ミラの救出
石の隙間に染み込んでいた冷気が、今日は妙に厚い。今日は、妙に静かだ。静けさは、耳を塞ぐほどうるさくて、不快だ。壁の裏で、何かがゆっくりと動いている音がする。いや、違う。音じゃない。空気が震えている。息を吸い込むと、湿った鉄の匂いの奥に、焦げたような香りが混じっていた。遠くで、金属が擦れるような音が聞こえる。いつもの看守の足音ではない。もっと、荒い。いつもはどんよりとした重さが部屋にこびりついているのに、今はそれすら薄くなっている気がする。息を吸うたび、空気が軽く、どこか温かい。こんなのは初めてだ、と僕は思う。どうしてだろう。理由は分からない。けれど、胸の奥がわずかに浮き立つ。
もしかして、お姉様が迎えに来てくれたのだろうか。そうに違いない。そう思うと、急に腹が減ってきた。あの生臭いスープでさえ恋しい。けれど今日は、あの陰険な看守がやってこない。何故だろう。さっきは前を通ったはずなのに。通り過ぎた? それとも……もう誰も残っていない?なぜだ? どうして? 分からない。腹が減った。腹が減っているのに、足音は一向に近づいてこない。いつもなら、器の金属音と一緒にあの無駄に大きな足音が響く。聞くに堪えない罵声、暴言と共に僕をいたぶるのを楽しみにするかのように来るのに。そう、あれは彼にとっての娯楽だ。耳を澄ましても、外の気配はひとつもない。静けさは、ときに殴られること――いや、他の何よりも恐ろしい。世界のどこかが壊れて、僕だけが取り残されたように思える。こんな静けさはありえない。胸がざわつき、鼓動が音を立てすぎて、耳の奥が痛む。
おかしい。本当におかしい。けれど、それでも僕は思ってしまう。もしこの扉が今開いたら。もし名前を呼ぶ声が響いたら。その時こそ、本当に世界が変わるのだろうか。どれほど待っても、誰も来やしない。
「グゥ……」初めて、腹が鳴った。これほどまでに本当に腹が減ったのは初めてだ。お腹と背中が本当にくっつきそうだ。もしかしてもう食事はないのだろうか。これが、新たなアソビなんじゃないのか?そんな考えが頭をよぎる。
「……っ」
外で、男の悲鳴のような声が上がった。鈍痛を押し殺したような、短いうめき。なんだろう。怖い。もしかして誰かが僕の命を取りに来たのだろうか。それも分からない。けれど、なぜだか胸のどこかが少しだけ高鳴った。悲鳴は、少しずつ近づいてくる。お母様が昔言っていた悪魔は、本当にいたのだろうか。分からない。
「助けて……お母様」そう呟いても、お母様は当然答えてくれない。「ドンッ」地面が割れるような振動が伝わってきた。破裂音が響き、石片が飛んできた。 頬に当たる。怖い。痛い。幸い刺さりはしなかった。けれど、何が起こっているのか分からない。
しばらくの沈黙。息が止まっていたのかもしれない。空気の匂いが変わった。焦げた藁と、熱い風。何か鉄臭い。いつも殴られた後に鼻へ残る匂いだ。誰かが外で殴られているのだろうか?何かが、ここへ近づいてくる。
「だぁ!」力強い雄たけびを上げる声がする。なんだろうか、これから悪魔に食い殺されるのか?それとも、新しい罰、また何か晒し者にされるのだろうか?それとも案外、神様が助けをくれるのかもしれない。
「今そこをぶち破るから、どいて!」
次の瞬間、世界が裏返った。空気が裂け、圧が雪崩れ込む。石片が頬をかすめ、冷たい線を置いていく。遅れて鼓膜が悲鳴を上げた。破壊では足りない。世界の境目が壊れる音だ。埃の匂いが舞う。風が頬を叩く。耳鳴りだけが世界に残る。短い無音。心臓の音だけが響いた。
「助けに来たよ!」その声は、光を持っていた。明るく、強く、でもどこか掠れている。荒い呼吸。火傷のような焦げた匂い。彼女は戦ってきたのだ。でも、声には笑みがあった。その笑いが、この世界で初めての“音楽”のように思えた。
誰だろう。力強い声だ。わからない。けれど――怖い。怖いのに、どこかで安心している自分もいる。そうだ、身をかがめて隠れよう。この人は人違いをしているのかもしれない。そうだ、そうしよう。そうして僕は身をすくめた。
