第三話:土器と、バッテリー1%の奇跡
「――侵入者。現地民か」
地を這うような、冷徹な電子音声が、しんと静まり返った暗い第一展示室の空間に響き渡る。
歪んだ空間の裂け目――『世界線:ガンマ・1』からこの郷土博物館へと現れた次元略奪兵の重厚なフルフェイスバイザーが、闇の中で血のような赤色にギラリと不気味に輝いた。男が纏う鈍色の甲冑は、この世界のどんな金属とも異なる、光を歪ませる奇妙な質感を湛えている。
その男が、おもむろに『高周波電磁ブレード』を軽く一振りした。
ただそれだけの、大した力も入れられていない無造作な動作。
しかし、刀身から放たれた極薄の鮮烈な緑色のプラズマは、空間の空気を焼き裂く不快な高音を鳴らし、近くにあった頑丈な木製の展示台を、まるで熱したナイフでバターを断ち切るかのごとくあっさりと両断した。
自重を支えきれなくなった展示台の上半分が滑り落ち、自慢のガラスケースが床に激しく砕け散る。その切断面は赤く焼け焦げ、不気味な紫色の煙を上げてじくじくと融解していた。
「ヒッ……!」
蓮は喉の奥から情けない悲鳴が漏れ出るのを止められなかった。背中には、脳が「死」を理解した瞬間に噴き出す、嫌な冷や汗がドバッと音を立てるように流れていく。
昨日、自分の部屋で『駆動炉のコア』とかいうふざけた球体を止めた時は、あくまで「動かない機械」が相手だった。それだって十分に恐ろしかったが、どこか現実感がなかった。
だが、今は違う。目の前にいるのは、圧倒的な力と、冷酷で「明確な殺意を持ったバケモノ」そのものだ。対する自分の手にあるのは、ネットオークションで一万円で掴まされた、重さ3キロほどの、縄文時代っぽい装飾が施された古代の土器(の精巧なレプリカ)だけだった。あまりにも絶望的な戦力差に、膝がガタガタと震えを刻む。
『蓮! 逃げて、お願いだから今すぐそこから走って!! 正面から戦ったら一瞬で消し炭にされるわ!!』
脳内に直接、突き刺さるように響くエレナの声も、かつてないほど激しいパニックに陥っていた。いつもは高飛車な彼女の、悲鳴に近い叫びが蓮の鼓膜を震わせる。
『アイツの着ている「次元装甲」は、そっちの世界線の物理攻撃を99%無効化するのよ! 質量兵器なんて何の意味もないわ! 土器を投げつけたって、装甲に触れる前に分子レベルで粉砕されて終わりよ!』
「そういう、超重要なルールは先に言えよ! じゃあどうすればいいんだよ! 逃げろって言ったって、出口はあいつの真後ろだぞ!」
「問答無用。世界線への違法干渉者はすべて排除する。それがヴァルハラの鉄則だ」
略奪兵の足元から、ドン、と重低音が響いた。
全身を重金属の鎧で固めているとは思えない、慣性の法則や質量という概念を完全に無視した超高速の踏み込み。一瞬。文字通り、瞬きをするほどの隙すらなく、蓮と男との距離が完全にゼロになる。
網膜に焼き付くのは、頭上から容赦なく振り下ろされる、死の象徴たる緑色の閃光――。
「うおおお、おおおおおおっっっ!!」
考えるより先に、蓮の身体が本能のままに動いていた。
両手でがっしりと掴んでいた土器を、盾のように前方へとがむしゃらに突き出す。
直後、超高熱の電磁ブレードの刃が、厚い粘土の塊に触れた瞬間――エレナの警告した通り、土器は耐熱の限界など最初から存在しなかったかのように、爆発的な輝きを放ちながら一瞬にして粉々の灰へと姿を変えた。熱波が蓮の顔面を襲い、前髪の先が数本チリリと焼ける。
だが、蓮の本当の狙いは、土器で攻撃を防ぐことではなかった。
一万円の土器が完全に粉砕され、周囲一帯に濃密で激しい「灰の煙幕」が爆発的に舞い散ったその一瞬。
視界が真っ白に染まる最中、蓮は全体重を床へと投げ出し、全力で床を滑り込むスライディングを敢行したのだ。
目標は、略奪兵の足元。甲冑の股をくぐり抜けるようにして、その背後へと泥臭く回り込む。学校の退屈な体育の授業でも、これほど必死に身体を動かしたことはない。まさに、人生最高にして最大の運動神経の覚醒が、死線の淵で強制的に引き出されていた。
「ごほっ……げ、現地民め、薄汚い小細工を……!」
不意を突かれ、濃密な灰でバイザーの視界を完全に遮られた略奪兵の動きが、ほんのコンマ数秒、明確に鈍った。
