第9話:沈丁花は枯れても香し
アリスが数日間姿を消し、家族やヘレーネ、ロータス、アイビー、リリィたちはすっかり色を失っていた。全員、出来ることに力を尽くしていたが、足取りはつかめなかった。
父親と弟、ロータスは職場や地元に協力を仰いで行方を追う。ヘレーネは『声』に耳を傾ける。アイビーはディビーとも連携して、相談者のネットワークから彼女を探す。リリィは私財の限り彼女を追う体制を作る。
アコウが絡んでいるのではないか、と父親と弟、ロータスたちは接近したこともあった。しかし家政婦長を通してしか話が出来ず、本人に意見は出来なかったので無駄であった。
「そもそも、お二人はお付き合いがなくなったと伺っておりますが……」
家政婦長は、アリス直筆の手紙を3人へ見せた。それは、アコウとの絶交を宣言するものだった。
3人とも、彼が何か噛んでいることは察していたのだが、確実な証拠は得られず、もどかしい日々を送っていた。
成果がなかったのは他の者たちも同様だった。せっかく得られたはずの希望に、再び暗雲が立ち込めてしまったのである。
アリスは、実際に、アコウの屋敷に軟禁されていた。奥の部屋で家事やアコウの業務の事務作業を担わされていた。
(私は……『人形』……)
掃除を進めながら、アリスは心の中でそう唱え続ける。
君の心は僕のもの。所詮は、指示が無ければ何もできない操り人形。
アコウのその言葉が、空っぽになっていたアリスの楔だったのである。
朝は日が昇る前から目覚め、わずかな食事で飢えを満たし、夜遅くまで働かせ続ける。
「日に焼けてはいけないよ。せっかくの若さと美貌が損なわれるのだからね」
アコウはアリスにそう命じ、奥の部屋に留まらせ続けるようにしていたが、言うまでもなくそれは、来訪者に見られないようにするという、隠ぺい工作の一つでもあった。
アリスは『先輩』たちの指示のもと、空虚な心で手を動かし続けた。それは『同僚』たちも同じだった。彼女たちは一言も交わさず、無表情で自らの業務を遂行する。
そんなある時、アリスの『同僚』の1人が、掃除中に倒れ込んでしまった。その場にはアリスと、『先輩』と『同僚』たちが何人かいた。
「君たちの管理は家政婦長に一任してある。倒れたりしても君たちは手を出すな。家政婦長の対応を待つこと」
アコウからそのように命令されていたので、誰も手を出そうとはしなかった。だが、カチューシャと胸についたブローチが生体反応を感知するものだったので、異常を察知した家政婦長がすぐに駆け付ける運びになっていたため、彼女たちの安全は保証されていた。
家政婦長が現場に駆け付けた時、信じがたいものを見た。
女中の1人が座り込み、その倒れた者の世話をしていたのである。顔を横に向けさせ、呼吸が止まらないようにする措置を取っていた。
アリスだった。
「……仕事に戻りなさい。何をしているの」
家政婦長が声を掛けると、その娘は何かを思い出したように立ち上がり、再び掃除に戻った。
この件はアコウにも伝えられた。
「何だか、気に食わないな。まあ、ここにきて間もないから、仕方がないか。……今度同じような素振りを見せたら、君たちの装備の一部を変える。……カチューシャに細工して、命令に背いたら痛みを与えるような仕組みを作っておくか。手荒な方法は取りたくないがね」
家政婦長は一瞬顔色を変えた。承知いたしました、とアコウに型通りの挨拶をして、彼から立ち去ると、自身のカチューシャに手を掛けた。
はあ、はあ、と息が荒くなったが、他の女中が近くまで来るのを認めると、すぐに襟を正すのだった。
アリスが幽閉されて、10日ほどが経った。
