第八回 福引きの終わり
システム障害を経て、ついに役員から問われた。
「文句は分かった。対案は」
怒鳴るのは一回でいい。
二回目からは、数字と対案で怒れ。
私は、異動を止めるのではなく、異動の決め方そのものを変える三つの案を出した。
祈りは、本当に制度になるのか。
そして、一度は転職を断った佐伯さんは、どんな答えを出すのか。
対案は三つだった。
一つ目。異動の決裁に「業務継続性アセスメント」を必須添付とする。
仕事が分かる人を動かすな、ではない。動かすなら、破れる索引と発生する円を見える化してから決めろ、である。祈りを、決裁書式に翻訳した。書式になった祈りは、方針と呼ばれる。
二つ目。引継ぎの進捗指標を「資料の完成数」から「並走期間」に変える。
墓標の数を数えるのをやめ、田村が新任者の隣に座る時間を数える。暗黙知の移転経路は共同化しかないのだから、測るならそこを測る。グッドハートの法則は、正しい場所に置けば味方になる。
三つ目。「指名エントリー制度」。
誰と、何を、どの体制でやるかを明記した職務記述書で、社内外から人を募る。配属は福引きではなく、相互の指名で決まる。そして職務の必要性は年次で相互レビューし、双方が納得して更新する。
役員は三つ目で眉を上げた。
「必要性を毎年レビュー? うちの人事制度で回るのか」
「回るかどうかの試行を」
と、人事部長代理が言った。
「代理権限で、起案済みです」
会議室にいた全員が、彼を見た。彼は声の調子を変えなかった。ただ、資料はすでに人数分、印刷されていた。
三か月後。
指名エントリー制度の求人票、第一号が公開された。私のチームの、私の仕事の隣の席である。誰と働くか、何をやるか、体制がどうなっているか、全部書いてあった。書いた瞬間、それは会社の約束になった。具体性とは責任の別名である。今度はこちらが、その別名を使う番だった。
佐伯さんは求人票を三十分読んでから、私のところに来た。
「一点だけ確認です」
「どうぞ」
「『職務の必要性は年次で相互レビューする』——これ、必要とされなくなったら、私は契約終了もあり得るってことですよね」
「あり得る。会社都合の異動で誤魔化さずに、正面からそう書いた」
「契約より厳しい条件ですね」
「君が最初に出した条件だよ。『ちゃんと必要とされている間は』。制度に翻訳しただけだ」
佐伯さんは、少しの間、黙った。
それから、事務的でない笑い方をした。初めて見る種類のものだった。
「エントリーします。福引き、やめたんですね」
「指名制にした」
田村は、営業企画に残ることを自分で選んだ。ただし週一日、うちのチームで新任九人の隣に座る「並走日」つきである。指標が変わったので、その一日は、誰の目にも進捗として見えた。粘る画面の見分け方は、半年かけて、三人に移った。
矢口の工数表は、業務継続性アセスメントの標準様式になった。様式の隅に、小さく作成者名が入っている。二年目の名前が入った全社様式は、社史上初だという。
そして、社内ポータルの人事制度のページ。
一番上に、会社語でこう書かれている。
「当社は、業務継続性を人材配置の一級の判断基準とします」
その下に、括弧書きで、小さく原文が添えられている。
(仕事が分かる人を、仕事が分かるようになったという理由で動かさない)
原文を残せと言い張ったのは、私ではない。人事部長代理である。「翻訳には原文併記が正確です」というのが、彼の起案理由だった。声の調子は、変わっていなかった。
佐伯さんの入社日の朝、私は会議室のホワイトボードの前を通った。
例の一文は、もう誰も書いていなかった。
書く必要が、なくなったからである。
代わりに、誰かの字で、こうあった。
――ほんと、それ、が通った。
その下に、乾いた字で、
――たまには通る。
田村の字だった。
私は部長に呼ばれた。
「お前の祈り、方針になったな」
「祈りじゃありません」
「じゃあ何だ」
「翻訳です」
部長は長いため息をついた。二十年聞いてきたため息と、少しだけ音が違った。
「……次に何か切れそうになったら」
「六秒待ちます」
「待ったあとは」
「数字と、対案で」
スカッとした。
今度は、した。
何もかもが解決したわけではない。過去最大規模の改編は、たぶん三年後にまた来る。だがそのとき会議室には、書式になった祈りと、円に翻訳された怒りと、沈黙の長さまで残す議事録係がいる。
福引きの時代は、終わったのだ。
少なくとも、このチームでは。
【本章の経営学】変革の最終段階は「文化への定着」(コッター第八段階)だが、文化は掛け声では定着しない。定着するのは書式・指標・制度に埋め込まれた思想だけである。現場の正しい直感は、①決裁書式、②進捗指標、③雇用契約の三点に翻訳されたとき、初めて人事異動より長生きする。祈りは、翻訳されると方針になる。原文併記を忘れないこと。