「エレナ! アイツの装甲はこっちの世界の攻撃を無効化する無敵仕様でも、その手に持ってる『鉄剣』――その高周波ブレード自体は、お前らの世界の物質、つまり上位世界線のテクノロジーで作られた物質なんだろ!?」
蓮は床を無様に転がり、背中を床に打ち付けながらも、狂ったように叫んだ。
『え? ええ、そうよ! それはアトランティスの軍用規格に合わせた超伝導合金製よ!』
「なら、アイツの次元装甲が持ってる『こっちの世界の物理無効ルール』は、その剣自体には適用されないはずだ!」
確信はなかった。だが、それしか勝機はない。
蓮はブレザーの右ポケットから、細長い『透明なスマホ』を強引に引っ掴んだ。
「エレナ、お前のその端末の全エネルギーを、アイツの持ってる鉄剣の『安全弁』にハッキングしてぶち込め! 昨日の部屋のコアと同じだ、強制的に暴走させるんだよ!」
『――っ!! なるほど、その手があったわね……! さすが私の相棒(仮)だわ!!』
光を失いかけていた端末の奥で、エレナの立体ホログラムの顔が、ハッとしたように希望の光を宿して輝いた。そのアメジスト色の瞳に、天才科学者としての冷徹な計算の光が戻る。
『アトランティス製の武器にはね、万が一敵に奪われた時のために、外部からの特定の高周波共鳴で機能を強制停止させるか、あるいは内部回路を暴走させる緊急用のバックドアが仕込まれてるの! 残量1%……いや、もう0.5%しか残ってないけど、至近距離から一発分の電子信号を送るだけなら、十分足りるわ!』
「御託はいいから、今すぐやってくれ!!」
蓮は床に背をつけたまま、迫り来る死神に向かって、透明なガラスの板を銃口のように突き出した。
完全に頭に血が上った略奪兵が、激しい金属音を立てて振り返る。
「悪あがきを――消え失せろ、ハズレ世界線の原始人が!!」
激昂の咆哮とともに、エメラルドグリーンのブレードが、床に倒れる蓮の首元目掛けて横一文字に容赦なく振り払われる。
刃から放たれる凄まじい熱風だけで、蓮の制服の襟がパチパチと焦げた音を立てて縮んでいく。死の刃が首皮一枚に迫る、まさにその瞬間だった。
蓮の手の中にあるガラス板が、自らの命を燃やし尽くし、最後の一滴を絞り出すように――「ピカッ!!!!」と、眼が眩むほどの鮮烈な青い光を放った。
『アトランティス時空動力研究所、特級研究員の底力――舐めんじゃないわよぉぉぉぉぉ!!!』
端末の先端から放たれた、目に見えない強烈な指向性エーテルパルスが、空間を直進して略奪兵の手にする鉄剣へと完璧に直撃した。
ガガガガガガガガガガガガガッッッ!!!
次の瞬間、第一展示室に鼓膜を破壊せんばかりの激しい電子の不協和音が炸裂した。
「ぬ、何だと……っ!? 刀身の磁場が……反転していく!? 制御不能だと……!?」
略奪兵の口から、初めて余裕の消え失せた惊愕の悲鳴が上がる。
さっきまで完璧なエメラルドグリーンに澄んでいた鉄剣の光が、ハッキングのウイルスを流し込まれたかのように、一瞬にして禍々しい「赤紫色」へと変色していく。
刀身はそれ自体が生き物のように激しく身震いを始め、バリバリと周囲の床や壁に向けて、制御しきれない暴力的な電撃を無差別に撒き散らし始めた。床のコンクリートがパチパチと弾け、火花が散る。
「昨日のコアと同じだ……! 今すぐその手を離さないと、武器ごと腕が消し飛ぶぞ!!」
床からの蓮の必死のハッタリ――いや、半分は本気の警告に、略奪兵は忌々しげにバイザーの奥の目を血走らせた。
いかに世界を跨ぐ略奪兵とて、次元兵器のコアが目の前で自爆すれば、無事では済まない。装甲の内側までエネルギーが逆流し、消滅の因果に巻き込まれる。
「くっ……! 科学の育たぬ原始の世界、現地民ごときに、この私が後れを取るなど……!!」
男は断腸の思いで、赤紫色の光を放ちながら暴走する鉄剣を、コンクリートの床へと投げ捨てた。
主の手を離れたことで、エネルギーの供給源を失ったのか、あるいは男の背後に開いていた次元の裂け目――禍々しい赤いゲートが、出力の限界を迎えたように急速にその輪郭を縮め始める。
