しく打ちのめしていた。
守るということは、他の何かを切り捨てるということ。
自分が緑ヶ丘高校の第二裏山で、エレナと一緒に必死に守り抜いた日常。あの時、エメラルドグリーンの高周波ブレードを振り回して襲いかかってきた『複製体』たちは、この凍える地下室で死を待つだけの人間たちにとって、唯一の「パン」を運んでくる作業機械に過ぎなかったのだ。
罪悪感と不条理さが、冷たい鉛となって蓮の胃の底に沈殿していく。
だが、その混沌とした思考の影から、普通の高校生としての、ある純粋な「疑問」が首をもたげた。
蓮は震える唇を開き、ドラム缶の火を見つめるリーダーの背中に向けて、掠れた声を絞り出した。
「……だったら、どうしてですか」
「あ?」
男が不機嫌そうに振り返る。ガスマスクの奥の目が、ガラス越しに蓮を威嚇するように細められた。
「あの自動人形たちが……あなたたちの命の綱なら、どうしてさっき、あの回廊で、人形を壊してまで俺たちを助けたんですか……! 俺たちをあのまま人形に襲わせて、エネルギーを吸い尽くさせれば、あなたたちのドラム缶の火はもっと長持ちしたはずだ。俺たちを殺して、身ぐるみを剥いだ方が、あなたたちにとっては合理的だったはずなのに……!」
蓮の問いは、シェルター全体の空気を凍りつかせた。
周囲の生存者たちが、息を詰めて蓮を見つめる。それは、あまりにも正論であり、同時にこの世界の残酷な生存ルールをそのまま突いた言葉だったからだ。
男は何も答えず、ただゆっくりと蓮の前に歩み寄ってきた。重い実弾銃の銃尻が床の氷を叩き、硬質な音がシェルターに響く。
男は蓮の前に屈み込むと、躊躇いなく、顔を覆っていたガスマスクの固定バンドを外した。
プシュー、と湿った排気音がして、マスクの下から現れたのは、凍傷の跡が痛々しく残る、四十代半ばほどの頑固そうな人間の顔だった。髭面に刻まれた深い皺。その男の濁った瞳は、蓮ではなく――蓮の隣で、縛られたまま黙ってタバコを咥えている乾の顔を、じっと射抜いていた。
「助けたんじゃない」
男はガスマスクを無造作に床へ転がし、低い声で言った。
「俺は、そのガキの言う『合理性』ってやつに従って、あの人形どもをブチ抜いたんだよ。……なぁ、そこのトレンチコートの大旦那。いつまでそうやって、うだつの上がらない清掃員のフリを決め込んでいるつもりだ?」
「……あ?」
乾が、初めて面倒くさそうに片眉を上げた。咥えたタバコの先端は当然、火がついていない。
男は立ち上がり、乾の前に一歩踏み出すと、乾の胸元――泥と油で汚れたトレンチコートの襟裏を、太い指先で乱暴に指差した。
「型落ちの『因果中和銃』に、そのヨレヨレの外套。そして、その襟の裏にひっそりと残っている、擦り切れた銀色の刺繍……。お前、β世界線の掃除屋の人間だな。それも、ただの末端の社員じゃねえ」
男の言葉に、乾はふっと視線を落とし、自嘲気密な笑みを浮かべた。
「勘弁してくれよ、おじさん。人違いだ。俺はただのしがない地方都市の公務員さ。有給の消化率と残労基準法だけが生きがいの、落ちこぼれの事務員だよ」
「トボけるな!!」
男が突然、シェルターが震えるほどの怒号を上げた。ドラム缶の火がびくりと揺れる。
「その面構え、そのふてぶてしい目付き……俺が忘れるわけがねえ! 十五年前、このγ世界線が、α世界線の接続計画によってすべての地殻エネルギーを強奪される直前だ。上層部が世界線ごと俺たちを見捨ててハッチを閉めようとした時、管理局の命令に背いてまで、地表のポートを開放し続けた『大馬鹿野郎の特務部隊』がいた」
男の言葉が響くたび、シェルターの奥から数人の老人たちが、ハッとしたように顔を上げ、乾の姿を凝視し始めた。
「当時の俺たちは、α世界線に抵抗する術も持たない、ただの難民だった。迫り来る世界の凍結から逃れるために、ポートの向こう側へ、別の世界線へ逃げ延びようと、何千人もの人間が押し寄せた。だが、管理局の本部は『因果の汚染を防ぐため』として、ゲートの強制閉鎖を命じたんだ。……それを、お前たちの部隊が現地で『命令拒否』を叩きつけた」
男の呼吸が、激しい感情の昂りで白く激しく吐き出される。
「お前たちの部隊は、管理局の追撃隊を相手に、ゲートの前で丸三日間、防波堤になって戦い抜いた。おかげで、俺たちの世界の女や子供、数千人が別の世界線へと逃げ延びることができたんだ。……俺の妹も、その中にいた。世界線の底に沈みかけていた俺たちに、最後に『人間の盾』になって道を拓いてくれた部隊の記章が……お前が今着ている、そのコートの襟裏の銀刺繍だよ!」
