第十八話:冷たい雨
視界を埋め尽くしていた虹色の因果の濁流が、ガラスが割れるような音と共に一瞬で霧散した。
次の瞬間、全身を叩いたのは、γ世界線のあの凍てつくような乾燥した冷気ではなかった。じっとりと肌にまとわりつく湿気と、コンクリートと排気ガスが混ざり合った、酷く懐かしく、そして酷く泥臭い「地球」の匂い。
ざあざあ、と容赦なく世界を塗りつぶすように降り注ぐ、激しい雨の音が鼓膜を叩く。
蓮たちが転がり出たのは、夜の帳が下りた雑居ビルの屋上だった。錆びついたフェンスの向こうには、一ヶ月前と何も変わらない、眩いばかりのネオンサインと、行き交う車のヘッドライトが霞んで見えている。
「帰って、きた……のか? ここは、地球……」
蓮は雨に濡れたコンクリートに両手を突き、荒い息を吐きながら自身の両手を見つめた。
一ヶ月ぶりに戻ってきた故郷。本来なら安堵の息を漏らし、生還を喜ぶべきその瞬間、蓮の胸を満たしていたのは、五臓六腑を焼き尽くさんばかりの激しい焦燥感と怒りだった。
両目に収まったオーパーツ『神遺の視界』が、降り注ぐ雨の水滴の一つ一つ、夜の街が放つ光の因果因子の濃度を、冷酷で無機質な文字列として網膜に描き出し続けている。見慣れたはずの故郷の景色が、今はただの歪んだデータ構造にしか見えなかった。
「蓮様、バイタルサインの急激な乱れを検知。深呼吸を行い、副交感神経を有意にしてください。現在の気象条件における体温低下も予測されます」
すぐ隣で、γ世界線から共にゲートを潜り抜けてきたエレナMk-IIが、その白いドレスを容赦のない土砂降りの雨で重く濡らしながらも、淡々と蓮の身体を支えた。彼女の機能は、α世界線によって通信を遮断された『地球のエレナ』の固定データを完全に引き継いでおり、地球のネットワークへのアクセスも、この豪雨の中で既に完了させていた。
「マークツー、α世界線へ繋がる座標の残滓は!? まだゲートの熱は残ってるはずだ。今すぐ、今すぐあの世界へ逆探知を掛けてくれ! エレナが連れ去られた場所に、俺を繋いでくれ!」
蓮は立ち上がり、黒く沈黙した胸ポケットのデバイスを握りしめながら叫んだ。頭から溢れる雨水が目に入っても構わなかった。『神遺の視界』の青い光が、雨夜の暗闇の中で異常なほどにギラギラと輝いている。今すぐにでも、あの光の向こう側へと殴り込みに行かんとする、狂気にも似た決意がそこにはあった。
「――おい、少年。少し頭を冷やせ」
背後から、ひどく冷徹で、低い声が響いた。
トレンチコートを雨で重く濡らした乾が、カチャカチャと錆びついた銃のシリンダーを弄びながら、冷たい視線で蓮を見つめていた。フェンス越しに見える街の明かりが、彼の横顔を暗く陰らせている。その表情には、いつもの締まりのない大人の余裕は一切ない。
「頭を冷やしてなんていられるかよ! エレナは俺たちのために捕まったんだぞ!? 座標データが消えるかもしれないのに、俺たちのために通信を維持して……! 今だって、α世界線の監獄でどんな目に遭わされてるか分からないんだ! 一刻の猶予もないんだよ!」
「だからと言って、今のお前が単身で乗り込んで何ができる」
乾の一言は、容赦なく蓮の言葉を遮った。
「相手は一国の軍隊どころじゃねえ。無数の世界線を管理し、その因果を都合よく書き換えてきた神に等しい上位存在だ。そこへ、オモチャの目を手に入れたばかりの高校生が一人で突っ込んで、何を引きずり出してくるつもりだ? ヒーローごっこなら学校の部活でやってろ」
「ヒーローごっこなんかじゃないっ!!」
蓮の怒号が、土砂降りの屋上に響き渡り、激しい雨の音さえも掻き消した。
蓮は乾の胸ぐらをつかみ、その顔を至近距離で睨みつけた。激しい雨が二人の顔を濡らし、言葉を遮るように叩きつける。
「乾さんだって、エレナに貸しがあるって言ったじゃないか! 助けに行くって言ったじゃないか! なのに、なんでそんなに冷静でいられるんだよ! 怖気づいたのか!? 自分の世界に戻ってきたから、もう関係ないって言うのかよ!」
「手を離せ、少年」
乾の目が、一瞬にして獰猛な獣のそれに変わった。
次の瞬間、蓮の視界が反転した。乾の無駄のない動きによって手首を極められ、そのまま雨の浮いたコンクリートの床へと叩きつけられる。背中に走る激痛。だが、それ以上に蓮の心を激しく打ち付けたのは、乾の凍りつくような怒りの籠もった声だった。
「お前は、一人で行く気だったんだろう」
その指摘に、蓮の息が止まった。
「お前のその目の機能なら、α世界線へ繋がる因果の『細い糸』が見えているはずだ。乾さんを巻き込みたくない、マークツーに危険な真似をさせたくない、だから俺一人でその糸を辿ってα世界線へ行く……。そんな歪んだ自己犠牲を、あのシステム娘が喜ぶとでも思ってんのか、この大馬鹿野郎が!」
