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暗がりの子

本当に暗い。音まで暗い。低く、どんよりと濁る。闇が見えない僕でさえ、これは"闇"だと、ここには闇しかないのだと理解できる。天井があることは、音の跳ね返りでわかる。

けれど、そこに何があるのかは知らない。手を伸ばしたこともないから、ひんやりしているのか、ざらついているのかさえ想像できない。指先に残るのは、ただ冷たさと埃のざらつきだけだ。耳を澄ますと、闇が層を成していることが分かる。近い闇と遠い闇、足元に巻きつく闇と天井を撫でる闇。音はその層を渡り歩き、跳ね返りは距離を測る定規になる。低く響く反響は壁の奥、かすかな残響ははるか向こう。音の質が違えば、そこにある世界も少しずつ色を変えるように思える。だから僕は音の違いで場所を推し量り、指先で触れられない天井の高さを想像する。想像はいつもそっと外れ、闇は不意に深まる。

 この部屋に何日いるのかも、わからない。朝が来たのか夜なのか、風が吹いたのか雨が降ったのか。外の時間はすべて、音や匂いによって代用されている。運ばれてくる器の金属音。扉の軋み。遠くで鳴るかすかな鐘の残響。それらがたまに世界の方角を教えてくれるが、数えることはもうできない。いつからここにいるのか、記憶は溶けて細くなっている。食事の時間を知らせてくれた鐘の音も、あの爺やのやさしい声も、僕の手を引いてくれたあの手も、いまはもうない。爺やの歩幅は胸の底に残る安心のリズムだった。お姉様の足音は軽やかで、手を差し伸べるときの匂いは洗いたての布の匂いだった。あの匂いを、暗闇のどこかに埋めておきたくて、僕は何度も唇の裏にその残滓を押し込んだ。

 それに比べ、この部屋の匂いは耐えがたい。湿った石の冷気、錆びた鉄の匂い、藁のような埃。時折それに、血の乾いた匂いが混じる。鼻先をかすめるたびに、胸がぎゅっと縮む。床はいつも冷たく、背を横たえると骨に硬さが響く。衣服は長いあいだ洗われず、汗と土のざらつきが肌にこびりついている。目が見えないからこそ、触れるものすべてが世界になる。指の先に埃が残れば、それが一日の記憶の印になる。

 食事の回数、運ばれてくる音と匂いだけが、かろうじて時間の流れを教えてくれる。だけど、それすらもう数えられない。皿が置かれる位置も、音の高低も、同じ日に聞いたのか三日前に聞いたのか、区別がつかない。時間がドロドロと溶ける。ひとつの黒い液体が僕の体の周りを振り払おうとしてもまとわりついてくる。

 昨日って、いつだったっけ。この部屋に来て、何回寝たのかも何度この冷たい地べたを這いつくばったのかもわからない。気がつくと、夢と現実の境界も曖昧になっていて、僕は何度も同じ夢を見ている気がする。夢の中でお姉様が微笑んでくれて、僕に名前をそっと手渡してくれた。光を渡すように、不器用に。それが昨日だったのか、一昨日だったのか、あるいは最初から夢だったのか、胸の中でぐるぐる回って混ざり合う。

 今日もまた、スープをこぼしてしまった。器が置かれる音はした。でも、その場所は分からない。手探りで伸ばした指先に触れたのは、陶器の器――じゃなかった、その縁。冷たくざらっとした手触り。傾いた瞬間、ぬるい液体が手にかかった。熱くはない。けれど冷たくもなかった。ただ、手がベトベトする。唇の内側でその感触がじっとり広がり、気持ちが沈む。

 次の瞬間、扉が開いた。足音がする。コツ、コツ、コツ……右足を少し引きずる、あの看守だ。歩き方だけで誰だか分かる。僕は何も言えずにいた。けれど、乾いた音が頬に落ちる。殴られた感触は火のような鋭い痛みではなく、ただ僕の中の世界が閉じていく、そんな音だった。

