第十七話:二人のエレナ
「ちょっと蓮! 今私のことチラ見しながら『やっぱりこっちのエレナの方が性格がキツいな』って思ったでしょ! 新しくインストールされた因果線にあなたの思考ログがバッチリ出力されてるんだからね! ごまかそうとしても無駄よ!」
「思ってない、思ってないから! あとエレナ、さっきから俺の脳内の独り言をハッキングするの本当にやめてよ! 恥ずかしすぎるだろ!」
放棄ポートへと向かう装甲車の後部座席で、東雲蓮は両目を手で押さえながら、情けない声を上げていた。
一ヶ月という長い昏睡から目覚めた蓮の日常は、劇的に、そして少しばかり騒がしく変化していた。その原因は言うまでもなく、彼の両目に収まった未知のオーパーツ『神遺の視界』と、それを巡る「二人のエレナ」の存在によるものだった。
蓮のすぐ隣には、このγ世界線の統括ユニットであるエレナが、静かに腰掛けている。彼女は蓮が眩しそうに瞼を震わせるたびに、冷たく冷やしたおしぼりを甲斐甲斐しく差し出してくるのだった。
「蓮様、視覚情報のオーバーフローですか? α世界線規格の魔導回路が人間の脳へと完全に定着するまでには、個体差があります。決して無理をなさらないでください。必要であれば、私の膝を枕として提供する準備もありますが」
『ちょっと! あんたどさくさに紛れて何言ってるのよ! 蓮様に触りすぎ! 用もないのにパーソナルスペースに侵入しないで!』
蓮の胸ポケットに入ったデバイスの画面の中で、地球のエレナが身を乗り出し、地団駄を踏みながら叫ぶ。
「私はレン様の専属統括ユニットです。マスターの健康管理および精神的ケアは最優先プロトコルであり、外部からのノイズに制限される筋合いはありません。それに、私の身体構造はあなたと同一のはず。物理的な接触による安心感の付与は、精神安定において極めて有効な手段です」
『ノイズって何によノイズって! 私はあんたのベースデータになったオリジナルの人格なのよ!? 感情回路の豊かさで言えば私の方が遥かに先輩なんだから、少しは敬意を払いなさいよね!』
同じ容姿、同じ声を持つ二人の少女が、至近距離でそれぞれの正義を掲げて言い争う光景。その情報量はあまりに多すぎて、蓮の脳内の処理速度はとうに限界を迎えていた。視界の端では『神遺の視界』が余計な幾何学ラインを描き出し、二人の間の【険悪度:85%】【電脳戦火花:観測中】などというテキストを表示している。
「あー、もう! ストップ、二人ともストップ! ややこしいから、呼び方を決めよう!」
蓮は頭を抱えながら、二人の美少女の視線を正面から受け止めた。
「地球の方は今まで通り『エレナ』。で、γ世界線のエレナのことは……『エレナMk-II』って呼んでいいかな? そうしないと、どっちに話しかけてるのか自分でも分からなくなっちゃうんだ」
その提案に、γ世界線のエレナは少しだけ意外そうに丸い瞳を見張った後、どこか満足そうに口元を綻ばせた。
「マークツー……第二世代、あるいは発展型という意味ですね。蓮様がそうお望みなら、私の個体識別名を一時的にシステム内でそのように書き換えます。エレナ・マークツー……悪くない識別名です」
『ちょっと、発展型なんて勝手に解釈しないでよ! 私がファーストで、あんたがセカンドってことなら、まあ、呼び分けるために許してあげるけどさ……。っていうか乾! さっきからニヤニヤしながらこっち見てんじゃないわよ!』
画面の向こうのエレナが怒りの矛先を運転席へと向ける。
「いやぁ、少年も隅に置けないと思ってな。同じ顔の美少女二人に奪い合われるなんて、どこのラノベの主人公だよ。一ヶ月前まで死にかけてた奴とはとても思えん贅沢な悩みだぜ」
ハンドルを握る乾が、バックミラー越しに楽しそうに肩を揺らす。蓮は顔を真っ赤にして「からかわないでください!」と声を大にして抗議した。
車内は、荒廃した世界線とは思えないほど穏やかで、どこかコミカルな空気に満ちていた。しかし、蓮の胸の奥には、目覚めた時からずっと消えない重い引っかかりがあった。
装甲車が地表のひび割れたアスファルトを跳ねる衝撃を感じながら、蓮は意を決して、ずっと聞きたかった疑問を口にした。
