第五回 ゴルァ
組織改編により、現場の知識は失われ、引継ぎ資料だけが増えていった。
人事はそれを成長機会と呼び、会社は全社最適と呼んだ。
そして部長会議の日。
二十年間、会社員として締め続けてきた私のネジが、とうとう全部外れた。
中間管理職が公式会議で「ゴルァ」と発言した場合、何が起きるのか。
経済学者ハーシュマンによれば、組織が劣化したとき、人間の選択肢は三つしかない。
離脱(Exit)。黙って去る。
発言(Voice)。声を上げて change を求める。
忠誠(Loyalty)。黙って従い、良くなるのを待つ。
私は二十年、三つ目だった。
その日までは。
部長会議で、人事部長代理が言った。
人事部長代理という肩書きは、それ自体がひとつの文学である。部長ではない。代理である。何を言っても本人の言葉ではない。責任の所在をあらかじめ蒸発させてある役職だった。
「今回の異動を、ぜひ本人たちの成長機会として前向きに捉えていただきたい」
私は手を挙げた。
「本人たちには、いつ説明するんですか」
「各ラインで順次お願いします」
「本人の希望は、どの程度反映されていますか」
「個別人事については申し上げられませんが、総合的に判断しています」
「この領域の経験者を七人抜いて、未経験者を九人入れる判断は、何を総合したんですか」
会議が少し静かになった。
部長が私を見た。やめろ、という目だった。やめろの目には三段階あり、これは二段階目だった。
人事部長代理は、声の調子を変えなかった。声の調子を変えないことが、彼の職能のすべてだった。入社以来、彼が声の調子を変えたのを聞いた者はいないと言われていた。
「特定領域に人材を固定するのではなく、組織全体としての最適配置を——」
そこで、私の中の何かが切れた。
正確には、切れたというより、長年ゆるんでいたネジが、ついに全部外れた。入社式の日に締められ、研修で増し締めされ、評価面談のたびに増し締めされてきた、二十年もののネジである。金属疲労は、限界だった。
「いい加減にしろよ、ゴルァ」
会議室が止まった。
オンライン参加者の画面も止まった。
人事部長代理の顔だけが、通信遅延のように一瞬遅れて固まった。回線の問題ではない。人生で一度も想定していなかった入力に対する、処理落ちだった。
私自身も驚いた。四十歳を過ぎて、会社の公式会議で「ゴルァ」と言う日が来るとは思っていなかった。もっと論理的な人間だと思っていた。PMPも持っていた。
しかし、出てしまったものは仕方がない。
「全社最適、全社最適って、誰も見たことねえだろ、その全社」
部長が小声で言った。
「落ち着け」
「落ち着いてますよ」
「落ち着いてる人はゴルァと言わない」
「今まで落ち着きすぎたんですよ」
人事部長代理が口を開いた。
「お気持ちは分かりますが——」
「分からないでください。お気持ちにしないでください。これは気持ちじゃない。七人分の索引が破れる。九人の立ち上がりに半年かかる。顧客影響が出る。外部の優秀な人を誘っても、誰と何をやるか保証できない会社には入りたくないと言われる。全部、経営課題でしょうが」
「言葉遣いに気をつけてください」
「言葉遣いを整えて二十年、何か良くなりましたか」
隣の部の定年間際の部長が、明らかに笑いをこらえていた。あの人は、こらえる必要のあるものが年々減っていた。
「人を動かしたら育成。仕事が止まったら過渡期。責任者がいなくなったら新陳代謝。うまくいかなかったら現場の変化対応力不足。何でも言葉で処理するの、いい加減にやめませんか」
「会社員である以上——」
「出た。それを言えば全部終わると思ってるでしょう。詠唱コストゼロで全反論を無効化する呪文」
部長がとうとう机を叩いた。三段階目だった。
「お前もいい加減にしろ!」
「はい」
私は座った。怒られたので座った。中間管理職だった。上司に怒られれば座る。そこは守った。守るところを間違えている気は、薄々していた。
視界の端で、矢口だけが、ものすごい速さでキーボードを打っていた。
「今の、議事録に書かなくていいからね」
「どこからですか」
「ゴルァから」
「経営課題のくだりは」
「そこは書いて」
「一言一句ですか」
「一言一句」
矢口は小さくうなずいた。プロの顔だった。
会議は十分間中断し、再開後、人事部長代理は先ほどと同じ資料で、同じ説明を、一言一句同じにやり直した。結論も変わらなかった。七人は異動が決まった。
ただ、その夜。
私の社内チャットに、一通のメッセージが届いた。
差出人、人事部長代理。
本文は一行だった。
「本日の損失の話、数字にできますか。代理として、正式には何も申し上げられませんが」
【本章の経営学】ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』
組織の劣化に対し、忠誠は静かで、離脱は不可逆で、発言だけが組織に情報を残す。ただし発言はコストが高く、形式を誤ると「態度の問題」に分類されて情報ごと廃棄される。発言を情報として生き残らせるには、翻訳者が要る。翻訳者は、意外な役職に潜んでいる。




