第八話:天秤の傾く部屋、あるいは世界の廃棄物について
六畳一間の天井で、古びた蛍光灯が微かにジジ、ジジと不快な音を立てて明滅している。
緑ヶ丘高校の第二裏山から命からがら帰還した蓮は、泥と草の匂い、そしてエネルギーの余波で焦げ付いた制服のまま、自分のベッドへと深く沈み込んでいた。
両手の平を見つめると、皮膚の奥がいまだにジンジンと痺れている。あの桜色のプラズマ――自分の因果律を燃料として燃え盛ったアトランティスの魔剣の感触が、肉体の細胞一つ一つに焼き付いて離れない。
机の上には、戦利品となった鈍色の『不錆の鉄剣』がぽつんと横たわっている。さっきはあんなに世界を揺るがす光を放っていたというのに、今はただの、郷土博物館から盗み出されたアンティークの鉄塊にしか見えなかった。
しかし、何よりも不気味だったのは、部屋を満たす「圧倒的な沈黙」だった。
いつもなら、蓮が部屋にカバンを投げ出した瞬間に「ちょっと蓮! 泥だらけのままベッドに寝転がらないでよ!」と、鼓膜が痛くなるほどの高音で怒鳴り散らしてくるはずの少女の声が、今は全く聞こえない。
学習机の端に置かれた透明なスマートフォンは、満充電を示しているにもかかわらず、そのガラスの肌を暗く沈ませたまま、静かに、まるで呼吸を潜めるようにして佇んでいた。
「……エレナ」
蓮は重い身体を無理やり起こし、ベッドの端に腰掛けて、その冷たい透明な板に呼びかけた。
返事はない。ただ、蓮の声に反応したかのように、端末の奥で淡い桜色の光が、細く、弱々しく円を描いて明滅した。それはまるで、自らの存在を肯定することすら躊躇っているかのような、怯えた光だった。
「さっきのやつ……」
蓮は言葉を絞り出した。脳裏に、あの第二裏山で叩き割った赤いバイザーの隙間から見えた、あの横顔が鮮明に蘇る。夕日に照らされた白く滑らかな肌。固く結ばれた唇。そして、自分を射殺さんばかりに睨みつけてきた、あの鮮烈な桜色の瞳。
「お前と同じ顔をしていた。見間違いじゃない。瞳の色だって、今のお前の光と同じだった……。あいつは、誰なんだ?」
長い、長い沈黙が部屋を支配した。蛍光灯の細い電気ノイズだけが、蓮の耳の奥を引っ掻く。
やがて、諦めたような小さな電子音がピッと鳴り、スマートフォンの上空の空間がぐにゃりと陽炎のように歪んだ。
光の粒子が編み上げられていく。
現れた銀髪ツインテールの少女――エレナは、しかし、いつもとは全く違う姿をしていた。
いつもの高飛車な、世界を見下すような不敵な笑みはどこにもない。ホログラムの彼女は、まるで凍える寒さの中に放り出されたかのように、自身の細い両腕をきつく抱きしめ、視線を床の虚空へと落としたまま、静かに小刻みに震えていた。その立体映像の輪郭は、彼女の精神的動揺を反映しているのか、時折ノイズが走って激しくブレた。
『……あれはね、蓮』
エレナの口から漏れ出た声は、カサカサに乾いていて、今にも消え入ってしまいそうだった。
『あれは……私よ。ううん、正確に言うなら、「救うことに失敗した、どこかの世界線の私」の残骸よ』
「お前自身の……残骸?」
蓮は眼鏡の奥の目を丸くした。SF小説のクローン技術か何かの話をされているのだろうか。
『私たちの世界線――「ベータ・3」のアトランティスはね、あなたたちから見れば、魔法と科学が融合した、何でも叶う理想郷に見えるかもしれない。でもね、その輝かしい繁栄の裏側には、無数の「選ばれなかった世界線」の死屍累々が転がっているのよ』
エレナはゆっくりと顔を上げた。そのアメジスト色の瞳には、底知れない絶望の陰が落ちていた。
『世界には、歴史の「修正力」という絶対的なシステムが存在するの。……私、アトランティスの時空動力研究所に入ったばかりの頃、信じていたの。私たちの超科学を使えば、歴史のうねりに巻き込まれて滅びゆく平行世界を、悲惨な結末から救い出せるって。だから、何度もタイムパラドックスを恐れずに、滅びの確定した過去や、枯渇していく世界線に干渉したわ』
