表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/9

第五回 ゴルァ

組織改編により、現場の知識は失われ、引継ぎ資料だけが増えていった。


人事はそれを成長機会と呼び、会社は全社最適と呼んだ。


そして部長会議の日。

二十年間、会社員として締め続けてきた私のネジが、とうとう全部外れた。


中間管理職が公式会議で「ゴルァ」と発言した場合、何が起きるのか。

経済学者ハーシュマンによれば、組織が劣化したとき、人間の選択肢は三つしかない。


離脱(Exit)。黙って去る。


発言(Voice)。声を上げて change を求める。


忠誠(Loyalty)。黙って従い、良くなるのを待つ。


私は二十年、三つ目だった。


その日までは。


部長会議で、人事部長代理が言った。


人事部長代理という肩書きは、それ自体がひとつの文学である。部長ではない。代理である。何を言っても本人の言葉ではない。責任の所在をあらかじめ蒸発させてある役職だった。


「今回の異動を、ぜひ本人たちの成長機会として前向きに捉えていただきたい」


私は手を挙げた。


「本人たちには、いつ説明するんですか」


「各ラインで順次お願いします」


「本人の希望は、どの程度反映されていますか」


「個別人事については申し上げられませんが、総合的に判断しています」


「この領域の経験者を七人抜いて、未経験者を九人入れる判断は、何を総合したんですか」


会議が少し静かになった。


部長が私を見た。やめろ、という目だった。やめろの目には三段階あり、これは二段階目だった。


人事部長代理は、声の調子を変えなかった。声の調子を変えないことが、彼の職能のすべてだった。入社以来、彼が声の調子を変えたのを聞いた者はいないと言われていた。


「特定領域に人材を固定するのではなく、組織全体としての最適配置を——」


そこで、私の中の何かが切れた。


正確には、切れたというより、長年ゆるんでいたネジが、ついに全部外れた。入社式の日に締められ、研修で増し締めされ、評価面談のたびに増し締めされてきた、二十年もののネジである。金属疲労は、限界だった。


「いい加減にしろよ、ゴルァ」


会議室が止まった。


オンライン参加者の画面も止まった。


人事部長代理の顔だけが、通信遅延のように一瞬遅れて固まった。回線の問題ではない。人生で一度も想定していなかった入力に対する、処理落ちだった。


私自身も驚いた。四十歳を過ぎて、会社の公式会議で「ゴルァ」と言う日が来るとは思っていなかった。もっと論理的な人間だと思っていた。PMPも持っていた。


しかし、出てしまったものは仕方がない。


「全社最適、全社最適って、誰も見たことねえだろ、その全社」


部長が小声で言った。


「落ち着け」


「落ち着いてますよ」


「落ち着いてる人はゴルァと言わない」


「今まで落ち着きすぎたんですよ」


人事部長代理が口を開いた。


「お気持ちは分かりますが——」


「分からないでください。お気持ちにしないでください。これは気持ちじゃない。七人分の索引が破れる。九人の立ち上がりに半年かかる。顧客影響が出る。外部の優秀な人を誘っても、誰と何をやるか保証できない会社には入りたくないと言われる。全部、経営課題でしょうが」


「言葉遣いに気をつけてください」


「言葉遣いを整えて二十年、何か良くなりましたか」


隣の部の定年間際の部長が、明らかに笑いをこらえていた。あの人は、こらえる必要のあるものが年々減っていた。


「人を動かしたら育成。仕事が止まったら過渡期。責任者がいなくなったら新陳代謝。うまくいかなかったら現場の変化対応力不足。何でも言葉で処理するの、いい加減にやめませんか」


「会社員である以上——」


「出た。それを言えば全部終わると思ってるでしょう。詠唱コストゼロで全反論を無効化する呪文」


部長がとうとう机を叩いた。三段階目だった。


「お前もいい加減にしろ!」


「はい」


私は座った。怒られたので座った。中間管理職だった。上司に怒られれば座る。そこは守った。守るところを間違えている気は、薄々していた。


視界の端で、矢口だけが、ものすごい速さでキーボードを打っていた。


「今の、議事録に書かなくていいからね」


「どこからですか」


「ゴルァから」


「経営課題のくだりは」


「そこは書いて」


「一言一句ですか」


「一言一句」


矢口は小さくうなずいた。プロの顔だった。


会議は十分間中断し、再開後、人事部長代理は先ほどと同じ資料で、同じ説明を、一言一句同じにやり直した。結論も変わらなかった。七人は異動が決まった。


ただ、その夜。


私の社内チャットに、一通のメッセージが届いた。


差出人、人事部長代理。


本文は一行だった。


「本日の損失の話、数字にできますか。代理として、正式には何も申し上げられませんが」

【本章の経営学】ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』


組織の劣化に対し、忠誠は静かで、離脱は不可逆で、発言だけが組織に情報を残す。ただし発言はコストが高く、形式を誤ると「態度の問題」に分類されて情報ごと廃棄される。発言を情報として生き残らせるには、翻訳者が要る。翻訳者は、意外な役職に潜んでいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