第5話:締め殺しの木
日を改めて、リリィの家に行った。
門の守衛に名前を告げると、お手伝いさんたちが応接間に私を通した。
しばらくして、彼女が現れた。その波打つ黒色には、わずかに水色の筋が混じっていた。
「自毛が黒いみたいだから、一度染まりだすと、水色が目立たなくて良いんだよね」
と彼女はうっすら笑いながら言った。
「リリィ、私たちは……不思議な学校に通ってたよね。髪を染めるなっていう所は多いみたいだけど、水色にされるっていうのが……」
「そうだね。……病気も似ているし、何だか本当に双子みたい」
彼女のオリーブ色の目から、金色の光が瞬いた。彼女も私と同じ理由で入院していたらしい。
女学校に居た時も、私たちは一緒にダンスをしていた気がする。本当に朧げな記憶なのだけれど。
「アリス……イメチェンしたの?なんだか、オシャレになったね」
「そう?ちょっと緊張してたんだけど……」
「そのブラウス、似合ってるよ。パンツも……ちょっと立ってもらっていい?あ、凄い良い感じ!足が長いのがよくわかるよ」
家族からも褒められていたけれど、これは何か気を遣ってたんじゃなく、本当だったんだな。とても嬉しくなった。
「で、今日はどうしたの?」
「うん。ちょっと、リリィに相談があってね。……ヘレーネちゃんの事なんだけど」
あの水色一色の髪と、金色の瞳を思い出しながら、その思いついたことを話した。
「なるほど……。プレゼントとしては、丁度いいかもしれないね。街歩きが出来るようになるきっかけにもなるかも。……どういう形で渡すつもり?」
「良いでしょ。確か、お誕生日が近かったはずなんだよね。今が6月だから……再来月かな」
「あ、そうなんだ。さすが、よく一緒にいるだけあるね。……わかった。今度、一緒に買いに行こう」
「良かった。よろしくね。……私、良い人が現れるかな」
「アリスなら、きっと大丈夫よ。何か動いているの?」
「……一応、プロに相談はしてる」
「私、あまり知らないけど、パーティっていうのもあるみたいね」
「弟に勧められて、この前行ったんだよ。その時は、全然ダメだった。服装のせいかな……」
アイビーさんと買い物に行ってから、改めてクローゼットを眺めた時、確かに異様なことになっているな、と気付かされた。街でも紫色の服を着ている人はあまりいないので、全身そうだとなれば確かに「攻めている」と思った。
「今の服装はちょっとラフ目だけど、もう少し上品な感じにすればきっと上手く行くわ。……いくつか、私のお洋服を貸そうか?」
「良いの!?……ありがとう。……私、頑張って来るよ」
あの子の喜ぶ顔と、パーティでの私の明るい未来を描きつつ、リリィとのおしゃべりを続けたのだった。
夜のパーティに再び足を運んで、本当に良かったと思った。
まず、皆の反応が全然違っていた。
その日、着ていったのは、リリィから借りた、真っ白なドレスと、真っ赤なハイヒール。
肩のあたりが出るタイプの服だったから、最初はドキドキしたけれど、男の人が釘付けになっていたので、胸を張っておしゃべりを楽しんだ。
気が付けば、私は、たくさんの男の人に囲まれていた。何だか、女王バチの気分だった。
「連絡先、交換しませんか……!」
「好きなものは何ですか……!」
「今度、おすすめのお店行きませんか……!」
あっという間の時間を過ごして、帰り道に弟からも感心されてしまった。女性の夜道、1人だと危ないので、付き添いだ。
「すげえよ、姉ちゃん。やっぱり美人だったから、服を変えればよかったんだね」
「うん。自分でもびっくりしたよ。……はあ、疲れた」
「あんなに注目されること、なかったんじゃないの」
「うん。……ここまで、アプローチされるなんて初めて」
「選び放題だよね、羨ましいなあ」
「何となく、だけど……絞ってお付き合いしたいかな」
「あ、そう?並行して会ってみて、そこから決めても良いと思うけど……」