彼女の細い指先が、空中にいくつかの光のタイムラインを描き出す。しかし、そのどれもが、途中でぷつりと途切れるか、あるいは禍々しい赤色に変色して歪んでいく。
『でも、結果はすべて惨敗。歴史の修正力は、私たちが差し伸べた救いの手を、ことごとく残酷な形で叩き潰した。飢饉を救えば今度は戦争が起き、戦争を止めれば未知の疫病が流行る。どうしても、滅びの因果だけは書き換えられなかった。それどころか――』
エレナは悲痛に顔を歪め、ぎゅっと目をつぶった。
『私たちが「良かれと思って救おうとした世界線」は、修正力の拒絶反応のせいで、自力で繁栄するエネルギーを完全に去勢され、他者から奪うことでしか自らの存在確率を維持できない、醜い戦乱のディストピアへと成り果ててしまった。それが、あいつらヴァルハラ――「ガンマ世界線」の正体よ』
「じゃあ……あいつらは……」
『そうよ。あいつらスカベンジャーの甲冑を着ている兵士たちはみんな、かつて私が「救おうとして、救いきれずに、歴史の修正力によって略奪者に歪められてしまった」平行世界のエレナたちなの。彼女たちは滅びゆく自分たちの世界線を存続させるために、あらゆる世界線からエネルギーを「略奪」するしかない。……あいつらをあんなモンスターにしたのは、他でもない、私の無知とエゴなのよ!』
エレナのホログラムが激しく明滅し、バチバチと桜色の火花が散る。彼女の告白は、蓮の想像を遥かに超える重さで、六畳一間の安アパートの空気を押し潰していった。
『そしてね、蓮……。私がいるこの最高に優雅で美しいアトランティス(ベータ世界線)だって、ちっとも綺麗じゃないわ』
エレナは自嘲気味に冷たく笑った。
『私たちの世界がなぜ、これほどまでに圧倒的なエネルギーを保って繁栄し続けられると思う? ……それはね、「排出しきれなくなった過剰な因果の歪みや、危険な高密度エネルギーの廃棄物」を、他の「どうなってもいい世界線」へ容赦なく不法投棄しているからよ。そうして外にゴミを吐き出し続けなければ、アトランティスは自分たちのエネルギーの重さに耐えかねて、明日には自滅してブラックホールに変わるの。……あなたが昨日拾った「駆動炉のコア」も、今日のコンテナも、私個人が落としたんじゃない。アトランティスという国家が、システムとしてこの世界へ意図的にポイ捨てした「核廃棄物」と同じなのよ!』
「な、んだって……?」
蓮は言葉を失った。
乾が言っていた「ハズレ世界線」という言葉の、本当の意味を理解した。
自分たちの住むこの地球は、上位世界線が自らの繁栄を維持するために利用している、文字通りの「時空のゴミ箱」だったのだ。
あまりのスケールの大きさと、世界のシステムが持つあまりの身勝手さに、蓮の思考が完全にフリーズしかけた、その時。
ジリリ、と枕元に放り出されていた蓮の私物のスマートフォン(現代製)が、無骨なバイブレーションの音を立てて震えた。
画面を見ると、発信者は『乾さん』。
蓮は震える指先で通話ボタンを押し、耳に当てた。
「……もしもし、乾さん」
『いやぁ少年、お疲れ様。裏山のコンテナは無事に本部の大型回収班が引き取っていったよ。これで僕の明日の有休は確定だ。……で、どうだい? 君の部屋の空気は、随分と冷え込んでいるんじゃないかな?』
乾の声は、いつも通りのんきで、しかし、どこか全てを見透かしているかのように冷徹だった。
「……乾さん、知ってたのか。この世界が、ただのゴミ箱だってこと。あいつらが、エレナと同じ顔をしていることも」