「まったく……」ぶち破ったその主は、ためらいなく僕を引き剥がした。
「ほら、手を貸して」
どうやら女の声らしい。図々しいほどに明るく、迷いがない。全く違う対応に、僕は当惑した。女の人といえば、お姉様かお母様しか知らない。こんなにも力強い人がいるのかと、当惑しながら手をつかもうとしたが、彼女の手がどこにあるかわからない。音が、空気の中を泳いでいる。彼女の呼吸の音、衣擦れの音。すぐそこにいるのに、輪郭が掴めない。空振った手が何度も虚空を切る。そのたびに、風だけが形になって残った。
「何してるの?」
彼女が少しイライラしたように言う。少し怒ったようにこちらへ向かって、距離を詰めてくる。胸が危険だと伝えるかのように鳴る。殴られるのだろうか。わからない。わからないから、一応理由を伝えてみる。
「僕、目が見えないんだ。その……だから今、君の手がどこにあるか分からないんだ」
申し訳なく言うと、彼女はすぐに息を呑んだ。僕は少し目を瞑って、舌を噛まないように口の奥にしまって、少し後ずさった。パン、と手を叩く音。
「あっ、ごめん!」元気に言った。
「それならそうとは早く言ってよね? いつもみたいに無視されてるのかと思ったから」彼女はあっけらかんとして言う。初めてだ、こういう反応は。彼女の靴音が床を打つ。革のきしむ音、布の擦れる音。音だけが、彼女の輪郭を作っていく。近づいてくる。
「はい」彼女は手を差し出す。
「フフ……アハハ、そっちの声はちゃんと聞こえるんだね」その瞬間、背後で空気がほどけた。声ではないのに、確かに言葉だった。振り向いても、誰もいない。壁の残響が、人の形をとったみたいだ。
「急にどうしたの? 大丈夫?」彼女は僕の肩に手を触れる。力強くて、その手は暖かかった。他の誰の拳とも、違って、血が通っていた。
「落ち着いて。ここには今は私と貴方しかいないのよ」そうして先程の印象と打って変わって、僕の手を優しく包み込む。
「あ、そうだ! 名前、言ってなかったね」手の温もりを伝えたまま、彼女は言う。
「私、ミラ! お父さんとお母さんに貰った、大切な名前なんだ」理由はわからない。僕にも見えたんだ、彼女に後光が差したあの瞬間を。この感覚は。お母様ともお姉様とも違う。何か、あたたかくて、眩しい。
「僕はアノン。お姉様にもらった、大切な名前だ」なぜだろう、こんなに喉の奥から言葉が出てくる。
「お互い、特別なものを貰ったね」なぜだか、彼女が泣いているように聞こえた。
「大丈夫だよ。もう一人じゃない」そんな言葉が出た。いつもは、こんなセリフなんて言えないのに。そうやってお互いの額を合わせて、お互いを確かめ合う。彼女の額が触れた瞬間、世界が一点で焦点が合った。見えないのに、そこだけがくっきりと在る。何故か分からない。けれど、少し息が上がっていく。 胸の奥がドクドクと鳴っている。二人の声が、薄暗い石の部屋に溶けていく。壊れた扉の向こうから、外の風が流れ込んできた。湿った石の匂いが遠のいていく。その風は、光の匂いがした。焼けた草と、遠い水の匂い。嗅いだことのないのに、どこか懐かしい。僕の世界がまたを音を立てて息を吹き返した。
「アハハ、お熱いところ失礼するけど――君たち、この状況理解してる? ねぇ?」
"あの声"だ。空でも地でもない、どこからともなく笑いが落ちてきた。音にまるで重さがあるかのように僕の首を頷かせようとする。また"あの声"が僕に話しかけている。ミラの額に触れていた手をそっと離し、僕は耳を澄ませた。風も壁もないはずなのに、空気が震えている。
「ねぇ、さっきの声と同じ?」ミラが不思議そうに問いかけてくる。わからない。けれど、確かに――気をつけたほうがいい気がした。その瞬間、何かが“視えた。光。いや、僕は生まれてから一度も光を見たことはない。けれど、確かにそこに“明るさ”があった。何かが導いている。そんな気がした。僕はその方向へ、無意識に足を向けた。