「……何だか、浮気しているみたいじゃない。そもそも、複数人と会うなんて、器用なこと出来ないわ」
私は、連絡先が書かれたメモを取り出した。今日の男性たちが渡してきたもので、14,5枚はもらうことが出来たが、そのうちの1枚を取り出した。
(……このアコウさんって方が、凄く印象良かったな)
彼とは、来週また会う約束を直接交わしていた。帰るなり、さっそくお礼のお手紙を出すことにした。
次の週末に、アコウさんと再会した。
約束したのは、家族でも行ったことがないような、高級レストランだった。
「僕のおすすめなんです。……素敵な貴女にピッタリだと思って。ぜひ、ご一緒しませんか」
あのパーティの夜、私の手を握りながら、アコウさんは言った。
触れられたその瞬間、何だかゾクっとしたけれど、これが、いわゆる赤い糸なのかもしれないなって思っていた。
お店の前、アコウさんがいた。
この前の服装は、白色のタキシードだったけれど、今日は赤い色のスーツだった。
彼は、背が高く、体格が立派だった。顔はどちらかというと「濃い系」で、太めの眉毛と、あご髭が凛々しい男性だった。
年上だったけれど、ここまでの貫禄で、私と3つしか違わないというのだから驚いた。
「アリスさん!」
あの白い歯を見せて、彼は微笑んできた。私もそれに応えると、彼は言った。
「いやあ、素敵な笑顔ですね。今日のお召し物もお似合いですよ」
今日もリリィから服を借りていた。来ていたのは薄い緑色のワンピースだった。
いきなり褒められたので、何だか嬉しくなってしまった。
「ささ、どうぞお店へ……今日は個室で予約を取ってますから、ゆっくり会話できます」
「え?」
いきなり個室?って思ったけれど、まあ、そんなものか。
部屋に入ると、彼は私の椅子を引いて座らせ、荷物を店員を呼んで預けさせた。
「随分と……慣れていらっしゃいますね」
「僕はね、騎士を目指しているのです。……それくらいのことは当然ですよ」
「は、はあ……」
「緊張しておられますかね?……では、何か召し上がりますか」
彼はメニューを差し出してきた。ワインのリストだった。
「あ、すみません。お酒は、ちょっと……」
彼は大げさなくらい、驚いた表情を浮かべていた。
「なぜ?」
「あ、あの……家系的に弱いんです」
実際にはそんなことはない。私は、病気の件で投薬を続けていたので、お酒は控えるよう、先生から言われていたのが真相だ。
「まあ、飲んだところで『悪酔い』するだけかもしれないけれど。……気持ちの面で、浮き沈みが激しいのも毒だからね。もう18歳なら、この国では合法だから、興味が出てしまうこともあるだろう。もし飲むならば、一口でほどほどに……」
そんな言い方だったので、まったく飲めないということではなさそうだったけれど。
アコウさんは、グイとメニューを差し出してきた。
「では一口だけでも、いかがですか?……緊張がほぐれて、きっと会話が楽しくなるはずですから」
見せられたワインは、とても高級なものばかりだった。
「こ、こんな高いもの……!」
「……大丈夫ですよ。今日は出しますから」
「そ、そんな!」
「ふふ……僕の仕事を忘れたのですか?」
彼は大地主だと話していたのを思い出した。街でいくつか店や住まい貸しをやっているのと、田舎にも土地があり、農家の人を沢山働かせているらしい。
家族が飲んでいるワインが、いくらくらいなのかは知らないけれど、多分桁が2つくらいは違っている。この機会を逃したら、もう、飲めないものもあると思った。
そうね。一口位だったら……。
3番目に高い、白のワインを指さしそうになったその時。
待ちなさい。なにが起こるかはわからないじゃない。それに、彼にも負担をかけてしまう……。
そんな心の叫びが聞こえて、私は言った。
「ご、ごめんなさい……やっぱり、ジュースなどに……」
一瞬だけ、アコウさんの目が変わり、私を刺すように見つめていた。
(え?)
