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クロノスフィア  作者: 遙 カナタ


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第六話:放課後のデッドラインと、時給1200円の特異点

「――ということで、本日付をもちまして、我が『時空遺物管理局』極東支部における臨時の外部協力員……まぁ、身も蓋もない言い方をすれば『非正規のアルバイト』として、君の籍を登録させてもらったよ。おめでとう、東雲蓮くん。これで君も立派な、世界の裏側の労働者だ」


 学校のチャイムが鳴り響いた放課後から、わずか三十分後。

 蓮は、昨日までの血生臭い修羅場が嘘のように静まり返ったいつもの教室ではなく、学校から自転車を全力で漕いで十五分ほどの距離にある、うらぶれた雑居ビルの地下室にいた。


 大通りから一本入った路地裏。築四十年は優に超えているであろう鉄筋コンクリートの建物の、ひび割れた階段を降りた最果て。表の古びたプラスチック看板には『乾総合信用調査(株)』と控えめに書かれている。

 しかし、一歩中に足を踏み入れれば、そこは昭和のうだつの上がらない探偵事務所と、マッドサイエンティストの最先端SF研究所を悪魔のミキサーで足して二で割ったような、混沌極まる空間だった。


 ヤニ汚れで黄ばんだ壁一面のスチールラックには、青白い火花を不規則に散らす剥き出しの電子基板や、針が逆回転を続ける古びた大正時代の掛け時計、さらには、コルク栓の隙間から不気味な緑色の光のエーテルをじくじくと漏らし続けているガラスの小瓶(乾いわく、アトランティスから流出した謎の液体らしい)が所狭しと並べられ、怪しげな唸り音を立てている。


 その部屋の中央に置かれた、バネのへたった革張りの応接ソファ。そこに小さくなって座る蓮の前で、乾が昨日と全く同じヨレヨレのトレンチコートのポケットから、くしゃくしゃになった一枚の契約書を差し出してきた。


「あのさ、乾さん……。俺、一応これでも大学受験を控えた、ごく普通の高校二年生なんだけど。なんで平日の学校終わりに、こんな不審者一歩手前の男の地下室で、世界のゴミ拾いの契約書に判を捺さなきゃいけないわけ?」

 蓮は制服の詰襟のホックを窮屈そうに外し、差し出された書類の不穏な項目に、じっと眉をひそめて目を落とした。


 職種:因果律固定業務(およびそれに付随する物理的雑務全般)


 時給:一、二〇〇円(特殊危険手当、精神摩耗補填金を含む。交通費は実費支給)


 備考:任務の遂行中に発生した予期せぬ世界線の消滅、因果の逆流による肉体の粒子化、あるいは歴史改変による存在の抹消について、当管理局は一切の法的・人道的責任を負わないものとする。


「ちょっと、どう考えても時給が安すぎない!? 命がかかってる割に、近所のローソンで深夜にレジ打ちしてる方がまだ稼げるじゃん!」


「何を言うんだい少年。これでも予算が厳しい極東支部の、これがギリギリの限界なんだよ。上が渋ちんでね、これ以上の危険手当を申請しようとしたら、始末書を三枚書かされた上に有給を削られそうになった。その代わりと言ってはなんだけど、ほら、僕からのささやかな福利厚生さ」

 乾はめんどくさそうに頭を掻きながら、ぬるくなった缶コーヒーを蓮の前にコト、と置いた。

「君がこの『ハズレ世界線』で今後も平穏に生き延びるための、必要経費なんだよ。昨日、ヴァルハラのスカベンジャーが捨て台詞で言っていた『因果律の監視網に貴様の見覚えのないデータを記録した』って言葉、まさか忘れたわけじゃないだろう?」


 乾の眠そうな目が少しだけ細められた瞬間、蓮の背中に、昨日の博物館での冷たい恐怖がちくりと蘇った。

「あいつ……今回は退くけど、ヴァルハラはお前たちを逃がさない、って確かに言ってた」


「そう。あいつら戦闘狂の世界線(ガンマ・1)の連中はね、一度目をつけた『特異点』を絶対に逃がさない。君がどれだけ『僕は関係ありません』って顔をして学校で数学の授業を受けていようが、あいつらの時空レーダーは君の生体波長をばっちりマークしている。君が普通に生活しているだけで、時空の隙間からいつでもあの緑色のブレードが降ってくる状態なんだよ。それを防ぐためにも、僕たち時空遺物管理局の保護と、偽装バックアップが必要不可欠ってわけ。……ねぇ、そこのお嬢様?」


