お掃除魔法をオーバークロックしたら音速で国境を越えた
「――いたぞ! あそこにいる漆黒のドレスの女が、大聖堂を粉砕した偽りの聖女だ! 隣の反逆騎士フェリス共々、今度こそ完全にアカウントをデリート(物理的な意味で)してしまえ!」
背後から、地響きのような甲冑の擦れる音と、神殿騎士たちの怒号が迫っていた。
宿場町で脳内サーバーが強制終了していた彼らだが、再起動した後の復旧処理は驚くほど早かったらしい。
そして私たちの目の前に立ち塞がるのは、空を分断するかのようにそびえ立つ、エルラディン聖教国が誇る絶対防壁『エルラディン・ウォール』。
硬質な花崗岩で作られたその城壁には、幾重もの防御術式が常駐しており、物理的な攻撃はおろか、正規の認証デバイス(通行証)を持たない者の通過を一切許さない仕様になっている。
「完全にデッドロック(詰み)ね……。前は巨大な壁、後ろは騎士団のインフラ大軍勢。イルハ、得意の物理デリートでこの壁を丸ごと消去する?」
フェリスが錆びかけた剣を構え、流れる冷や汗を銀髪の隙間から拭いながら私に聞いた。
その表情には悲壮感が漂っているが、私の手を握る力は決して緩んでいない。
「いいえフェリス。この防壁は国家の基幹システム(メインインフラ)と直結しているわ。これを丸ごと物理クラッシュさせたら、周辺地域の物理演算の同期がズレて、最悪の場合、大地ごと次元の彼方にロスト(メモリリーク)するリスクがあるの。さすがの私も、本番環境のマスターデータベースを物理破壊するようなリスクは冒さないわ」
「そ、そうなの? 意外と慎重なのね……。じゃあ、どうやってこの包囲網を突破するのよ!?」
じりじりと距離を詰めてくる神殿騎士団。その数、およそ二百。
対する私たちは、魔王軍幹部ビジュアルの元プログラマーと、錆びた剣を持つ騎士が一人のみ。
私はフッと不敵な笑みを浮かべ、純黒の手袋に包まれた指先を顎に当てた。
「こういう時こそ、基本五属性すら使わない、完全ノンセキュアな『汎用生活魔法』の出番よ。フェリス、どこの家庭の主婦でも使う、一番簡単な掃除用の魔法って何だか知ってる?」
「は? 掃除用……? そんなの、床のゴミを吹き飛ばす風属性一サークルの『クリーン(塵払いの息吹)』くらいしかないけれど……」
「正解。仕様書(教義)によると、『クリーン』は微弱な指向性を持った空気の波動を発生させ、対象の表面にある微粒子を剥離・移動させるスクリプトよ。……ねえフェリス、この魔法の『移動速度』と『出力持続時間』の変数を、十サークルの超高性能ハードウェア(私の魔力)で限界突破させたら、どうなると思う?」
「嫌な予感しかしないわよ! っていうか、今は掃除してる場合じゃないでしょ!?」
「いいえ、大真面目よ。今から私たちの周囲にある『空気』そのものをクリーン(掃除)するわ」
私はフェリスの腰をガシッと左腕で抱き寄せた。
突然の密着に、フェリスが「ひゃっ!? ちょ、ちょっとイルハ!?」と顔を真っ赤にしてうろたえるが、構っている時間はない。
私は右手を私たちの足元、そして垂直にそびえ立つ『城壁の表面』へと向けた。
体内の膨大なルート権限(魔力)の蛇口を全開にし、本来なら綿埃をパタパタと飛ばすだけの超軟弱スクリプトに、数百万倍の処理エネルギーを力技で流し込む(インジェクション)。
(ロジック構築:ターゲット指定、私とフェリスの進行方向にあるすべての『障害物(空気分子含む)』。クリーン機能の出力を限界値までオーバークロック(周波数最大固定)。移動ベクトルの上限を解除し、ループ処理をミリ秒単位で無限実行(無限ホールド)せよ! 生活魔法……『クリーン』ッ!!)
パチン、と本日最大出力の打鍵(指パッチン)が夜空に鳴り響いた。
その瞬間――世界から、すべての「音」がロストした。
ズバァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!
「いや、掃除の概念が音速を越えて推進力になってるじゃないのよォォォォォォォォッッ!!!!」
フェリスの鼓膜を突き破らんばかりの絶叫が、音速の壁に掻き消された。
私の放った『オーバークロック版クリーン』は、もはや掃除魔法などという生易しいものではなかった。
進行方向にあるすべての空気分子を「ゴミ」と認識して力技で完全排除した結果、私たちの目の前に完全な『真空状態(気圧ゼロ空間)』が生成されたのだ。
そして、背後にある通常気圧の空気が、その真空に向かって猛烈な勢いで流れ込む――すなわち、究極の「爆風推進力」が完成してしまったのである。
ドゴオオオンッ!!と大気が爆発するような凄まじい衝撃波と共に、私とフェリスの身体は、ラグビーボールのように一瞬で垂直に打ち上げられた。
時速にしてマッハを超える超音速。
重力加速度(G)の物理演算がバグを起こし、私の漆黒のドレスとフェリスの銀髪が激しく後ろに引っ張られる。
「イルハァァァ! 壁! 壁が目の前に迫ってるわよォォォ!」
「大丈夫! 壁の表面の摩擦係数もクリーン(ゼロ化)してあるから、そのまま滑走するわ!」
猛スピードで迫る高さ数十メートルの城壁。
しかし、私たちは激突することなく、城壁の表面を垂直に「ズザザザザザザッ!」と音速で駆け上がっていった。摩擦が完全に掃除されているため、激突の衝撃すら発生しない。ただの垂直なサーフィン状態だ。
下で見上げていた神殿騎士団は、生活魔法で音速飛行を決めて垂直に壁を登っていく二人の指名手配犯を前に、もはや追跡する気力すら失い、ポカンと口を開けて夜空を見上げるだけのただの背景オブジェクト(背景グラフィック)と化していた。
一瞬にして『エルラディン・ウォール』の頂点を飛び越え、私たちはそのまま国境の外側――広大な未知の大地へと向かって、放物線を描いて真っ逆さまに自由落下を始めた。
フワリ、と夜風が私たちの身体を包み込む。
眼下に広がるのは、教会の集中管理から完全に切り離された、オープンソースの未開の大地だ。
「……ぷはっ! 死ぬかと思った……本当に死ぬかと思ったわよイルハ……!」
自由落下の恐怖の最中、フェリスは私の首にしがみついたまま、涙目で、けれどその瞳にはこれまでにないほどの興奮と「解放の輝き」を宿して笑っていた。
「ふふ、言ったでしょう? 私のロジックにバグ(未処理の例外)はないって。これで無事に、国境の脱出成功よ」
私たちは夜空の星々に見守られながら、新しい世界のアーキテクチャへと着地していくのだった。教会のクソ仕様をぶち壊すデバッガーたちの旅は、ここからさらに加速していく。




