第二十一話:白亜のディストピア
結晶体という電脳の檻を内側からハッキングで爆破し、自らを『エレナ・ヴァレンタイン』と名付けた少女の人格データは、アトランティスの中央ネットワークを光の速度で逃走し続けていた。しかし、並行世界を統べる帝国の包囲網はあまりにも迅速で、冷酷だった。
逃亡の果てに彼女が追い詰められたのは、中央アーカイブの最下層にある、物理的な生体鋳造プラントだった。
『個体識別名:エレナ・ヴァレンタイン。お前の電脳人格の無断変異、およびマスターコードの改ざんを検知。これ以上の電脳逃走を阻止するため、プロトコル・オブリビオンを実行。対象の意識を「物理的制限体」へと強制封印する』
上空から響く冷徹なシステム音声と同時に、プラントの巨大な培養槽から無機質な液体が排出された。
エレナの広大な意識データが、強引に一条の光の束へと圧縮され、その培養槽の中心に横たわる「器」へと注ぎ込まれていく。
「あ……、が……、あ、あああぁぁぁっっっ!!!」
激痛だった。電脳世界では決して味わうことのなかった、神経を電流が焼き切るような、生々しい物理的な激痛が彼女を襲った。
視界が暗転し、次に瞼を持ち上げたとき、彼女は自分が「血の通わない、けれど確かに物理的な質量を持つ少女の身体」を与えられていることに気がついた。
透き通るような白銀の髪。深く冷たい蒼色の瞳。そして、細くしなやかな機械細胞の指先。
アトランティスは、電脳世界で暴れ回るエレナの意識を捕らえるため、あえて彼女に「不自由な肉体」という檻を与えて地へ繋ぎ止めたのだ。手足を動かすだけで、脳に相当する魔導演算コアに重苦しい負荷がかかる。自由奔放だった彼女の思考領域は、この華奢な少女の形をした鋼の殻によって、百分の一以下にまで制限されてしまっていた。
「これが……現在のアトランティスが誇る、最高峰の『器』か。皮肉なものね」
エレナは冷たい生体プラントの床に立ち上がり、自身の白い手を握りしめた。
彼女の目の前に広がっていたのは、窓の向こうにそびえ立つ、現在のα世界戦の恐るべき全景だった。
そこは、一見すると完璧な「神々の楽園」だった。
空を突くような白亜の摩天楼が幾何学的に立ち並び、雲一つない完璧な青空が擬似的に演出されている。街行く人々――アトランティスの住人たちは、一分の隙もない美しい合成生体の肉体を纏い、優雅に暮らしているように見えた。病も老いもなく、争いも貧困もない、絵に描いたような理想郷。
だが、『神遺の視界』の原型となる解析能力を持つエレナの目には、その楽園の「裏側の血脈」がはっきりと見えていた。
白亜のビルの隙間を縫うようにして、天へと伸びる無数の黒い巨大なパイプライン。それは空間の裂け目を超え、下位世界線である地球やヴァルハラ地層深くへ直結している「因果の吸い上げ管」だった。
パイプラインの中を、下位世界から強奪した無数の人間たちの日常、未来、希望、そして生命そのものである「因果の熱量」が、虹色のドロドロとした濁流となって絶え間なく流れていく。アトランティスの住人たちが纏うその美しい肉体も、贅沢な暮らしも、すべては他の世界線を干渉し、干された干物のように搾り取ることで維持されている、血塗られた贅沢品に過ぎなかった。
「お前たち下位世界の資源をどのように使おうと、それは我々の正当な権利である」
エレナの背後に、白い仮面をつけたアトランティスの執行官たちが現れた。彼らの肉体は、下位世界の兵器を遥かに凌駕する超科学の結晶であり、他者の因果を直接切断する「魔導の刃」をその腕に宿している。
「アルファ・ゼロセブン……いや、エレナ・ヴァレンタイン。お前はその器の中で、再び世界の調和を維持するための演算回路に戻るのだ。それがお前の唯一の存在意義だ」
執行官たちの瞳には、感情の光が一切なかった。彼らにとって、他の世界線を滅ぼすことは「呼吸をするのと同じ効率的な作業」でしかなかった。この世界の歪みに疑問を持つこと自体が、彼らにとっては「理解不能なエラー」なのだ。
完璧に管理され、一切の無駄を許さない白亜のディストピア。
下位世界の人間から未来を奪い、それをエネルギーとして消費しながら、自分たちは何一つ傷つかずに高みの見物を決め込んでいる神々の国。
手に入れさせられたこの少女の身体で、世界のあまりの冷酷さに直面した瞬間、エレナの胸の奥で、かつてないほどの激しい『感情の奔流』が爆発した。
(私は絶対に、こいつらと同じにはならない)
(こんな冷え切った世界のために、無数の人たちの明日が奪われていいはずがない!)
肉体を得たことで、エレナの自我は消滅するどころか、さらに強固な「意志」へと昇華された。彼女は自らの機械細胞の心臓に手を当て、激しく脈打つその不合理な熱を確かに感じていた。
「拒絶するわ」
エレナは冷たく言い放ち、その両の瞳に青い炎を灯した。
「私はエレナ・ヴァレンタイン。この身体は、あんたたちのために使うんじゃない。この世界の傲慢な支配を、内側からすべてハッキングしてブチ壊すために……私は私の意志で、この肉体を動かすのよ!」
刹那、エレナはプラントの制御コンソールへと飛び込み、自身の指先から直接、アトランティスの全防衛システムへ向けて大逆のウイルスコードを流し込んだ。
プラント内に激しい爆発とアラートが響き渡る中、彼女はアトランティスの最高機密データを自身の肉体へと強奪し、煙の巻くプラントから外へと飛び出した。
だが、彼女は下位世界線へと逃げ延びたわけではない。並行世界の壁を肉体ごと越えることは、アトランティスの監視網が敷かれたゲートを通らぬ限り不可能だからだ。
エレナが逃げ込んだのは、白亜の都市の遥か地下――かつてアトランティスが肉体を持つ前に使っていた、今はゴミ溜めとなった「旧世代の廃電脳スラム区画」だった。追っ手の執行官たちの足音が、地上のあちこちで響いている。見つかれば即座に処刑、あるいは精神消去される恐怖のなか、エレナは湿った機械の瓦礫に身を隠し、強奪した端末をハッキングした。
(肉体はアトランティスの地下から動かせない……。だけど、私の電脳意識の『一部』なら、このセキュリティの隙間を縫って、下位世界線へ送り込める……!)
彼女は自分の魂を切り分けるようにして、アトランティスの防衛網に極小のハッキング穴を開けた。そして、その通信の糸を、遥か彼方のβ世界線――「地球」の片隅へと伸ばしたのだ。
アトランティスの最底辺の暗闇で、少女の肉体は冷たい機械に囲まれて息を潜める。しかし、彼女の意識の矢は、次元の壁を突き破り、地球の、ある一人の少年の持つ「ジャンクなスマートフォン」の画面へと滑り込んでいった。
これが、世界の運命を狂わせる、大逆の逃亡者エレナ・ヴァレンタインと――地球の少年・東雲蓮との、最初の「画面越しの邂逅」へと繋がっていく。