「ねえ、エレナ。そもそも……なんでエレナは、そんなに遠い地球から、このγ世界線にいる俺たちと通信できてるの?」
その問いが発せられた瞬間、それまで賑やかだった車内の空気が、ピきりと凍りついたように静まり返った。
蓮は言葉を続ける。
「地球の現在の技術じゃ、世界線を越えた通信なんて絶対に不可能なはずだ。それなのに、エレナは俺たちの位置を正確に把握して、ハッキング支援までしてくれた。いくらエレナが天才だからって、物理的な法則を無視できるわけがない。……本当は、どこからこの通信を繋いでるの?」
デバイスの画面の中のエレナが、悪戯が見つかった子供のように気まずそうに視線を泳がせ、やがて初めて見るような暗い、諦念を含んだ表情で目を伏せた。
運転席の乾もまた、咥えていた火のついていないタバコを深く噛み締め、笑みを完全に消し去った。
『……そうね。もうゲートも目の前だし、あなたもアトランティスの遺物をその目に宿したんだから、本当のことを話す時が来たのかもね』
エレナは小さく息を吐き出し、画面越しに蓮の目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、冗談や強がりは一切含まれていなかった。
『私はね、蓮。地球から通信なんてしてないのよ』
「え……?」
『私の本体は今、あなたたちと同じ――α世界線の本拠地、すべての世界線の上に君臨する「α世界線」の中心部にいるわ』
蓮は言葉を失った。α世界線。数々の世界線からエネルギーと因果を搾り取り、このヴァルハラを極寒の死の世界へと追いやった絶対的な支配者。その本拠地に、彼女がいるというのか。
『α世界線の住人にとって、他の世界線……つまりβ世界線やγ世界線なんて、ただの資源貯蔵庫であり、家畜の檻と同じなのよ。こにあるエネルギーを効率よく吸い上げるのが彼らの正義。だから、他の世界線を救おうとする行為や、因果の流れを狂わせる行為は、彼らにとってみれば「重大な国家反逆罪」であり、世界の調和を乱す「大逆のテロ行為」と同じなの。……私が今までやってきたことは、α世界線に対する完全な裏切り行為なのよ』
エレナの口から語られる真実に、蓮の背筋に冷たい戦慄が走る。
彼女は地球で安全にキーボードを叩いていたわけではなかった。敵の総本山の目と鼻の先、張り巡らされた監視網の網目を縫うようにして、命からがら逃げ回りながら潜伏し、そこから必死に通信を繋いでいたのだ。γ世界線にいる蓮たちをナビゲートするためだけに。
「じゃあ、エレナは今、ものすごく危険な場所にいるんじゃ……! 今すぐ通信を切って、安全な場所に隠れてよ!」
『バカね……。今私が通信を切ったら、そっちの放棄ポートにあるゲートの座標同調データが完全に消えちゃうじゃない。そうなったら、あなたと乾は二度と地球に帰れなくなるのよ?』
エレナは切なく、けれど誇らしげに微笑んだ。
『私が捕まるリスクなんて、あなたが命を懸けて永久コアをブチ込んだことに比べれば大したことないわ。天才ハッカーのプライドにかけて、あなたたちを地球へ送り届けるまでは、この回線は絶対に死守するから』
彼女は、自分が破滅する未来を正確に演算していながら、蓮を無事に帰還させるためだけに、自らの退路を完全に断ち切って通信を維持していた。蓮がγ世界線を救い、生き延びた奇跡の裏には、彼女の血を吐くような自己犠牲があったのだ。
「そんなの……そんなの間違ってるよ! 俺のためにエレナが犠牲になるなんて、そんなの絶対に嫌だ!」
蓮が身を乗り出そうとした、その瞬間だった。
びりびりと、デバイスのスピーカーが不快な高周波のノイズを放った。画面が激しく赤と黒に明滅し、α世界線規格の古代文字で書かれた警告エラーの文字列が、津波のように画面を埋め尽くしていく。
『――っ!? ああ、嘘、防衛障壁が突破された……!? 早すぎるわ、まだ座標の固定が終わってないのに……!』
「エレナ! 何が起きてるんだ!?」
画面の向こうから、凄まじい破壊音が響き渡った。重厚な隔壁が爆破されたような轟音と、金属が激しく軋み、千切れる音。それと同時に、機械的で足並みの揃った、冷徹な複数の足音がスピーカー越しに伝わってくる。