蓮は息を呑み、隣にいる乾の横顔を見つめた。
いつもうだつが上がらず、バイト代をケチり、有給のことばかり考えている、あの昼行灯の乾さん。
彼が、かつて一つの世界線の人間たちを救うために、管理局という世界のシステムそのものに反逆して命を懸けて戦った、伝説的な部隊の生き残りだというのか。
乾は、咥えていたタバコをペッと床の氷の上に吐き捨てた。
その目が、いつもの気怠いものから、ほんの一瞬だけ――底知れない暗闇と、深い傷跡を宿した「戦士の目」へと変わる。
「……昔の話だな」
乾は、ひどく静かな、掠れた声で言った。
「それに、その作戦は結局、大失敗に終わったさ。部隊は全滅。俺たちの独断専行のせいで、管理局の戦力配備は狂い、結果としてα世界線の不法投棄を止めるタイミングを完全に逃した。俺は仲間を全員死なせ、自分だけがのうのうと生き残って、今じゃ極東の島国でゴミ拾いの管理者だ。……英雄なんてのは、あの凍りついたゲートの前で死んだ奴らのことだよ、お頭さん」
「それでも、俺たちは生き残った」
リーダーの男は、乾の言葉を真っ向から受け止め、胸を張った。
「あの時の恩を、こんな錆びついた自動人形数体の損失で返せるなら、安いもんだ。俺たちの命の綱を壊してでも、お前たちをあいつらに喰わせるわけにはいかなかった。……それが、この死にかけた世界に辛うじて残った、俺たちの『筋』ってやつだ」
シェルターの中に、静かな余韻が広がる。
老人たちや子供たちの目から、先ほどまでの刺すような敵意が、少しだけ和らいでいくのが見えた。彼らにとって、乾の着ているトレンチコートは、かつて絶望の淵で自分たちを守ってくれた「救世主の鎧」そのものだったのだ。
だが、感動的な再会に浸っている余裕は、この極限の世界にはなかった。
ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ……。
地響きのような、不気味な振動がシェルターのコンクリート壁を揺らした。
天井からバラバラと冷たい砂埃が落ちてきて、ドラム缶の火が激しく明滅する。
「お頭! 地表の計器が異常数値を叩き出してます!」
通路の奥から、別の武装した青年が慌てて駆け込んできた。
「地殻の『接続ポート』を中心に、飢餓モードに入った複製体の群れが、一斉にこのエリアへ向けて大移動を始めてます! その数……さっきの比じゃありません! 数千、いや、この都市に眠っていた全個体が目覚めてます!」
「何だと……!? なぜだ、あいつらはエネルギー効率を保つために、普段は休眠しているはずだろ!」
リーダーの男が驚愕して青年を問い詰める。
「わ、分かりません! でも、何か凄まじい『熱源』が、この地下シェルターの真上にあるって、あいつらのセンサーが完全に誤認してるみたいで……!」
その言葉を聞いた瞬間、乾がハッとしたように隣の蓮を見た。
「……少年、お前、まさか」
「え……?」
蓮は自身の身体を見つめた。
縛られた両手。その右手の平が、妙に熱い。
地球の地殻回路を世界地図にプロットしたあの瞬間。ナスカやピラミッドのエネルギーを一本の導線として鉄剣へ収束させた時、蓮の肉体は、地球全土の「因果の熱」を一時的にその身に宿してしまっていたのだ。
大気中にエネルギーが皆無のこのγ世界線において、蓮の身体から放たれる目に見えない「因果の熱」は、凍える深海に落とされた一滴の鮮血のように、飢えた複製体たちを狂わせる致命的な誘惑になっていた。
「チッ、そういうことかよ……! 少年自体が、世界で一番美味そうなご馳走になってやがる!」
乾がワイヤーで縛られた両手に力を込めると、ミシミシと音を立てて、管理局規格の強化ワイヤーが力任せに引きちぎられた。乾はそのまま、蓮の縄も素早く解く。
「お頭さん、感傷に浸ってる時間は終わりだ! 少年をここに置いておけば、お前たちのシェルターごと、あの狂った人形どもに圧し潰されるぞ!」
「クソが……! 野郎ども、戦闘準備だ! 防壁のシャッターを全て閉めろ!」
リーダーの男がガスマスクを再び装着し、実弾銃のボルトを引いた。シェルター内が、一瞬にして怒号と悲鳴が飛び交う戦場へと変貌する。
バリバリバリバリバリッ!!!
