匠のメレンゲクッキー
メレンゲクッキー。それは卵白と砂糖を混ぜて焼くだけの、俺が知る限りもっとも単純なお菓子だ。
セラちゃん曰く、メレンゲの出来を決める重要な要素として『卵白のコシ』という概念があるという。新しい卵ほどコシが強く、古い卵ほど弱い。コシが強いものほど泡立てるのが難しいが、上手くできればコシの強いものほど良いメレンゲになる。
確かに、卵の白身には個体差がある。混ぜても混ぜても上手く切れなかったり、一方であっさりと崩れていたり。そういうのが『コシ』というものなのだろう。
メレンゲ一筋の修行を積んできたメレンゲ王たる彼女の手に掛かれば、いくらコシの強い卵でも一捻りだ。
だが、コシの強弱に差がある卵白を混ぜると、食感に違和感が出るのだという。
そのためセラちゃんは、卵をグループごとに分け、その上で一つ一つ冷水で冷やしたり、暖炉の火に当てたり、レモン水に漬けたりして細かい調整を施している。卵のコシを統一する作業らしい。
レベルが高すぎてまったく手伝いようがない。下手に素人が触ってはいけない領域の問題だ。俺の仕事は、井戸水を汲み上げた時点で終わった。
メレンゲ道は想像以上に奥深かった。
もはや作業が異次元過ぎて、見ていても何の参考にもならない。邪魔にならないようにしていよう。
「あ! あの、長月さん。待ってください」
卵以外目に入ってないように見えたのに、俺が立ち去ろうとすると目ざとく反応してきた。
閉じるでも開くでもない中途半端な形の手が、俺に向かって伸ばされる。途中までで止まった手は空中で居心地が悪そう。さっきまでのメレンゲ狂いっぷりが嘘みたいな振る舞い。
「あのですね! 師匠から言われてるんです。その、長月さんのこともまだ信用しきってないから、あんまり長月さんのこと一人にするなって」
「そっか。分かった」
そういうことなら、セラちゃんの前は離れないでいよう。
俺に手伝えることが無いのに、メリーさんがセラちゃんに対して「ナガツキに手伝わせていいぞ」「扱き使ってやれ」と言ったのは、俺を監視させるためだったんだろう。
なら、俺がこの場を離れれば余計に疑われることになるし、セラちゃんが怒られることになりそうだ。
「あの! 長月さんは、怒ってもいいんじゃないかと思います。だって、何にも悪くないのにこんな扱いをされてるんですよ? チェルシーさんだってそうです。師匠は、ちょっと酷いです……」
「どうして俺が怒るんだ?」
「だって! その、えっと……。分かんないです。師匠も、長月さんも、チェルシーさんも、私にはよく分かりません……。私、メレンゲに集中しますね」
卵のコシの調整はひと段落ついたようで、セラちゃんは泡立て器を構える。丹念に洗って拭いて、それからそっと銀色のボウルの中へ。卵白を混ぜる動きは驚くほど無音。ボウルの底に泡立て器が擦れる音が無い。
さっきまであんな、心を乱している風なことを言っていたのに、今はもう落ち着き払って一心にメレンゲを混ぜている。プロだ。
砂糖を加えて混ぜ、砂糖を加えて混ぜ。その都度、「ここまではボウルのフチと卵白の境界線を動かさないように混ぜます」「ここから湯煎を始めます」「一度ボウルを浮かせて熱を逃がします」と細かい解説が添えられる。
研究に研究を重ねたのだろうやり方。
細かな気泡が増え続ける。やがて細かな泡は糸が布に織り上がるようにまとまっていく。ある時を境に、きめ細かな泡は艶やかなクリームに変わって、もはや泡は見えなくなる。
「ボウルを横にしてもメレンゲが落ちなくなったら完成です」
どうみても流体なのに。混ぜているのを見ている分には、何の抵抗も無い水みたいなのに。
落ちない。ボウルの傾きは90度を超えているのに、メレンゲは落ちる気配すらない。魔法を見ているみたいだった。
そうして、彼女は出来たメレンゲを絞り器に入れて、これは葉っぱ、これは薔薇の花と、メレンゲを形にしていく。
出来たものを窯に入れ、火加減調整はメリーさんに任せる。
薪を燃やして加熱する古式な窯では、オーブンみたいに簡単に温度を上げることはできない。だからこそ、砂糖を焦がさない程度の低温で長時間焼くメレンゲクッキーには適しているのだとか。
そうしてまた、卵白を混ぜるところからもう一度。
淡々と作業をするセラちゃん。火の通っていないメレンゲは香ることも無く、ただ静かに、少しずつ少しずつ、きめ細かくなっていく。
二回目、三回目となるにつれて、ココアパウダーを加えたり、バニラやミントを加えたり、工夫がされていく。整形も段々と気合いが入っていく。絞り出して大体の形を作ってスプーンで整えるだけ。それで猫やらリボンやらが完成していく。
「意外といろんな材料があるんだな。」
「近くに九天の鞭の拠点がありますから。竜舎は無いですけどグリフォン便が届くので、お金さえ払えば結構なんでも取り寄せられますよ」
セラちゃんは延々と作り続ける。俺も延々と見続ける。
出来上がったメレンゲクッキーは、もちろん美味しかった。
お菓子にはあまり詳しくないから、何がどう美味しいのか上手く言えないけど、美味しかった。
最初に出来たのは本当に卵と砂糖だけのシンプルなもので、味も甘み一辺倒だけど、なんとなく優しくて、飽きない甘味だった。
だから、何か答えたくなった。
「俺は面倒くさがりなんだ」
「え?」
「メリーさんは偉いよ。人を疑うのは疲れることだから」
「でも! 良いことだとも思えません」
「良い人だってことにしてたら、何かあっても、みんな相手のせいだってことにできる。こっちは信じてたのに、って。でも本当は、面倒だからあんまり考えて無いだけなんだ。俺、他人のことよく分からないから」
メレンゲクッキーが甘い。ベタつきがなく、それでいてしっとりとしている。
「それは! でも、恨んだりしないなら……」
「恨むよ。たぶん。そんなに深く人と付き合ったことないから、そんなに致命的に裏切られたこともないけど、たぶんその時は恨むと思う。そんな俺だから、メリーさんに怒ることは無いかな」
「うぅ。うみゃあー! 長月さんはおかしいです。師匠も長月さんもおかしいですよ……」
そんな奇声を発しながら、メレンゲを掻き混ぜる手は一切乱れないセラちゃんの方がよっぽどおかしいと思う。