『まぁね。僕たち時空遺物管理局は、その「ゴミ箱の清掃員」だから。アトランティスのような上位世界線が綺麗事をのたまいながら押し付けてくる危険物を、因果が崩壊しないように必死に処理して、このハズレ世界線の辻褄を合わせるのが僕たちの仕事さ。ヴァルハラの連中だって、元を正せばその被害者みたいなものさ。……どうだい、少年。嫌になったかい? 時給1200円のアルバイトにしては、あまりにも理不尽で、世界の汚い裏側を見せつけられる労働環境だろう?』
乾は電話の向こうで、缶コーヒーのプルタブを開ける音を響かせた。
『嫌なら、今すぐその契約書を破り捨てて、日常に戻ってもいいんだよ。アトランティスのお嬢様とのリンクを完全に切れば、君の生体波長も次第に薄れて、あいつらも君を追わなくなるかもしれない。まぁ、この街に明日どんなゴミが降ってくるかは、運任せになるけれどね』
「それは……」
蓮は受話器を握りしめたまま、視線を空中へと向けた。
そこには、自分のせいで数々の世界線が狂ってしまったという罪悪感に押しつぶされ、今にも消えてしまいそうなほど儚く揺れている、銀髪の少女のホログラムがあった。
彼女は確かに、世界の構造から見れば「ゴミを捨てる側」の住人だ。そのエゴのせいで、多くの世界を略奪者に変えてしまったのかもしれない。
だが、昨日、この部屋で爆弾が止まったとき、彼女は間違いなく蓮の無事を心から喜んでいた。今日の裏山でも、自分のプライドをかけて、必死に蓮を守るためにナビゲートしてくれた。
その少女が、今、こんなにも一人で傷つき、震えている。
それを「世界のシステムだから」と割り切って、自分だけ普通の高校生に戻ることなんて、東雲蓮のプライドが許さなかった。
「……乾さん」
蓮はベッドから立ち上がり、床に転がっていた『不錆の鉄剣』を再びしっかりと右手で掴み取った。手の平の痺れは、いつの間にか心地よい熱さへと変わっていた。
「明日、バイトのシフト、入ってますか?」
『おや……』
電話の向こうで、乾が少しだけ驚いたように、そして本当に嬉しそうに声を弾ませた。
「時給1200円じゃ全然足りないんで、次の現場からは危険手当、きっちり上乗せしてください。ゴミ箱だろうがハズレだろうが、俺の学校の裏山を戦場にされるのは、大迷惑なんですよ」
『ははっ、言うようになったねぇ、少年。いいよ、明日の放課後、またいつもの地下室で待ってる。定時退勤のために、こき使わせてもらうからね』
通話が切れた。
蓮はスマホをベッドに放り投げ、目の前で呆然と自分を見つめているエレナへと向き直った。
「聞いたか、エレナ。お前が過去に何を失敗して、お前の国がどれだけ汚いゴミを捨ててこようが、俺には関係ない」
蓮は鉄剣の刀身を親指でそっとなぞり、不敵に笑ってみせた。
「お前が捨てたゴミは、俺がバイト代をもらって全部綺麗に片付けてやる。あいつらが『奪うために』また来るって言うなら、このアトランティスの剣で、何回だって追い返してやるよ。だから――そんな情けない顔すんな。お前は、うるさいくらい威張ってる方が似合ってる」
エレナはアメジスト色の瞳を大きく見開いた。
ホログラムの唇が何度も微かに震え、やがて、彼女はふいっと顔を背けて、いつものようにツインテールを激しく揺らした。その頬が、ほんのりと、しかし確実に、夕日よりも鮮やかな桜色に染まっていくのを蓮は見逃さなかった。
『……フン、生意気よ、蓮! 原始人のくせに、首席(見習い)の私を慰めるなんて、百年早いわ! ……でも、まぁ、いいでしょう。あなたのその労働意欲に免じて、明日からも、特別なアトランティスの超科学で、あなたのジャミングを「最高出力」で維持してあげるわ。感謝しなさいよね!』
部屋の空気が、一瞬にしていつもの、騒がしくて愛おしい「非日常の日常」へと戻っていく。
天井の蛍光灯は相変わらずジジと音を立てていたが、蓮の胸の奥にある、世界の理不尽に立ち向かうための小さな炎は、もう二度と消えることはなかった。