この日々は毎日が同じ流れだった。アコウの決められたとおりに起床し、無味乾燥な食事で腹を満たし、代わり映えのない作業に時間を費やし、疲労感に満ちた体で泥のように眠る。
アリスは、密かに居心地の良さを憶えていた。
(これで、いい。……私は……人形……調律……)
死んだ魚の目で日々を塗りつぶすその姿は、まさしく空虚な操り人形そのものだった。
ところが、事件は、その日の昼に起こった。
自分の部屋を掃除してほしいと、アコウから直々に、アリスと『先輩』へ命令が下った。
「ベランダの軒下を見ておくれ。汚らしいものがあるだろう?」
アコウが指をさしたのは、コップや受け皿のような、泥の塊だった。軒下にせり出す形で設けられている。
「この部屋は僕の物だ。僕以外を入れる気はない。……始末しろ」
『先輩』は台を持ち込んで、アリスに上るよう指示を出した。
(私は……人形……)
命令を受け、アリスは台を上がり、泥の塊の中を覗き込んだ。
そこにいたのは、数羽のひな鳥だった。アリスの気配を感じると、黄色いくちばしを開き、チチチ、と鳴く。
さらに、そこへ来客が訪れた。……親鳥である。
親鳥は、アリスを押しのけるように巣へ飛び込み、捕まえてきた芋虫をついばんで、ひな鳥たちに与えた。
「……始末しなさい。何をしているの」
その光景を見て、動かなくなっていたアリスに痺れを切らし、『先輩』は言った。
「もう、いい。……どきなさい。私がやる」
『先輩』はアリスを台から降ろした。彼女は、その使えない『後輩』の顔を見てギョッとした。
アリスの顔から、ボロボロと涙が流れ出ていたのである。
「ちょっと!……何を泣くことがあるの。淑女に涙は禁物だって、アコウさまが……」
「……なもの」
「何?」
「大切な、もの……」
アリスはそう呟きながら、泣き続けた。
『先輩』はアリスを横目に、その燕の巣を壊すため、台に上った。……すると、アリスが、彼女の腰を押さえつけ、身動きが取れないようにした。
「ちょっと!離しなさい!」
「やめて……お願い……」
「アコウさま!……」
『先輩』がアコウを呼ぶ。彼は仏頂面で現場にやってきた。
「簡単なことじゃないか。2人して、使えないな。今晩の食事を減らしてやる」
「申し訳……ございません……」
「……」
『先輩』は謝罪を告げ、アリスは沈黙する。
大柄だったアコウは、台に上らずに、手を伸ばせば、その巣に届いた。アコウの気配を察して、親鳥たちがけたたましく鳴き始める。
「ああ、うるさいな」
アコウが、持っていた金づちで巣を砕こうとしたその時だった。
アリスが、彼の腕にしがみつき、それを止めようとした。『先輩』は絶句した。それを受け、アコウは無表情でアリスに言った。
「……君、自分が何をしているのか分かっているのか」
「……だめ……」
「離しなさい」
「いやだ……」
「最後の警告だ。……これ以上反抗するようなら、痛い思いをすることになる」
「……」
アリスは無言で抵抗した。『先輩』の胸は激しく鼓動していた。
ふっふっふ、とアコウは不敵に笑い始めた。
「……所詮、人形風情で、力もないくせに……図に乗るな!」
アコウがもう一方の手でアリスを殴りつけようとした、その瞬間だった。
『先輩』の指から炎が噴き出し、あたりを紫色に照らしたのだ。
「……な……」
呆然とするアコウ。そして、『先輩』の目にも涙が浮かんでいた。その眼は黄色く光り、何かの力を発揮していたのだ。
その光る目を見て、アリスの中で何かが一気に蘇ってくる。
(あの目は……見覚えが……!)
『先輩』の目の色は、すぐにもとに戻っていた。その中でも、アリスの記憶の奔流は止まらなかった。
(あの黄色い目は、ヘレーネちゃんと一緒……。そうだ、私には……声が出せる!あの子も、いる……!ヘレーネちゃん!助けて!)