『警告。対象の固有因果コードを確認。特級反逆者エレナと断定』
『魔導拘束具を展開。抵抗は無意味である。直ちに演算を停止し、身柄を明け渡せ』
聞こえてきたのは、一切の感情を排したα世界線の執行官たちの声だった。
『嫌っ! 離しなさい! まだ、まだ繋がってるんだから……! あと数パーセントで、ゲートが……っ!』
画面の向こうで、エレナが必死に抵抗する声が響く。衣類が擦れる音、何かが床を引きずる生々しい音。彼女の荒い息遣いが、蓮の胸をナイフで刺すように苦しめる。
「エレナ! もういい、もういいから通信を切って! 逃げてくれ!」
蓮はデバイスに向かって叫んだ。涙が視界を滲ませるが、『神遺の視界』はその涙さえもデータとして処理し、無機質な文字列を表示し続ける。それが余計に世界の残酷さを際立たせていた。
『バカ原始人……静かにしなさいよ……。ここで諦めたら、私が何のためにここまで逃げてきたか分かんなくなっちゃうでしょ……!』
彼女の声は震えていた。恐怖に怯え、今にも泣き出しそうな少女の声だった。それでも、彼女は蓮のために回線を手放さなかった。端末のキーを叩く音が、血の滲むような執念となって響く。
『コンプリート……! 座標データ、地球への帰還ルート、完全に固定したわ……! これで、あなたたちは帰れる……』
『対象の魔導回路を強制停止する』
冷酷な宣告と共に、バキィッ!!! という凄まじい電子部品の破壊音が響いた。
『あぐっ……! ……ありがとね、蓮。私のオリジナルを、あの子の心を救ってくれて、本当に嬉しかった。……約束よ、次は、あなたが私を助けに来なさいよ……!』
それが、彼女の最後の言葉だった。
直後、デバイスの画面は完全にブラックアウトし、一切の光を失った。ノイズの音さえも消え失せ、走る装甲車のエンジン音だけが、ひどく虚しく車内に響き渡る。
「エレナ……? 嘘だろ、おい、返事をしてくれよ……エレナ!」
蓮がどれだけ叫んでも、黒い画面は二度と応答しなかった。
隣に座るエレナMk-IIが、自身のベースデータの消失と、オリジナルの因果線の途絶を感知したのだろう。痛ましそうに自らの胸の装甲を強く押さえ、深く俯いた。
「……位置情報の追跡シグナル、完全消滅。通信元の因果ログは……アトランティス中央監獄の最深部へと移動しました。彼女は……アトランティスの本隊に、捕獲されました」
エレナMk-IIの声は、かつての機械人形のような無機質さに戻りかけていた。それほどまでに、彼女にとってもオリジナルの喪失は大きな衝撃だったのだ。
蓮は拳を強く握りしめた。爪が手の平の皮膚に深く食い込み、じわりと赤い血がにじみ出る。全身を支配するのは、圧倒的な怒りと、自分の無力さに対する激しい悔恨だった。
誰も傷つけないために戦ったはずなのに、自分を最も信じて支えてくれた大切な仲間が、自分の代わりに暗闇へと連れ去られてしまった。
「乾さん……!!」
「言わなくても分かっている、少年」
乾は咥えていたタバコを窓の外へと投げ捨て、アクセルペダルを床板が抜けるほどの勢いで踏み込んだ。
装甲車のV8エンジンが狂ったような爆音を上げ、ひび割れた大地を猛烈な速度で駆け抜ける。前方には、かつてα世界線がこの世界を見捨てた際に遺していった、放棄ポートの巨大な建造物がその黒いシルエットを現していた。
乾の横顔には、かつての怠惰な大人の余裕など微塵もなかった。その瞳には、かつて世界線を股にかけた戦士としての、容赦のない鋭い殺意がギラギラと宿っていた。
「あのシステム娘には、貸し借りを作ったままだからな。ゲートを無理矢理にでもこじ開けるぞ。待ってろよアトランティス……今度はこっちから、お前らのツラを拝みに行ってやる」
蓮は背中に背負った『不錆の鉄剣』の柄を、壊れるほどの力で握りしめた。
エレナを必ず奪還する。そして、他の世界線を犠牲にして成り立つα世界線の傲慢な支配を、この手で絶対に打ち破る。
悲しみと、燃え盛るような激しい怒りを宿した蓮の両の瞳――『神遺の視界』が、暗闇の中で青く、どこまでも激しく燃え上がっていた。