 "何度言えばわかる」その声と一緒に、器が乱暴に引き上げられる。甲高い衝突音が残る。どうして怒られるのかわからない。

 なぜ僕がここにいるのかも、誰も説明してくれない。だけど僕でも分かる。僕は、こんなこともできないんだと。世界から取り残されているという事実が、じわじわと肌を伝って離さない。

 時々、部屋の壁が少しずつ近づいてきている気がする。角に手を当てると、石の冷たさがじんわり伝わる。けれど本当に近づいているのか、僕が小さくなっているのか、わからない。音の反響も、少しずつ変わっている。足音が丸くなったり鋭くなったり。空間が縮むように感じるのは幻覚か、それとも誰かが意図的に空気を絞っているのか。

 夜というものが、どんなものかは知らない。だけど、わかる気がする。部屋の空気が少し冷えて、音がすべて止まる。誰も動かず、気配も消える。壁が近くなって、心がぎゅっと小さくなる。呼吸のたびに、胸の奥の小さな音だけが震える。夜は静かで、それが恐ろしい。きっと、死ぬってこんな感じなんだろう。怖い。……それが、きっと夜だ。夜のとき、薄い布が鼻先に触れたような感触がある。布の匂いはいつだって姉を思い出させる。洗いたての匂い。温度のある匂い。それにすがると、たとえ短い間でも世界が少しだけ明るくなる。光ではない。けれど、温度がある。名前を呼ばれる前の温度だ。

 お姉様は、手を握ってくれた。お姉様は笑いながら、小さな声で僕の頬を撫でた。布の端に残る石鹸の匂い。彼女の指先は冷たくはなく、でもどこか震えていた。僕はその指を握り返して、彼女の唇の形を真似て「アノン」と口にした。彼女はそれを確かめるようにもう一度言って、僕の名前を一文字ずつ小さく切って渡した。ア――ノ――ン。耳でつかんだその形が、体の中で固まって、暗闇の中で小さな灯りになった。名前は紙でも宝石でもなく、触れたときにだけ熱を持つものだと、僕はそのとき知らずに学んだ。名前は、言葉以上の何かだ。唇でなぞるだけで、胸の奥の冷たさが少しだけ溶ける。アノン、という音は柔らかく、僕の体にひっつくように残る。誰かに呼ばれるその響きが、僕の世界の位置を定めてくれる。暗闇の中でも、その音だけは方向を教えてくれた。

 あれは、この部屋に連れてこられる前の晩だったと思う。眠かった。そう、あれは夢だったのか、想像なのか、今でも思う。いや、違う。本当にあったことなんだ。お姉様が、その日はちょっと違う雰囲気だった。笑い方がふと切なげに震えて、手の温度がいつもより高かった。今思うと、このことが分かっていたのかもしれない。

 『ねぇ。あなたに、私の大切なものをあげる。私の名前をあげる。そうすれば、私とずっと一緒だわ』

 なぜだかは、その時はわからなかった。けれど、今思うと本当に大切なものだった。名前をもらうことの重さを、当時の僕はまだ知らなかった。小さな子どもが宝物を受け取るように、ただ手を開けただけだった。

 今日も、お姉様の声がした。けれど周りを見ると……いつもの光景だった。だからやっぱり夢だったのかなって思う。だけど、何度も同じ声が聞こえる。耳にしみついたその調子が、僕を生かしている。呼吸を続けさせる理由になっている。

 『静かにしろ』と言ってくれた看守も、いまは何も言わない。優しかった爺やも、声をかけてくれない。もう、誰も僕に触れてこない。話しかけてこない。この部屋に生きているのは、本当に僕だけなのか?それとも……もう僕は、ここにいないのか。たまに、そう思ってしまう。

 ある夜、遠くで雷が鳴った。重い響きが石を伝って、胸の奥に落ちてきた。次に聞こえたのは、子どもの泣き声だった。ひと声だけで、すぐにかき消えた。そしてもっと遠い何かが動く音も聞こえた。馬のいななきか、荷の擦れる音か。毬を蹴る、軽い音が、途切れ、また遠ざかる。それが僕の胸のどこかに小さな痛みを残した。人はきっと、夜にそんな些細なことで笑ったり叱ったりするのだろう。僕はそこに行けない。行けないのに、想像だけは勝手に広がって、外の匂いと声が僕の中で短い妄想を作る。妄想が作れなくなると、また暗闇だけが残る。