アリスはその場から走って逃げながら、心の中で叫んだ。
「待て!」
アコウは我に返ると、アリスを追い、自身の部屋から飛び出した。
「聞こえた……!」
悲しみに暮れていた酒場の沈黙を破ったのは、そんなヘレーネのつぶやきだった。
「……マジか。まだ、アリスは生きてるってことだな!?」
店主の男が言った。
「うん。……みんな、助けに行くよ!」
酒場には、ヘレーネやロータス、そして元戦士だったという店主の男、ディビー。そして、彼の仲間たちが皆集まっていた。ここを本拠地として、アリスの捜索作戦を練っていたのである。
「で、でも、ヘレーネ。アリスの居場所が『声』で分かったとて、どうやってその場所まで行くのさ……」
「おいおい、ロータス。ヘレーネの力を侮ったらダメだぞ」
ディビーは店を仲間たちに任せ、同志たちを店のバックヤードに集めた。
ヘレーネは店の絨毯を一枚借りて、ヘレーネ、ディビー、ロータス、ディビーの仲間のフレッドをそこに載せた。
「ヘレーネ、この力は久しぶりだが……何とかなるか?」
「ええ。ちょっと思い出しながらだけど……何とかするわ」
ロータスが呟いた。
「……まさか、力っていうのは……」
ディビーはウインクしながら言った。
「そのまさかだぜ」
ヘレーネが両腕を振り上げると、絨毯は一気に宙を舞い、あっという間に高い青空まで登って行った。そして、ヘレーネの操縦の元、猛スピードでアリスの居場所まで向かっていく。
「うおおおおおお!」
ロータスは、興奮にも、驚きにも、恐怖にも似た絶叫を上げていた。
「うひょー!良い眺めだぜ!」
ディビーは愉快そうに叫んだ。
「案外、どうにかなるものね!4人もいるから、大丈夫かなって思ったけれど!」
ヘレーネは頭に着けていたスカーフを押さえながら言った。
「おい、ガキ!……ションベンしたくなっちまったんだけど!」
「フレッドさん、もうちょっと、我慢してください!」
ディビーが血相を変えて言った。
「おい、フレッド!てめえ、漏らして店の家財を汚しやがったら、半年タダ働きだからな!」
「ひ、ひー!何とか、我慢します……!」
(一体、なんなんだ、あの子は……!)
ロータスのそんな疑問は、全身を襲う暴風が吹き飛ばしてしまうようだった。
峠をいくつか超えて、ものの数十分ほどで屋敷のそばまで着いた。
絨毯が地面に着くと同時に、ヘレーネは崩れ落ちた。
「おい、ヘレーネ!」
ディビーが急いで駆け寄り、その力を失った体を支える。
「はあ、はあ、……ちょっと、疲れちゃって……」
「……お前、また無理をしやがって。……帰りは馬車とかだな」
ふと、ヘレーネはか細い声で言った。
「……あれ?……同じだ……」
ディビーが答える。
「何がだよ?」
「皆の、記憶が……」
「記憶?……どういうことだ」
「私の、姉妹かも……」
「……まさか、あの『静寂の紫』の……」
ディビーの問いかけに、ヘレーネはこくりと頷いた。
「……野郎、アリスと同じように、弱った子ばかり狙ってるのか……」
ロータスが口を挟んだ。
「……さっきから、何の話だ?」
ディビーが慌てて答えた。
「ああ、すまない。ちょっと内輪話でな……」
今回の作戦はこうだった。
まず、ヘレーネがここに留まりながらアリスの位置を捉え、ロータスに『伝播』で居場所を伝え続ける。ヘレーネは目立たない場所に陣取り、作戦の中枢を担ったという訳だ。
次に、ディビーとフレッドが盗賊の振りをして、門番を引き付けている間に、ロータスは屋敷に忍び込み、アリスを探す、というものだった。
例のアコウへの面会の取次で、それほど厳重ではないものの警備が敷かれていることが分かったので、今回、2人の協力を仰いだのだ。
1つ懸念だったのは、女中達の対処だった。彼女たちに見つからないよう、ロータスは潜入する必要があり、ヘレーネは彼女たちの気配を感じ取りながら、アリスまで誘導させるという、難しいことをさせる必要があった。
ところが、ヘレーネは『伝播』が、彼女たちにきわめて有効であることに気が付いた。
「あっさり、私の考えが伝えられる……『ロータスさんは味方だ』って声が、届けられる」
「不思議なものだな。……ってかお前、体は大丈夫かよ……」
「……ディビーさん、ありがとう。……お姉ちゃんのためだから、私、頑張るよ」
ヘレーネは弱弱しく笑って答えた。
「……ロータス。お前、絶対にアリスを見つけるんだぞ。……ヘレーネの頑張りを、無駄にするな」
「ああ、ありがとう……もちろんだ」
こうして、作戦が始まった。