そう思うもつかの間、またあの穏やかな表情を浮かべ、白い歯を見せて笑っていた。
「……わかりました。では、今日は僕だけで失礼しますね」
彼はリストの中で、中間位の値段の赤ワインを頼んでいた。
「お水も持ってきます」
「あ、あの、本当にお構いなく……」
私がそう言うのも無視して、彼は部屋を出て、コップに水を注いできた。
「こういうのって、お店の方に言えばいいのではないでしょうか……?」
「ああ、そうですね……早くしないとって思って、うっかりしていました」
彼はおどけたように笑うと、私も思わず誘われてしまった。
フルコースが始まった。オードブルが出て、スープから、キャビアを使った魚料理、子牛のステーキ。まさに絶品だった。
「良いですか。フルコースにはコツがあるのです。お料理を楽しむたびに、お水やお酒に口を付ける。すると味覚が研ぎ澄まされますから」
「なるほど……だからお酒を勧められたの?」
「ええ……これが醍醐味なんです。またの機会に楽しんでいただければ」
私は、言われるがまま、水に口を付けた。一瞬苦みがしたけど、すぐに柑橘系の、レモンみたいな味がした。
「何だか、ちょっと苦い、レモンの味がします」
「……ここのお店は、香りを付けているのですね」
ちらっとアコウさんを見た時、彼のワインはあまり減ってないな、って思った。
料理を食べ進めるうちに、何だか私は、ふわふわした気分になってきた。あまりの美味しさと、アコウさんとのおしゃべりで、心が溶けてしまったのかもしれなかった。
「何だか……ゆめごこち、です」
ふわああ、と私は豪快にあくびをしてしまった。慌てて、口を隠した。
アコウさんは、そんな私を見て笑っていた。
「ああ、連れてきてよかった……」
「ほんとう……ですか……?」
「ええ。こうやって、貴女のような淑女を愉しませるため、僕は頑張ってきたのだから……」
そう言って、彼は生い立ちを話し始めた。
彼の家は、大変厳格な環境だったらしい。代々地主だった、父親と母親から、帝王学というべき厳しい教育を受け、灰色の青春を過ごした、と彼は言った。
「僕は……飢えていたんです。人のぬくもりに……もはや金や権力は、いくらでも手に入る身ですが、まだまだ手にしていないものがある。それが人との愛です。……そんな僕を、満たしていただけるであろう女性を、探していた時……貴女に出会った」
彼はしっかりと私を見据え、がっしりと手を握ってきた。彼の熱い手の体温が、伝わってくる。
「……実は、わたしも……」
ぽつりと私は話し始めていた。
「わたしも、きびしい学校でそだったおぼえがあって……。男のひとに恋をするというのが、よくわかってないの。女の子だけのかんきょうだったから」
「素晴らしい。それこそ僕が求めていた淑女ですよ」
「わたし……じしんがないの」
「何故?そこまでお綺麗なのに……」
「みんなが……こどもあつかいするから。……かくしごとを、されているの」
「どういうことです?」
私はあの水を飲み干して、言った。
「学校で何をやってたか……それを、だれもおしえてくれない。お母さんも、お父さんも、弟も、あの子も……。かみをみず色にそめて、むらさき色の服を着て、ひたすら勉強していたの。変な学校でしょう?なのに、くわしいことはだれもおしえてくれない」
その時、アコウさんの目が鈍く光った気がするが、当時の私は気が付かなかった。いや見てはいたけれど、それが頭に入っていなかったのだ。
そんな話をしているうちに、段々と怒りが込み上げてきた。
「みんなが……わたしを……バカにしてる……」
その時だった。
アコウさんが、私をガバと抱きしめたのだった。
「わかる。わかるよ、貴女の気持ちが。……ずっと一人だったんだね。……でも大丈夫。僕は貴女と同じ思いを抱えていた。きっと、貴女の家族や、『あの子』よりも、力になれるはず。どうか安心してほしい」
ボロり、と涙が出た。
彼の胸元で、私は、静かに泣き、あの赤いスーツを濡らしていたのだった。
帰り道、私は彼と馬車に乗り、家の近くまで送ってくれた。
「では、また会いましょう。……僕は貴女を、絶対に幸せにしますから」
手の甲に口づけを落とされ、彼は馬車で去って行った。
ここまでするかな……って思った。ちょっと、お酒臭いから、手を洗わなきゃ……。
あれ?