「東雲蓮……。因果律の監視網に、貴様という予測不能のデータを確かに記録した。……今回は退くが、ヴァルハラは、そしてスカベンジャーの軍勢は、お前たちを世界の果てまで追い詰め、決して逃がさない」
呪詛のような捨て台詞を残し、甲冑の男は萎みゆく赤いゲートの奥へと自らの身体を放り込んだ。
直後、空間の歪みはパチンと小さな音を立てて完全に消滅し、破壊し尽くされた展示室には、元の重苦しい静寂だけがぽつりと取り残された。
「はぁ……っ! はぁ……っ! はぁ……っ!」
蓮は今度こそ、全身の力を完全に失い、冷たいコンクリートの床に大の字になって倒れ込んだ。
心臓が肋骨を突き破らんばかりにドクドクと警鐘を鳴らし、全身の筋肉が極限の恐怖と緊張、そして一気に押し寄せた疲労感でガタガタと目に見えて震えている。生きている。その事実だけで、涙が出そうだった。
そっと視線を横に向けると、床に放り出された鉄剣は、赤紫色の不気味な光を徐々に失っていき、まるで最初からただのアンティークであったかのように、元のおとなしい「鈍色の鉄剣」に戻って転がっていた。ハッキングによる暴走のパルスは、男の手から離れ、端末のエネルギーが尽きたことで自然と収まったらしい。
そして、すべての力を使い果たした蓮の手の中にある、エレナのスマホは――。
『ピピッ……警告。バッテリー残量0%。全てのシステムをシャットダウンします』
耳慣れた冷徹な機械音声が、端末の底から小さく響く。それを最後に、ガラス板は完全にその美しい桜色の光を失い、ただの冷たくて重い、何の役にも立たない透明な板へと戻ってしまった。
「エレナ……? おい、エレナ……」
掠れた声で呼びかけてみても、もう脳内に、あのうるさくて、高飛車で、でもどこか頼りになる少女の声が響くことはなかった。完全に、世界線同士の通信が切れてしまったのだ。
「……やりきった、よな。俺」
天井の壊れかけた蛍光灯が、チカチカと虚しく明滅している。
誰もいない、静まり返った博物館の第一展示室。
蓮は痛む身体を無理やり引きずりながら静かに立ち上がり、床に転がっている『不錆の鉄剣』をそっと拾い上げた。手に持つと、先ほどの熱の余韻なのか、ほんのりと温かい。
「でも、これを、これからどうすればいいんだ……?」
エレナのスマホが切れてしまった以上、このオーバーテクノロジーの塊を充電する方法も、彼女と再び連絡を取る方法も、一般人の高校生には分かりようがない。おまけに、自分の部屋にはまだ、あの爆弾まがいの『駆動炉のコア』が置かれたままだ。完全に手詰まりだった。
その時。
静まり返った博物館の奥、長い廊下の向こうから、コツ、コツ、と「誰かの明確な足音」が静かに近づいてくるのが聞こえた。
――まさか、あの甲冑の略奪兵が戻ってきたのか?
蓮は一瞬にして心臓を跳ね上がらせ、全身の血が凍りつくのを感じながら、不錆の鉄剣を再び不格好に構えた。
だが、薄暗い展示室の入り口にゆっくりと姿を現したのは、先ほどの恐ろしい甲冑の男ではなかった。
「あれ〜? おかしいなぁ。確かにこの座標辺りから、局所的な強烈型エーテル反応が観測されたはずなんだけど……」
そこに立っていたのは、ヨレヨレのトレンチコートを着た、ひどく眠そうな、やる気のなさそうな目をしている現代人の男だった。
年齢は二十代後半といったところか。無精髭を少し生やし、首からは、見たこともない複雑な液晶メーターと妙な真鍮の歯車が噛み合わさった、奇妙な機械をぶら下げている。
その男は、破壊し尽くされた展示室の惨状と、灰まみれになりながら鈍色の鉄剣を必死に構える詰襟制服姿の蓮を見て、ぱちくりと眠そうな目を丸くした。
「おや。先客……いや、君、もしかして『ハズレ世界線』の一般人かい? なんでそんな物騒なモノを、そんな格好で持ってるのかな?」
男の口から滑り出たその言葉に、蓮の脳裏に激しい電流が走る。
(この人……今、確実に『ハズレ世界線』って言ったか……!?)
自称天才科学者のエレナ、そして世界の破壊者たる略奪兵に続き、今度は「現代の地球」の日常に潜む、謎の組織の人間(?)が現れた。
オーパーツを巡る蓮のありふれた日常は、もう二度と、元の退屈な世界には戻らない。