アコウはアリスを探しつつ、招かれざる来客の気配があったと、あの目つきの悪い部下から報告を受けた。
文庫本程度の大きさの石板ー相手の顔が写り、遠距離から会話ができるという魔道具だったーを使い、2人は話し合う。
「また、盗賊が出たのだろう。門番を差し向けて追い払え」
「承知しました!連中、中々にすばしっこいようで、苦戦しているようです」
「どんな奴らなのだ」
「2人です。覆面を被り、1人は中肉中背、もう1人は大柄の男。妙に逃げ慣れており、中々屋敷を去ろうとしないそうです」
「なんだ、それは……」
「今から、門番の全戦力を投じます」
「ああ。……さっさと、ものの二人位、始末しないか」
アコウは魔道具を懐に収めた。
全く。こんな時に、他所から誰かが入ってきたりしたら……筒抜けではないか。
こんな時……。筒抜け……。
「しまった!」
アコウは急いで魔道具を手にし、その部下を呼ぶことにした。……が、何かがあったようで応対が出来なかった。
「くそっ!無能めが!」
アコウには嫌な直感が浮かんでいた。それは、盗賊の侵入はあくまで陽動であり、真の目的は別にあるということだった。……そうでなければ、屋敷に留まる理由がないではないか。
そして、その真の目的も何となく感づいた。……まぎれもなく、あの娘の奪還だ。彼女には不思議な力を持つ少女、ヘレーネと、圧倒的な武勇を持つ男、ディビーが付いている。彼らが挑戦に来たのかもしれない。
……僕と、戦うつもりか。
アコウは、不敵にほほ笑み始めた。
「良いだろう。……野良犬が何匹集まろうが、この屋敷には、無数の女中という監視隊がいる。……すぐに捉えて、しかるべき機関へ送り込んでやるぞ。……僕は国の中枢ともコネがあるんだ。敵うものか」
アコウは自室に戻り、双眼鏡のような魔道具を覗き込んだ。これは女中に取り付けられたブローチに映る光景を確認できるものだった。
とある女中の前に、ロータスの姿が映り込んだ。謎の侵入者の発見に、アコウは自身の直感の正しさを噛み締めつつ、その女中に命じた。
「さあ、そいつを捕らえろ!」
しかし、女中は動かなかった。
「……は?」
魔道具が故障したのか。アコウはスペアの双眼鏡を取り出し、同じ要領で女中に命令する。……これも同じ結果で、ロータスの姿を捕らえる者はいなかったのである。
「……ふ、ふざけるな!ダメな商品、寄こしやがって……!」
アコウは双眼鏡を床にたたきつけ、破壊した。
そんな時、誰かの走る音が聞こえた。物陰に素早く隠れ、その足音の主を確認する。
ロータスだった。
彼は迷うことなく、どこかへ向かっている様子だった。そして、こうつぶやいてもいた。
「着いたよ!この階か。……そうか、ここの辺りの近くの部屋っていうと……ドアがないな。迂回してみるよ。……」
まるで、誰かと会話をしているようだ。……なるほど。
アコウは確信していた。奴は、アリスの場所を何となく把握し、詳細をその人間と話しながら詰めているのだ、と。奴を付けていけば、アリスに辿り着くわけだな。
アコウは気配を消しながら、侵入者の後を追った。
「アリス!」
「ロータス!」
屋敷を探し回っていたロータスは、倉庫の奥に隠れているアリスを見つけ出した。
「さあ、一緒に逃げ出すぞ。奴にはバレていない」
「そう思ったかい?」
2人の後ろから、声が聞こえると、アリスの肌が、にわかに泡立ち始めた。ロータスも察しつつ、振り返る。
案の定、アコウだった。
「困るなあ、人の家に勝手に上がり込んで、使用人まで巻き込んでさあ……これだから、無教養な奴らには手を焼くんだよ。そんな基本的なマナーから、教育が必要なのかな?」
「ロータス……た、助けて……!」
アリスの悲痛な声が、ロータスの闘志に火を点けた。
「……俺に任せろ。……指一本、触れさせるものか」
ロータスがアリスをかばう形で立ちふさがる、そんな2人へ、アコウはじりじりと距離を詰めてくる。
「これ以上、近寄るな!ただじゃ、おかないぞ。……この、変態野郎!」
「ふふ、弱い犬ほどよく吼える……か。君がその気なら、仕方がない」
アコウはスーツを脱ぎ捨て、ワイシャツ姿になった。鍛え上げられた肉体から発せられる威圧感に、一瞬、ロータスはたじろいだ。
「さあ、アリス。どちらが君にとってふさわしい男なのか、証明してあげよう。……この男の無様な負けっぷりを目に焼き付けておけ。君に合うのは僕だけなのだから」
「ロータス……!」
「くっ……」
「おや、急に大人しくなったね?……さては、怖いのかな?僕に立ち向かうのが……」