「ねえ、アノン。聞いてる? アノンってば!」
「どうしたの、置いていかないでよ!」ミラの声が焦りを帯びる。振り返ると、彼女の息遣いが少し荒い。
「ごめんね、ミラ」僕は謝るように微笑んだ。
「きっと、さっきの“誰か”が――道を教えてくれてるんだ」
「……本当に大丈夫? ここには私と貴方しかいないのよ? 他の誰もいないの」
ミラの声は心配そうで、それでも少し怒っていた。僕は小さく息を吸って言った。
「それなら――神のお導き、じゃないかな」
「そんなことあるはずないわ……神はね、信徒や子どもに"名前"を与えるのよ。でも私たちは貰ってない。貴方もそうでしょ? 大切な人から名前を貰った――でもその人達はもう、この世にいないの」ミラは泣きそうな勢いで、声を荒げた。彼女の唇を噛み締める音が聞こえる。
「そんな私たちに、今さら神なんて……いいことしてくれるはずないじゃない!それなら、私が切り開いた道があるわ。そっちを行きましょう」
確かに、彼女の言うことは正しい。でも――胸の奥で、何かが微かに揺れた。神は残酷なのかもしれない。それでも、この奇妙な二人の時間が"続く"のなら、誰の救いがあってもいい、と考えてしまう。僕たちは、この世界の隅に追いやられ、存在を消された。ならば、そこから手を伸ばしてくれる存在がいるなら、たとえそれが神だろうが、たとえ魔物であろうとも……。
「誰でもいいじゃないか。教えてくれるなら」僕は静かに言った。
「アノン……あなた、ここにいる私じゃなくて、他の……」ミラの言葉は、途中で途切れた。その瞬間、また“あの声”が笑った。
「ああ、やっぱり君のほうが“ホンモノ”だ」風が流れた。ミラには聞こえていない。だけど僕には、確かに聞こえた。誰かが、僕たちを"導いて"いる。
そうだ僕には、何かが聞こえている。胸の奥で、誰かが囁いている。 それは夢のように遠く、でも確かに現実のほうから響いていた。どちらに進むべきか、まだ分からない。けれど、決めなければいけない。ノロノロしていたら、すべてが壊れてしまう気がした。
「どうするの?」ミラの声が震える。焦りと恐怖と、少しの怒りが混じっていた。
その声に、僕は思わず身をすくめた。
「あっ、ごめん……!声を出しすぎたわ」ミラは小さく息を吐く。
「でも……ここには、私たちしかいないのよ」その声は、さっきまでの強さとは違っていた。悲しそうで、少しだけ弱かった。
わかった。彼女も、僕と同じなのだ。僕を助けることで、自分も救おうとしている。ここにいるのは、取り残された二人だけ。この世界で、まだ息をしているのは、僕たちだけかもしれない。それでも、 今この瞬間、僕のそばには"殴らない手"がある。この世界で初めて、僕のために泣くかもしれない人がいる。
「大丈夫だよ」言葉より先に、体が動いていた。ミラのほうへ、恐る恐る手を伸ばす。指先が、柔らかいものに触れた。温かかった。それが髪なのか、頬なのか、わからない。けれど、確かに“生きている”音がした。撫でる。
ミラは少し驚いたように息を呑み――それから、拒まなかった。むしろ、息を潜めるように肩をすくめた。僕の指先の下で、髪が擦れる音がする。それは、冷たい石よりも、柔らかくて暖かい音だった。彼女の呼吸が少し早くなる。 その音が、僕の胸の中で反響する。呼吸が重なり、鼓動がゆっくりと同じ速さになっていく。何も言わずに、時間が流れた。沈黙は、まるで世界が聴いているようだった。この小さな空間が、二人だけの世界になっていく。誰の声も、もう届かない。けれど、その沈黙の奥に、確かに“何か”が息をしていた。
ミラが何かを言いかけて、やめた。その息が頬をかすめた瞬間、僕ははじめて“他人の震え”を感じた。そうだ、目の前にいるのはこの人だ。迷う必要なんてない。この温かさ、この涙を持っているのは彼女なのだから。彼女の歩む道を、僕も歩きたいと思った。