 乾が視線を向けると、蓮のブレザーの胸ポケットに収まっていた、あの透明なガラス端末が待ってましたと言わんばかりにピカリと鮮やかな桜色の光を放った。

 机の上の空間が陽炎のように歪み、そこへふわりと姿を現したのは、銀髪のツインテールを不機嫌そうに揺らす立体ホログラムの少女――エレナだった。彼女は空中であぐらをかくようにして座り、小さな腕を組んで乾をキッと睨みつけた。


『ハズレ世界線の公務員の言う通りよ、蓮。あなたの「特異点」としての因果の波長は、もうあいつらのロケーターにディープに刻み込まれちゃってるわ。私がアトランティスの超科学技術を使って、あなたのそのスマホから「因果妨害電波(タイム・ジャミング)」を常時周囲に流してあげなきゃ、明日にはあなたの学校の校庭に、空間を突き破ってガンマ世界線の重戦車が降ってくるわよ』


「校庭に戦車って……勘弁してくれよ、進路指導の面談どころじゃないだろ」

 蓮は両手で顔を覆い、深くため息をついた。どうやら、自分の愛すべき退屈な日常は、昨日土器を突き出した瞬間に、本当に木っ端微塵に砕け散ってしまったらしい。


「まぁ、そうやってこの世の終わりみたいに落ち込みなよ。悪いことばかりじゃないさ」

 乾はパイプ椅子をギィと鳴らして自分のデスクに戻ると、不自然なほど多くの真空管が側面から飛び出している、例の魔改造スマホの画面を親指でパチパチとタップし始めた。


「君がこうして不本意ながらもアルバイトとして僕の隣にいてくれるおかげで、この街に定期的に落っこちてくる『時空のゴミ(オーパーツ)』の回収効率が、理論上は劇的に上がるんだから。これまではね、エーテル反応を検知して僕が現場に軽自動車を走らせても、このハズレ世界線の確率拒絶反応のせいで、ゴミが僕の手の届かない別の時間軸や平行世界へ勝手にスライドして消えちゃうことが多々あった。だけど、君という強力な『アトラクター』が現場に立てば、そのゴミの存在確率がこの世界の現実にガッチリと固定される。いわば、君は歩く最強の『時空のゴミ捕り粘着シート』なんだよ」


『ちょっと! 私の貴重な相棒(仮)を、そんなゴキブリホイホイみたいな下品な例え方で呼ばないでくれる!?』

 エレナが空中でホログラムの小さな拳を何度も振り上げて猛抗議する。

『蓮の能力はね、異なる世界線の矛盾したエネルギー同士を衝突させずに、一時的に「調和」させて現実化させる、極めて稀少な因果の触媒なのよ! 現に、私のこの端末の充電だって、蓮が触れることで、そっちの世界の微弱で原始的な「家庭用100Vコンセントの電気」を、アトランティス規格の「高密度魔導エーテル」に変換して、無理やりバッテリーにねじ込めているんだから! 感謝しなさいよね!』


「へえ、やっぱりそうなんだ。少年、君の身体を流れる因果の変電パス、本当に便利だねぇ。僕のこの『エーテルアナライザー』の動力結晶も、君がちょっと指先で触ってくれれば、いつでもフルチャージってわけだ。今度から充電器代わりにさせてもらうよ」

 乾が品性の欠片もないニヤニヤ笑いを浮かべながら、首から下げた真鍮の歯車付きの機械を蓮の目の前に差し出してきた。


「ちょっと待ってくれ、俺はただの人間モバイルバッテリーじゃないんだけど! 人権って言葉を知らないのか――」

 蓮がソファから立ち上がり、不当な労働環境に抗議の声を上げようとした、まさにその瞬間だった。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!!