「クソッ!」
ロータスはアコウに、うなり声を上げながら走り込んだ。
(ふん……考えなしの突撃か。つまらない。もう、破れかぶれなんだな)
アコウは驚くほどの身のこなしでそれを躱す。
「ほらほら、もっと考えないと!……あ、無理か。君、頭悪いものね!」
ロータスはアコウに殴りかかるも、その一撃は、彼の太い腕に容易くはじかれてしまった。
その後も、ロータスの攻撃を受け止め、躱し続けるアコウ。
ロータスは息が切れ始めた。
「ハアハア、この野郎……もてあそびやがって……」
「あ、ひょっとして勘違いしてる?……僕が攻められないって。……じゃあ、ちょっとだけ……」
アコウは、ロータスのガードが緩んだ一瞬、パンチをお見舞いした。
「ぐおっ……!」
吹き飛ばされるロータス。
「ロータスっ!!」
倒れこんだロータスに、アリスは駆け寄った。意識はまだあった。
(み、見掛け倒しじゃねえ……強い!)
2人に、アコウが近寄っていく。
「バカ野郎、アリス!下がってろ!」
「ロ、ロータス……!」
アリスはその場を離れ、アコウとロータスが対峙する。アコウは殴る真似をし、ロータスをけん制した。その一挙手一投足に、ロータスは怯えの表情を浮かべ始める。
「アリス、見てごらん!ロータスはもう、怖がってしまって、もう戦いになんかなっていないよ!」
「ち、ちくしょう!」
ロータスはとにかく、体力の続く限りアコウに向かっていった。そして、殴られ返された。何度でも、何度でも。
「おいおい、もうボロボロじゃないか!いい加減、諦めたらどうだい!ここまでの実力差で……」
それでも、ロータスは諦めなかった。もう、何発殴られたのか分からない。全身、あざだらけになっても、ロータスの動きは止まらなかった。
アコウの息も、次第に切れ始め、表情から笑みが消え始める。
(こいつ……本当に、馬鹿なのか?僕に勝てる見込みもないのに、どうして……)
ロータスの頭には、もう、執念しかなかった。
(男は、戦わなきゃならねえ……そして、何かを掴むんだ!……こいつには、絶対に、勝つ……!)
そして、疲労し始めたアコウの一瞬の隙を突いたその時、パンチが鼻っ面に入った。
「ぐっ……」
アコウの鼻から、ポタポタ、と血が流れた。……それがきっかけだった。
「……殺す」
アコウの表情が鬼の形相になり、ロータスの鼻へ、膝蹴りをぶちかましたのだ。ロータスは吹き飛ばされ、壁にたたきつけられた。
「思い知ったか……100年早いんだよ。この雑魚が」
アコウは血の混じった唾を地面に吐きつけた。
「いやああああ!!」
アリスが絶叫しながら、ロータスに駆け寄る、彼が動かなくなったのを認めると、怒りの表情が消え、圧倒的な優越感に心が支配されていた。
「……勝負、ありだね」
絶望に包まれた表情のアリスが、アコウを見据えた。あの白い歯が、ギラリと彼女を照らした。
「さあ、アリス……これで君を邪魔する者はいなくなった。僕は、あらゆる点で、あの男とは比較にならない。強さも、頭も、金も、美貌も。……僕こそが、君にふさわしい男のはずだ。……さあ、こちらへ来なさい。今までの失態は全て許してあげよう。君の望むもの、欲しいものは全て手に入れてあげる。一緒に、女王になろうじゃないか」
アリスは俯いて、アコウに近づいた。
そう、そうだ。所詮、こうやって、強さを見せつければ、君たちはすぐに心が折れる、弱い生き物なんだ。
アリスが手を差し出した。アコウもそれに応えようと、手を伸ばしたその時だった。
アコウの頬に、痺れるような痛みが走った。
「あんたなんか……あんたなんか……!」
アコウは、しばらく、なにが起こったのか分からなかった。怒りと悲しみで、涙をにじませる彼女を見て、頬をはたかれたのだ、とやっと気付いた。
「え……ええ?」
アコウは笑みにも似た声がこみ上げていた。
「アリス……どうしたんだい?強い男が好きなんじゃなかったのかい?……僕は君の夢を、全てかなえられる男なのだよ。初めて会った時のことを思いだして。お互いに、運命の人だって……」
「大嫌い」
「え?」
アコウの声は、はっきりと震えていた。
「あんたなんか……大嫌い!」
アリスはロータスのもとに走り、意識を失った彼の名を呼び続けた。
アコウの中で、何かがガラガラと音を立てて崩れ始めた。
「お、おい。アリス……冗談だろう?考え直してよ……」
アコウは、ロータスを呼びかけ続けるアリスに近づき、その肩に触れた。手を払いのけられ、彼のことはもはや、眼中になかったのである。
(嘘……だろ?)
