第三回 算数は問題行動
大規模組織改編によって、私の部署から十二人が出ていき、九人が入ってくることになった。
九引く十二はマイナス三。
だが、人事部によれば、人数を単純比較してはいけないらしい。
見るべきなのは「ケイパビリティのポートフォリオ」である。
今回は、四則演算ができる中間管理職が、会社の高度な人材配置理論に挑む。
十二引く九は三である。
私は算数ができた。これは自慢ではない。この会社では、算数ができることは、ときどき問題行動と見なされた。
人事部に確認すると、
「人数の単純比較ではなく、ケイパビリティのポートフォリオで見ていただきたい」
と言われた。
新しく来る九人のうち、この仕事を知っている者は一人もいなかった。
出ていく十二人のうち、七人は三年以上このテーマを担当していた。
「ケイパビリティ、七人分出ていきますけど」
と言うと、人事担当者は困った顔をした。困った顔は上手だった。おそらく研修で習うのだと思う。「傾聴の姿勢」という科目で。
「属人化の解消も重要ですので」
属人化、と会社は言う。
だが心理学者ウェグナーなら、別の名前で呼ぶ。トランザクティブ・メモリー。組織の記憶とは、全員が同じことを知っている状態ではない。「誰が何を知っているか」を、みんなが知っている状態のことだ。
つまり組織の頭の良さは、知識そのものではなく、知識の索引でできている。
七人を抜くというのは、本のページを七枚破ることではない。
索引を破ることだ。
索引が破れた本は、全ページ残っていても、もう引けない。
たとえば隣の席の田村。三年かけて顧客システムの癖を全部覚えた男である。どの画面が月末に重くなるか、どの担当者の「至急」が本当に至急なのか、全部知っていた。
正確に言えば、田村が知っていることを、私たち全員が知っていた。だから月末に何かが起きると、誰もマニュアルを探さなかった。田村の席を見た。
それが索引である。
田村は営業企画に行くことになった。
「営業企画で何をするんですか」
「まだ聞いてない。でも成長機会らしい」
「誰の」
「俺のらしい」
田村は少しも成長したそうな顔をしていなかった。ただ、疲れていた。成長機会と疲労は、外から見ると区別がつかない。
さらに、来る九人の立ち上がりの問題があった。
ブルックスの法則。遅れているプロジェクトに人を足すと、さらに遅れる。新しい人は即戦力ではなく、当面は「教わる仕事」を発生させる装置だからである。
九人の教育係を務めるのは、残る側の私たちだった。
つまりこの改編は、知識を七人分減らし、教育負荷を九人分増やす。
算数としては、マイナス十六だった。
私はこの計算をメモにして、人事に送った。
返信は一行だった。
「定性的な観点もございますので」
定量で負けると、人は定性に逃げる。定性で負けると、総合的判断に逃げる。総合的判断の先には、もう逃げ場がない。だからそこが本丸である。
数日後、部長会議の招集が来た。
議題は「新組織への円滑な移行について」。
円滑、という言葉が議題に載るとき、現場は摩擦を覚悟する。
【本章の経営学】トランザクティブ・メモリー(ウェグナー)とブルックスの法則(『人月の神話』)
組織の記憶は「誰が何を知っているか」という索引に宿るため、経験者の一斉異動は知識の削除ではなく索引の破壊であり、被害は残った知識にも及ぶ。そこへ未経験者を足すと、短期的には戦力ではなく教育負荷が増える。人は月と交換可能ではない。