シェルターの遥か頭上、地表のコンクリートを何千もの金属の爪が引っ掻くような、おぞましい音が響き渡り始めた。
剣は動かない。乾の銃も残弾わずか。生存者たちの実弾銃では、数千体の複製体の波を止められるはずもない。
「はぁ、はぁ……、俺のせいで……俺がここに落ちてきたせいで、またこの人たちが……!」
蓮は、恐怖に怯えて母親の胸で泣き叫ぶ子供の姿を見て、激しい自己嫌悪に陥った。
地球でも、γ世界線でも、自分はいつも最悪の引き金を引いてしまう。自分の「特異点」としての力が、世界の歪みを加速させていく。
恐怖と絶望で、蓮の視界が涙で歪みそうになった、その時だった。
ジジ、ジジジ……パチッ!
蓮の制服のポケットの中で、完全に沈黙していたはずのデバイスが、突如として桜色の強烈な静電気を放った。
蓮の身体に宿っていた「地球の熱」が、導線となった蓮の肉体を通じて、デバイスの内部回路へと逆流したのだ。
「――っ! エレナ!?」
蓮が慌ててデバイスをポケットから引っ張り出すと、真っ黒だった液晶画面に、凄まじい真紅のエラーコードの嵐とともに、砂嵐混じりの「声」が響き渡った。
『……にし、ん……原始、人……! 聞こえ、る……!?』
「エレナ! 聞こえる! 聞こえるよ!」
蓮は画面にすがりつくように叫んだ。
『通信……ギリギリ、ね……! 蓮、あなたの身体の、世界線因子の熱を、こっちから逆引きして……α世界線の、管理局のサーバーの……裏口を、無理やりこじ開けたわ!』
画面の向こう、ノイズに塗れたエレナの銀髪ツインテールが、激しく明滅している。彼女の背後には、地球の『乾総合信用調査(株)』の地下室の赤色灯が映っていた。彼女は地球側から、乾の残した機材をハッキングして、γ世界線への通信を力任せに繋ぎ止めていたのだ。
『いい!? 原始人! 今から、私の全演算データを使って、その世界の複製体たちのコントロール権に、一時的に割り込む! でも、エネルギーが圧倒的に足りないの!』
「エネルギー……!? でも、この世界にはエネルギーなんてどこにも――」
『あるわよ! あなたの手の中よ、この大馬鹿者!』
エレナが画面の向こうで、涙目で激怒しながら叫んだ。
『ナスカの地上絵も、ピラミッドも、すべてを線で結んでシステムを起動させたのは、あなたのその右手でしょ! 地球の地殻回路の残響が、あなたの肉体にまだ残っているはずよ! その「熱」を、私じゃなくて……その動かない『不錆の鉄剣』に、あなたの全意志と一緒に叩き込みなさいッ!!』
エレナの絶叫が、シェルターの轟音を突き破って蓮の脳髄を貫いた。
蓮は、床に転がっていた鈍色の鉄剣を、両手で強く、強く握りしめた。
大気中にエネルギーはない。世界は凍りついている。
だが――自分の中には、まだ守りたい日常の記憶がある。目の前で怯える子供たちを、かつて乾さんが命を懸けて守ろうとしたこの世界の人々を、もう一度救いたいという、人間の「熱」がある。
「おおおおおおおおおおっっっ!!!!」
蓮は咆哮した。
その瞬間、蓮の全身の毛細血管が桜色に発光し、肉体に残留していた地球の全エネルギーが、一本の濁流となって鉄剣の柄へと流れ込んだ。
キィィィィィィィン――!!!
役目を終えて錆びついていた古鉄の刃が、世界の寒冷を拒絶するように、凄まじい「虹色の輝き」を爆発させた。地下シェルター全体が、真昼のような圧倒的な光で満たされていく。
「な、何だこの光は……!? 凍りついた古い魔導剣が……目覚めただと!?」
ガスマスクを外したリーダーの男が、その光の熱量に圧倒され、腕で顔を覆いながら驚愕の声を上げた。
「へっ……。お待たせ、少年」
乾がライフルのボルトを叩き込み、不敵な笑みを浮かべる。
「さぁ、生存闘争の第二ラウンドを始めようか!」
蓮の手の中で、虹色の魔剣が、凍てつく世界の闇を切り裂くように激しく脈動していた。
無数の複製体たちの地鳴りがシェルターの扉を叩き割ろうとする中、少年と大人の、そして画面の向こうの相棒の、本当の反撃の火が今、灯ろうとしていた。