アコウの手足が、急に冷え始めた。あり得ない。異常事態。理不尽。そんな言葉が、彼の頭をめぐり始めた、その時だった。
「ずいぶんと賑やかだねえ。俺も交ぜてくれよ」
そこに現れたのは、あの元剣士の青年、ディビーだった。傷はおろか、汗もかいておらず、息も上がっていない様子で登場した。アコウは驚きの表情で言った。
「お、お前!ここまで、どうやってきたんだ……!」
「……門番を躱しながら、撒いてきたんだ。……多少、強引な方法もとったがな」
ディビーは銃を持っていた。それは、門番の装備で、即効性の睡眠薬が仕込まれたものだった。この前、アリスを襲った凶弾と同じものだ。
「くすねて使ったが、すげえ造りだな。撃たれても傷も残らず、赤ん坊とかに撃っても平気なんだと。……もう弾切れだが、うちの店でも暴漢対策に導入しようかね?」
「く、くう……!」
悔しがるアコウを余所に、ディビーはアリスに目を向ける。
「アリス!……おい、そこにいるのって……」
「ディビー……さん……」
見慣れた顔を見て、アリスは泣き崩れた。ディビーは傷だらけのロータスの様子を確認した。
「……まだ息はある。助かるぞ。すぐに俺のダチがやって来るから、一緒にここを出て行くんだ」
「で、でも、ディビーさんは……」
「俺は、この男とサシで話したいからな。お前らには、ロータスを頼む」
ディビーはアコウを睨みつけた。一瞬、アコウの魂が震えあがった。
(こいつがディビーか!)
アコウは内心、焦っていたが、表情には滲ませないように努めていた。
ディビーの言葉通り、すぐにフレッドがやってきて、ロータスとアリスを連れて行った。
「……てめえがアコウって野郎だな?……無駄にデカい図体をしやがって。俺のダチをボコったのはお前か」
「……ああ。まあ、あの雑魚どもの相手を、ね。……しつこい奴だった。勝てる筈もないのに、何度も僕に立ち向かうのだから……」
「お前の言ってる強さって何だ?腕力か?」
「まあ、それもあるけれど……やっぱり、金だよ。……金さえあれば、なんでも叶えられるからね」
「俺はそうは思わねえけどな」
アコウは勝ち誇ったように、笑いながら言った。
「それはね、君が大した稼ぎしかないからだよ。僕は現実に、地上の全てを統べられる財力を持っているからな。君たち、苦労して汗水流しながら、僕の1割……いや、1分と稼げないだろう?よくもまあ、そうやって慎ましく生きていられるものだ。人形になるのも、致し方ないね」
ディビーは無表情だった。アコウの言葉に、反論することもなかった。
しばらく経って、ふう、とディビーは息をついて、口を開き始めた。
「あのなあ、お前さあ。一つ聞いていいか。……そんなに金って、強いものなのか?」
「は、は!持たざる奴らの負け惜しみか!僕のビジネスモデルは非常に頑健なんだ。お前らのような低知能どもには理解できまい」
「俺もさ、ほんの2、3年前までは剣士をやってて、それが当たり前に続くって思っていたんだ。それが今じゃどうだ」
ディビーは右手の手袋を外し、アコウに見せる。血の気を失い、やつれ、歪み切ったそれを見て、アコウはかすかに青ざめた。
「驚いたか?ま、右腕一本なくなったところで、俺が最強なのは変わらねえけどな」
「……何が言いたい?」
「別に。目に見えるものは、意外とすぐ壊れるってことさ」