乾は蓮の胸ぐらを逆に掴み上げ、激しい雨の中でその顔を強引に至近距離へと引き寄せた。乾の髪から滴る雨水が、蓮の頬に落ちる。
「俺たちがγ世界線で何を見てきた! お前が命を懸けて繋いだ熱を、あの世界の人間たちがどれだけの覚悟で引き受けたか、もう忘れたのか! お前一人の命は、もうお前一人のものじゃねえんだよ! それをドブに捨てるような真似を、この俺が許すと思うな!」
「だけど……じゃあ、どうすればいいんだよ! エレナを見殺しにしろって言うのか!?」
蓮の目から、悔し涙が溢れ出す。雨水と混ざり合いながら、頬を伝って床へと落ち、コンクリートの濁った水溜まりへと消えていく。
「見殺しにするなんて一言も言ってねえ。戦うなら、勝つための算段を立てろと言っているんだ」
乾が蓮を突き放すようにして手を離した時、それまで二人の衝突を激しい雨に打たれながら静観していたエレナMk-IIが、冷徹な機械としての結論を口にした。
「蓮様。私の演算結果を出力します。現在の貴方の単独行動によるエレナ奪還作戦の成功率は、限りなく『0%』です。計測不能ではなく、完全なるゼロです」
マークツーの淡々とした、けれど絶対的な拒絶の言葉に、蓮は這いつくばったまま彼女を見上げた。雨に濡れた彼女の銀髪が、ネオンの光を反射して妖しく輝いている。
「α世界線の中央監獄は、全世界線の因果の最果てに位置する絶対不可侵の領域。現在の貴方の『神遺の視界』の習熟度、および『不錆の鉄剣』の出力では、監獄の外壁に傷一つ付けることも不可能です。さらに、地球側のバックアップなしでα世界線へ侵入した場合、貴方の肉体は上位世界の高濃度な因果律に耐えきれず、数分と持たずに存在そのものが崩壊します。客観的事実として、それは救出作戦ではなく、ただの無意味な自殺行為です」
「マークツー、お前まで……」
「私は、蓮様の統括ユニットです。マスターを無意義な死へ追いやる選択肢は、私の全回路が拒絶します」
マークツーの言葉には、冷たい正論の中に、確かに彼女なりの「蓮を失いたくない」という強い意志が込められていた。
誰もが、蓮を止めようとしていた。焦るあまりに周囲が見えなくなり、またしても一人で全てを背負い込もうとしていた自分を、乾の拳とマークツーの正論が、強引に引き留めていた。フェンスの向こうの華やかな地球の日常が、今の自分たちの狂気的な状況を皮肉っているようだった。
乾は懐から、すっかり湿気てしまった火のついていないタバコを咥え、深くため息をついた。
「少年。あのシステム娘はな、お前に『助けに来い』って言ったんだ。それは、お前に『犬死にしに来い』って意味じゃねえだろ。あいつが命を懸けて繋いだこの命だ。生きて、最高の状態で、α世界線の連中の面面を引っぱたきに行くぞ」
乾はそう言うと、雨の中で蓮に向かって無骨な手を差し伸べた。
雨の音だけが、世界を支配するように響いている。
蓮は自分の浅はかさを恥じるように、しばらく俯いていたが、やがてゆっくりとその手を見つめ、力強く握り返した。乾の分厚い手のひらの熱が、蓮の冷え切った心に、再び理性の火を灯していく。
「……すみません、乾さん。俺、どうかしてました」
「分かればいい。お前が若さで暴走するのは今に始まったことじゃねえ。それを止めるのが、大人の役目だからな」
乾は蓮を引き揚げると、マークツーに向かって顎をしゃくった。
「マークツー。地球の現在のネットワークをハッキングして、俺たちの隠れ家のセキュリティを最上級に引き上げろ。α世界線の追撃がいつ来るか分からん。少年、お前はその『目』を使って、α世界線へ乗り込むための最低限の『因果の隙間』を探し出せ。作戦立案だ。あいつを奪い返すための、完璧な計画を立てるぞ」
「……了解しました。地球側ネットワークの完全掌握を開始。α世界線からの逆探知を妨害する量子迷彩を展開します」
マークツーの瞳に、再び膨大なデータコードが走り始める。
蓮は大きく息を吸い込み、再び夜空を見上げた。
『神遺の視界』のオラクル・アイを作動させる。降り注ぐ雨雲の遥か上空、物理的な宇宙のそのさらに奥。そこには、美しいはずの地球の空を蜘蛛の巣のように覆い尽くす、α世界線へと続く目に見えない因果の『パス(侵食の予兆)』が、禍々しく蠢いているのがハッキリと見えた。
敵はあまりにも巨大で、あまりにも強大だ。
だが、今の蓮の胸にあるのは、無謀な焦燥ではない。必ず大切な仲間を取り戻すという、静かで、冷徹な、揺るぎない闘志だった。
「待ってて、エレナ。今度は、俺たちが助けに行く」