 地下室の薄暗い壁の上部に設置されていた、昭和の工場にあるような場違いなほど巨大な「非常用赤色灯」が、突然、鼓膜を激しく震わせるけたたましいサイレンの音と共に、真っ赤な光を撒き散らしながら大回転を始めた。


「……チッ。これだ。これだから現場職は嫌なんだ。有給休暇の旅行計画を練る暇もありゃしない」

 乾の眠そうだった三白眼が、一瞬にして冷徹なプロの回収員のそれへと切り替わった。彼はデスクのブラウン管じみたモニターに飛び込んできた、点滅する真っ赤なアラート画面を鋭い目付きで凝視する。


「少年、お嬢様。のんびり文句を言っている時間はなくなったよ。お仕事の時間だ。座標が出た。場所はここから東北東に約三・二キロ――少年、まさに君がさっきまでいた『県立緑ヶ丘高校』の第二裏山の敷地内だ。大規模な時空の局所歪曲が発生している。落ちてきた遺物のエネルギー規模は……中型、危険度クラスB。放置すれば周辺の都市区画が一部消失(ロスト)するレベルだ。……それと、もう一つ最悪なオマケがついてる」


 乾は爪の伸びた指先で、モニターに表示された異常なタキオン粒子の波形をトントンと叩いた。


「この獰猛なタキオンの指向性波形……間違いないね。昨日のお友達――ヴァルハラの『次元略奪兵(スカベンジャー)』が、君の因果ログを逆探知して、早くも別動隊をこちらの世界線に送り込んできたみたいだ」


「なっ……! もう来たのかよ!? まだ二十四時間も経ってないぞ!」

 蓮の心臓が、ドクンと嫌な重低音を立てて跳ね上がった。学校の裏山。ついさっきまで自分が部活の声を遠くに聞きながら、自転車で通り過ぎたばかりのあの場所が、次の戦場になる。


『嘘でしょ!? あいつら、私のジャミングを力技で突破して、蓮のいる座標をピンポイントで狙い撃ちしてきたのよ! 蓮、ぐずぐずしないで急ぐわよ! アナライザーの残響を見る限り、あそこの裏山には、私の世界線(ベータ・3)から落っこちた、昨日よりさらに出力のヤバい「アトランティス製の遺物」が眠っている気配がするわ!』

 エレナのホログラムが、焦燥と緊迫感に駆られたように激しく明滅し、桜色の火花を散らせた。


「よし、作戦会議は車内だ。少年、ついてきな。判を捺した瞬間から、君の時給はすでに発生しているからね」

 乾はヨレヨレのトレンチコートの裾を鋭く翻すと、壁のスチールラックの奥から、何やら古びた「火縄銃」のような歪な銃身をした不気味な長銃と、一本の『不錆の鉄剣』――昨日、あの甲冑の男が断腸の思いで床に投げ捨てていった、アトランティス製の高周波電磁ブレードを容赦なく引っ掴んだ。


「ほら、これは君用だ。持っていきな。昨日の君とお嬢様の強制暴走(ハッキング)のおかげで、この剣の内部プロテクトは僕の端末で完全に管理局仕様に書き換えてある。お嬢様のナビゲートがあれば、君のような素人の手でも、最低限の『攻守を兼ね備えた盾』くらいにはなるはずさ」


 ドサリと、蓮の両手に昨日味わったあのずっしりとした異質な金属の重みが伝わってきた。昨日、自分の首を一文字に撥ね飛ばそうとした、あの狂気的なエメラルドグリーンの魔剣が、今は頼りなく震える自分の両手の中にある。その奇妙な因果の巡り合わせに、蓮は喉の奥でごくりと生唾を飲み込んだ。


「……行くぞ、エレナ。置いていかれるなよ」


『あったり前じゃない! ハズレ世界線の公務員、そのポンコツ車のアクセルを底が抜けるまで踏み込みなさい! 私たちの偉大な超科学の結晶が、あんな脳みそまで筋肉でコーティングされたヴァルハラの野蛮人に汚されるなんて、私のプライドが絶対に許さないんだから!』


 地下の重苦しい空気の中を、それぞれの決意を胸に駐車場へと駆け下りていく三人の影。

 昨日の狭い自室での爆弾処理なんて、ただのささやかな前哨戦に過ぎなかったのだ。

 夕暮れに染まる地方都市の寂れた高校の裏山を舞台に、アトランティスの超科学、ヴァルハラの圧倒的な軍事力、そして地球の冴えないゴミ拾い組織の思惑が三つ巴となって交錯する、東雲蓮の「時給1200円の放課後」が、今、本格的に激動の幕を開けるのだった。

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