 ここから出られない僕にとって、それは幻のようだった。けれど確かに、外の世界は続いている。僕を置き去りにして、誰かが泣いて、誰かが生きている。その事実が、いちばんの恐怖だった。

 暗闇は、ときに海のようだと思う。足元から胸の高さまで、冷たい水に満たされているようで、呼吸のたびに溺れていく。壁はただの石ではなく、心臓の鼓動のように近づいたり遠のいたりする。まるで生き物に呑まれているみたいだ。音を立てれば、その鼓動が早くなり、僕を押し潰そうとする。

 孤独は名も無い生き物だ。それでも確かに僕の胸の奥に棲んでいる。孤独は、ときに重力のように僕を押しつぶす。耳を澄ませば、遠くで何かが鳴っている。だれかの談笑かもしれない。だれかの怒声かもしれない。けれどそのどれもが、ここまでは届かない。ときどき、扉の隙間から風がすべり込んでくることがあった。鉄の匂いに混じって、焚き火の煙の匂いがした。遠くで誰かが笑った声も聞こえた。世界のどこかでは、火が燃えて、人が生きている。でもここには届かない。届いてはいけない。その残滓だけが、僕を現実につなぎとめる鎖みたいだった。

 姉が亡くなったと聞かされたのは、いつだったろうか。扉の前で足音が止まり、次に怒鳴り声と拳が飛んできた。どこかで破れた布の音、低く抑えられた呟き。誰かが言った。「お前のせいだ」。意味がわからなかった。だってそうだ。僕は関係ないんだ。僕は、お姉様が、大好きなだけだった。そのあと、お母様もいなくなった。お母様がどんなお母様だったかは、もう思い出せない。けれど声だけは残っている。柔らかく、低い声。怒るときでさえ、どこか震えていた。あの声に「おやすみ」と言われた夜があった気がする。その記憶は、夢と同じくらい曖昧だ。今、もしその声が届いたなら、僕は泣いてしまうだろう。呼びかけるだけでいい。名前なんて要らない。ただ「そこにいる」と言ってほしい。

 その時理由を聞いたが、みな「お前のせいだ」とか「理由がわからないのか」と怒るばかりで、理由は誰も教えてくれなかった。理由を知らされないことの方が、余計に怖かった。想像はどんどん大きくなり、夜の静けさに溶けていく。誰も説明してくれないから、僕は自分で物語を作り上げる。悲しい物語や、恐ろしい結末ばかりが育つ。だがそれすらも、現実か夢かの区別がつかなくなっている。

 僕は、生きていていいのか?生きている理由が、どこにあるのか?わからない。今でも、何も。世界は僕を置いていくように進んでいく。けれど、小さな灯りはまだ残っている。名前だけは覚えている。アノン。お姉様がくれた、大切な名前。口にするたびに、胸の中が少しだけ暖かくなる。暗闇の中でその音だけが、確かな存在を教えてくれる。それだけで、僕はまだここに居られる。名前がある限り、僕は消えてしまわないような気がするのだ。誰にも見えなくても、誰にも触れられなくても、僕はそこにいるという証が残っている。それがあるから、僕はまだ呼吸を続ける。手のぬるりとした感触を拭いながら、僕はいつかまたあの声を聞く日を待つのだろう。光が戻ると誰かが言ってくれる日を。

 アノン。唇の裏で鳴るその音を、僕は何度も繰り返す。たった1つの音が、身体の輪郭を取り戻してくれる。世界が僕を忘れても、僕がその音を忘れなければ、僕は存在し続けられる。届くかどうかなんて問題ではない。呼ぶことで、僕は自分を確かめるのだ。指を布で拭い、ぬるりとした手を胸に当てて、僕は小さな火のようなものを抱えている気持ちになった。消えないように、僕はまた名前をつぶやく。アノン。アノン。

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