第六回 怒りの単位は円である
部長会議で怒鳴った結果、私はアンガーマネジメント研修を受けることになった。
会社は怒りを態度の問題として処理した。
だが、一人の人事部長代理だけは、別の問いを送ってきた。
「本日の損失の話、数字にできますか」
怒りは、そのままでは議題にならない。
では、円に換算したらどうなるのか。
翌週、私には「建設的なコミュニケーションに関する指導」が入った。
指導は、人事の面談室で行われた。
「〇〇さんの問題意識自体は、否定するものではありません。ただ、伝え方というものがあります。同じ内容でも、建設的に伝えれば、届くものです」
「建設的に伝えて、届いた実績はありますか」
面談担当者は、少し考えた。
考えたこと自体が、答えだった。
「……アンガーマネジメント研修のeラーニングを受講してください。三十分です。最後に確認テストがあります。合格点は全問正解です」
「怒りのハードルが高いですね」
面談担当者は笑わなかった。笑わない研修も受けているのだと思う。
eラーニングは、その夜に受けた。
「怒りを感じたら、六秒待ちましょう」
と画面が言った。
六秒待った結果が二十年分溜まって、あのゴルァになったのだが、テストにその選択肢はなかった。私は全問正解した。正解する能力と、正解のとおりに生きる能力は、別のケイパビリティである。ポートフォリオで見ていただきたい。
ただ、画面の言うことにも、一つだけ使える部分があった。
「怒りは二次感情です。その下に、一次の情報があります」
情報。
そうだ。怒りは情報だ。そして情報なら、翻訳できる。
私は矢口を呼んだ。
「あの表、まだあるか」
「議事録係の倫理により、あります」
私たちは三晩かけて、怒りを円に翻訳した。
引継ぎ資料五十三個の作成・読解・質問対応の工数。九人の立ち上がり半年分の生産性低下。七人の暗黙知の再獲得に要する期間の推定。顧客対応の遅延が契約更新率に与える影響の試算。そして、採用市場での機会損失——「誰と何をやるか保証できない会社」が、佐伯さんクラスの人材に断られ続けるコスト。
合計は、小さな家どころではなかった。ちょっとしたビルだった。
私はそれを人事部長代理に送った。
返信はまた一行だった。
「役員レビューの場を、試行として設定できるかもしれません」
試行、という言葉に私は引っかかった。
「試行というのは」
「代理には決裁権がありません」
と彼は書いてきた。
「ですが、決裁の前段階の『試行』は、起案できます。責任の所在が蒸発している役職には、蒸発しているなりの使い道があります」
私は画面の前で、しばらく黙った。
声の調子を変えない男は、二十年間、調子を変えずに済む場所を、制度の隙間に探し続けていたのかもしれなかった。
「一つ聞いていいですか」と私は書いた。「なぜ、動いてくれるんですか」
返信には、少しだけ時間がかかった。
「議事録を読みました。沈黙の長さまで書いてありました。あの会議室で一番長く沈黙していたのは、私です」
その夜、佐伯さんから業務連絡のついでにチャットが来た。
「ゴルァの件、音速で聞きました」
「面目ない」
「いえ。ただ、次があるなら」
「次?」
「怒鳴るのは一回でいいです。二回目からは、数字と対案で怒ってください。そのほうが怖いので」
対案。
まだ、なかった。
そして対案を考える暇もなく、金曜の夜二十一時、私の電話が鳴った。
顧客システムの障害だった。
月末だった。
田村は、もういなかった。
【本章の経営学】怒りは二次感情であり、その下には一次情報がある。経営に届く一次情報の書式は「円」である。工数×単価、立ち上がり損失、機会損失——感情を通貨に翻訳する作業を怠ると、正しい怒りも「態度の問題」フォルダに保存される。なお、権限のない役職(代理・付・担当)は、決裁はできないが試行を起案できる。制度の隙間は、制度をよく読んだ者にだけ見える。