「アハハ……どうするの?それで……」
遠くで、"あの声"笑った。明らかに人を馬鹿にしている。そうだ、構うもんか。僕はミラの手を掴んだ。グラッ……手が冷たい石に触れた。足がもつれたようだ。どうやらこの足は、まだ「自分の重さ」に慣れていないらしい。
「もう、しょうがないなぁ」ミラは小さく笑い、僕の背を抱えた。その腕がふっと浮く。風が舞い、埃が沈黙を破る。
「さあ、行くよ――アノン。しっかり掴まってて」
埃の匂いが遠のき、湿った石の感触が薄れていく。
ミラの少し、甘い香り……何故だろうこれは嗅いだことのある匂い……少しミラの腕の中で落ち着いた。その瞬間ミラの足が止まった。
「よし……!ええい、こんなの邪魔だ!全部壊してやる……」
次の瞬間、ドン、と空気が裂けた。音ではなく"世界"の端が剥がれるような感覚。ミラは僕を抱えたまま、足でこの長くも暗い牢の「形」そのものを蹴り砕いたのだ。破片が頬に当たる。少し痛い。でもその痛みよりも、空気が、生きていた。
生暖かい風が流れ込み、陽だまりの熱が2人を包むまるで誰かが世界の隙間から息を吹きかけたようだった。血と土と、陽だまりの匂い。それは、この世で一番"現実"の匂いだった。
そして涙が溢れた。止めようとしても止まらなかった。何かが壊れていく。胸の奥で、音を立てて崩れていく。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、世界が初めて“息をした”瞬間に立ち会ってしまった。その圧力が、目からあふれ出した。止まらない。でも止めなくていい。そんな気がした。ミラが驚いたように僕を見下ろす。けれど何も言わない。ただ、抱く腕に少しだけ力がこもり、少し彼女の笑顔が見える気がした。僕は嗚咽の合間に、どうしようもなく笑っていた。ああ、泣くって、こういうことなんだ。そうか、誰かと一緒にいるのは、こんなにもいいものだと。
「これから、どうするの?」震える声で問うと、ミラは息を吸い込んで笑った。
「ハハッ!私が来た道から、行くのさ!今度は私とアノンと……ふたりで!」その笑いには、わずかな痛みと安心があった。背後で崩れていく牢の音。振なくてもわかる。あの場所はもう存在していない。
「なんか文句あるの?」ミラは僕に少し気にしている様に聞いた。たぶん、表情に出ていたらしい。そうだ。僕は決めたんだ。この人と、行く。
「ごめん、なんでもないよ」言葉が風に溶けていく。その風の中に、奇妙な音が混じった。まるで誰かが、僕らのすぐ傍で笑っているような。空でも地でもない場所から、"あの声"が響く。
「アハハ……やっぱり君はボクを“選ばなかった”んだね。いいよ、それで」その声は、光にも闇にも属さない。聞く者の心の形に合わせて、男にも女にも聞こえた。笑っているのに、泣いているような声だった。そして、最後の一言を残す。
「でもね、君たちの"音"は、ちゃんと聴こえてるよ」風が鳴った。世界が再び、呼吸を始めた。
「それなら行くよ、掴まってて!」ミラの足が地を蹴る。 ドンッ、それは、音ではなく、衝撃が走る。 その一撃で空気がねじれた。風が裂け、耳鳴りが世界を満たす。 地面が消える。 重力も、境界も、もうどこにもなかった。頬を切る風。僕を包む腕の熱。何かが遠ざかる音。どうやらミラは僕を抱き上げて、全力で走っている。
その背に、微かに"炎"の音が聞こえた気がした。風とぶつかって揺らぐ、赤い熱。いや、炎ではない、彼女自身が燃えているのだ。彼女の包む大きな何かが空気を焦がし、世界を押し開いていく。不思議と怖くはなかった。むしろ、安心する。湿った石の感触が薄れていく。風の中に、草と水の匂いが混じった。
それは、初めて嗅ぐ"外の世界"の匂いだったその匂いの向こうに、かすかな鳥の声がした。音はまだ遠い。けれど確かに、生きている。わずかに頬をなでる風が、まるで新しい皮膚のように感じられた。僕たちは手を離さず、風の方へ――歩き出した。