「何を言っているのかさっぱりだな。負け犬の遠吠えか。……そうやって、低い次元を這い回り続けているが良いさ!」
ディビーはため息をついた。
「……さっきフラれてたから、慰めようと思ったんだが、余計なお世話だったか。……一つ忠告だ。なんか、お前って大したことないんじゃね?って、みんな思い始めてるようだ。精々気をつけろよ。ボウズ」
急に、アコウの顔色が変わった。唾を飛ばしながらこう言った。
「なっ……貴様、もう一度言ってみろ!僕は、ありとあらゆる奴らから尊敬されているんだぞ!」
「あっそ。興味ねえわ。じゃあな」
「待て!」
立ち去ろうとするディビーを追い、真っ赤な顔をしたアコウはその左腕を捕まえた。
彼を振り向かせ、胸倉を掴んだ。
「なんだ……喧嘩売ってるのか?買ってやるよ」
ディビーは胸倉を捉えていたアコウの腕を掴み、力を込めた。
(ぐ……ぐあっ!)
あまりの痛みに、アコウが彼から距離を置くと、ディビーは追撃として、掌底で胸を突き飛ばした。
アコウは派手に倒れ込んだ。
「お、おのれ!」
アコウは懐に忍ばせていたナイフを取り出し、その刃先をディビーに向けた。
「おいおい!危ねえなあ。慣れねえことするんじゃねえよ……」
ディビーは困ったようにそう言うと、アコウは叫び声を上げつつ、一歩も動かない彼に突撃した。
(どうだ!僕の勢いで、奴もビビっているな……)
彼の刃が、居酒屋の男の腹を突こうとした、その時だった。
一瞬。……一瞬だけだが、彼は瞳でこう告げていた。
(狩るぞ)
その目には、本物の殺意が込められていた。一種狂気じみたものさえあった。
(うっ!?)
その眼差しに射竦められた刹那、アコウの時が一瞬止まり、彼の手元が乱れた。……その隙を見逃さず、歴戦の戦士は、ナイフが握られていた、彼の右腕を、左手で押さえ込んだ。
(な……!)
驚く隙も与えず、ディビーは彼に組み付くと、そのままナイフを奪ってしまった。
「ひ、ひいっ!」
倒れこんだアコウの、本気の怯えを目にして、戦士の顔はたちまち元通りの、居酒屋の店主のそれに戻った。
「ふん。ドスを使うなら、もっと練習してからにしろよな」
ディビーは持っていたナイフを地面に刺した。
「……ったく、こんな狭い屋敷に籠ってたら、体に悪いぞ?たまには外へ出たら良い。……あばよ」
「兄貴、どうかしましたか?」
フレッドが様子を見に来た。
「ああ、待たせて悪いな。行くか。……戻ったら仕事が待ってるぞ。これから1週間、予約が入りっぱなしだから、気合い入れてけ」
「そうっすね。いやあ、頑張ってかないと……」
2人は部屋を去り始めた。
倒れ込んだアコウは、怒りで体を震わせていた。
(ありえない、ありえない!!この僕が、金も力もない、野良犬どもに負けることなど!!そうだ、奴らには報いがあるはずだ!!この僕の完璧な人生観に背く奴らは、どこかで相応の目に遭うはずなんだから!!母や父も、常々そう言っていたように……)
そんな様子を、家政婦長は物陰から見ていた。
(……無様ね)
ふふっ、と笑い声が漏れてしまったので、慌てて口を塞いだ。あれだけ怖かった雇い主に聞こえてしまったようで、一瞬だけ振り向いた。しかし、その顔は、もはや、虚勢を張る余裕さえ残っていない様子だった。
それを察すると、あはは、と彼女は笑いだした。その声を黙って受けるしかない、その顔には、威厳は何もなく、怯えた表情さえ感じられたのだった。




