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最終話 紙コップ

会社は変わった。……ということに、ひとまずなっている。制度はできた。方針もできた。祈りは翻訳され、決裁書式にも載った。


それでも、働くということは制度だけでは終わらない。

佐伯さんが入社して一年が過ぎた。


制度はいくつか残り、いくつか消えた。


指名エントリー制度は二部署に広がったあと、一度止まった。


「運用負荷が高い」


という理由だった。


業務継続性アセスメントは様式として残った。


ただし、急ぐ案件では省略されることもあった。


引継ぎの「並走期間」は、いつの間にか「推奨」と書き換えられていた。


会社とは、そういう生き物だった。


少しずつ前に進み、


少しずつ元に戻る。


それでも、全部が元に戻ることはなかった。


ある日、新入社員向けの説明会を頼まれた。


「現場の話をしてください」


と言われた。


私は三十分、開発の話も、組織の話も、AIの話もした。


最後に、一人の新入社員が手を挙げた。


「配属されたら、どんなことを大事にすればいいですか」


会場は静かになった。


昔の私なら、


顧客価値とか。


専門性とか。


主体性とか。


そんな言葉を並べていたと思う。


私は少し考えてから言った。


「紙コップを捨てない人になってください」


一瞬、変な空気になった。


「会議室って、誰かが飲み終わった紙コップ、たまに置きっぱなしになりますよね」


何人かがうなずいた。


「別に、拾えばいいんです」


私は続けた。


「紙コップを拾ったから昇進することはありません」


「評価にも書かれません」


「会社も気づきません」


「でも、誰かは次に気持ちよく会議室を使えます」


私は会場を見回した。


「仕事って、たぶん、その延長なんです」


「評価されない仕事の積み重ねで、評価される仕事ができている」


「逆に言うと、それを誰もやらなくなると、会社は急に仕事ができなくなる」


質問した新入社員は、少し不思議そうな顔をしていた。


それでよかった。


分からない話は、あとから効く。


説明会が終わり、片づけをしていると、佐伯さんが後ろから言った。


「〇〇さんらしいですね」


「何が」


「紙コップ」


「そうかな」


「もっと経営学の話をするかと思いました」


私は笑った。


「経営学は、紙コップを拾う人がいて初めて成立するんだよ」


佐伯さんも笑った。


「それ、ジョブ理論ですか」


「違う」


「SECIですか」


「違う」


「じゃあ何ですか」


私は空になった会議室を見た。


ホワイトボードは消されていた。


机も整っていた。


誰が片づけたのかは分からなかった。


たぶん、誰も知らない。


「仕事だよ」


私は言った。


「ただの」


帰り際、私は紙コップを一つ拾った。


誰が置いたかは知らない。


誰にも見られていなかった。


その日、人事部からメールが届いた。


件名は、


「過去最大規模の組織改編について」


だった。


私は開かずにスマートフォンをしまった。


明日読めばいい。


今日は帰ろう。


駅までの道で、春の風が吹いていた。


仕事は終わらない。


会社も変わり続ける。


人もまた、動いていく。


だからこそ、


今日、自分の隣で働く誰かが、明日も少しだけ働きやすくなるように。


それだけは、自分で決められる。


それだけは、異動にならない。


そのことを知ってしまっただけでも、


二十年会社員をやった意味は、あったのだと思う。

この物語は、会社を嫌いになった人の話ではありません。むしろ、仕事を大切にしすぎた人の話です。


組織は、ときどき人を数字にし、専門性を属人化と呼び、沈黙を対話と呼びます。けれど現場には、言葉になる前の違和感があります。


「いい加減にしろよ、ゴルァ」


あれは暴言ではなく、未翻訳の経営情報だったのかもしれません。


怒りを昇華し、祈りを書式にし、誰かの一言を次の誰かへ渡していく。会社が変わるとは、たぶん、そういう小さな翻訳の連続です。


仕事は、評価される成果だけではできていません。誰にも気づかれない配慮や、残された一文や、次の人が少し働きやすくなる工夫でできています。


明日も会社は、たぶん簡単には変わりません。それでも、いい仕事をすることまでは、会社に奪わせなくていい。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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