そういえば、今になって、溶けていた心はすっかり元通りになっている。
さっきまでの気持ちの高ぶりは、一体何だったの……?
あんなに泣いて、びしょびしょだったのに、彼のスーツは嘘のように綺麗だったな。
家の軒下に、クモが巣を張っている。一匹のアゲハチョウが引っかかって、食べられそうになっていた。
ああ、可哀そうだな。
そう思ったので、私はチョウを巣から外し、飛び立たせようとした。足に糸が絡みつき、這いまわるのにも苦労していそうだった。
その時、私の心に何かこみ上げるものがあった。
(大切な……もの……)
……ちょっと、疲れているのかな。そう思った私は、いつもの家に帰ったのだった。
アコウさんのことを周囲に話すと、意外な反応が返ってきた。
一言でいえば、皆あまり、嬉しそうじゃなかった。
特に、お母さんは血相を変えていた。
「なんだか、その人、危ない気がする」
私はすぐさま言い返した。
「どうして?エスコートもばっちりだし、私のお話にも付き合ってくれて……お金とか、そういうのも問題なさそうだよ?」
「ちょっと、強引な気がするわ。……初対面で、距離が近すぎる」
「私に『ゾッコン』だっただけよ」
「あなたの体も考えず、お酒を勧めただなんて……あなたも言ってやってください」
お父さんも、難しい顔をして私に言ってきた。
「……お母さんの言うとおりだな。アリス、こういう時の、大人の勘は当たるんだよ。……まあ、どうしてもというなら……」
「あなた!」
「……この子ももうすぐ大人だから、自分で選びたいっていう、気持ちは分かるんだよ……」
遂に2人は言い合いになってしまった。
私は、唇を噛み締めながら言った。
「……誰を好きになっても、良いじゃない」
娘の初めての彼氏。どうして、応援してくれないのだろう。
「とにかく、その人には気を付けなさい」
お母さんは何度もそうやって言ってきた。私を何だと思っているの。いつまで、子供扱いするの?
弟も、大体同じような反応だった。
「いきなり個室って、やべえって!女の子の気持ち考えてないじゃん」
「確かに、ちょっとドキッとしたけど……彼も気を遣ってくれたから」
「なんていうのかな。それだけだったらただ距離感近いだけだけど、その後だよ!勢いでハグとか、手の甲にキスとか……重ねていくとさ、普通に引く。……姉ちゃんは分かってないんだよ。恋愛慣れしてないから……」
話にならない。あの子にも打ち明けた。
「お姉ちゃん、何だか、声が濁ってる……」
私は、あの黄色いブラウスを床にたたきつけて泣き叫んだ。
「皆みんな、何なのよ……!私を、バカにして!」
ただただ、悔しかった。色々な点で、同じ目線に立って、話が出来ないことが。
そんな時、彼から手紙が届いた。
「来週は馬車で観光をしましょう。おすすめの名所を沢山巡りたいです」
私の視界が、一気に開けていくようだった。
ああ、アコウさん。
彼は私を分かってくれる存在。その大きな体に、私は身を委ねたくなる。
次に会う時は、どんな服を着ていこう。彼の好みに合わせようかな。
(私の色なんて……)
そう喉元まで言いかけて、止めた。
アコウさんに指定されたのは、私の家から歩いて10分くらいの馬車宿だった。
彼が馬車から出てきた。また、あの白い歯を見せて笑っている。
今日の服は、黒色のスーツだった。
「今日は白いブラウスですか……お似合いですよ」
彼に手を取られて、私は馬車に乗り込む。
「目一杯飛ばすんだ。色々と回るところがあるからな」
アコウさんがそうやって御者に告げると、ものすごい勢いで街を、山を駆けていく。
体が激しく揺さぶられて、とても怖かった。
「止まって!……」
「はは、大丈夫ですよ!この御者はね、ベテランなんですから!」
私が助けを求めるように叫ぶと、御者のおじさんは振り返って言った。
「お嬢さんのいう通りですぜ!そこまで急ぐ必要、ありゃせんじゃねえですか」
「これで良いんだ。僕は、無駄が嫌いなんだよ」
「で、ですが……」
「つべこべ言うな!」
一瞬、あたりの空気が冷え込んだ。決して大きな声ではなかったけれど、彼の一喝は、確かに、2人から熱を奪いとる存在感があったのだ。
「……立場を弁えろ。何も考えず、さっさと行け。早く着いたら、チップをやるから」
アコウさんが札束をチラつかせると、おじさんはもう、振り返らなかった。
最初に辿り着いたのは、とある渓谷だった。
「ここが絶景なんですよ。吊り橋から見える渓流がね、中々見晴らしが良くて……」
馬車を降りた時、激しい振動で、しばらく足元がふわふわしていた。
「ああ、大丈夫ですか?……支えましょう」
私は、彼に手を引かれるがまま、その絶景とやらに案内された。彼の手つきに、荒々しいものは何もない。不気味なほどに柔らかく、温かい感触だった。
(離して……)
そう訴えたかったけれど、御者をどやすときの、あの声を思い出すと、喉が縮こまるようで、何も言えなかった。
それどころか、彼から漂う香水の爽やかな匂いに、私は酔わされそうになっていき、足元がさらにふらついた。
思わず私は、彼の腕にしがみついた。
「ふふ……お近づきになりますか」
違う。近寄りたいんじゃなくて、そうしないと、倒れてしまうから……。
そんな反論も出来ない自分が、怖かった。
彼と吊り橋を渡る。底の渓流までは、中々の高さがあって、恐らく落ちたらただではすまないだろう。
「しっかり、捕まってて。万が一があったら、大変ですから……」
奈落から吹き込む風と、揺れる橋の上、彼のがっしりした腕の重さは、私の唯一の碇のように思えた。
吊り橋を降りて、彼から手を離した後も、動悸が止まらない。一方の彼はズンズンと歩み、馬車に乗り込もうとする。
「じゃあ、次は、食事でも……」
「あ、あの……」
「なんでしょうか?」
「そ、その、ちょっと、早いって言うか……」
「よくわからない。ちゃんと話してください」
「も、もう少し、ゆっくり観光したいです」
彼の笑顔が崩れ、驚くほどの無表情になった。
「……僕は、今日のために分刻みで計画を立ててきたんです。それは、紛れもなくアリスさんのため。一緒に色々な経験をして、相互理解をしていく。そんな意図があるんですよ。それを踏まえて、アリスさんはそう仰るのですか?」
「い、いえ。そんな難しいことじゃなく……」
アコウさんは続けた。
「僕はね、貴女には想像できないでしょうが、大変多忙なのですよ。店を持ち、家を持ち、農民たちを働かせ……。時間が、本当に足りないんだ。そんな中で貴女を知ろうと思うなら、こうやって、無駄を省いていく他ない。理解できますかね?そうでなければ、わかるまでお話ししますよ?」
「そ、そうじゃなくて……」
「アリスさん」
彼は両手で私の肩を掴んだ。
「どうか、理解してください。……僕は不器用だから、時々、急いてしまうことがあるようだ。仮に貴女の気持ちが追いついていなくとも、僕の真心だけは本当なのですよ。それをわかって欲しい。僕の瞳を、見て。ほら、貴女しか映っていないだろう……」
私の心が、『彼』に塗りつぶされていく。やっとの思いで、次のように言った。
「……ごめんなさい。……あなたに、合わせます……」
彼はあの笑顔を取り戻した。
「分かっていただけましたか」
私はまた、馬車に乗り込んだ。
御者はうんざりしたように私たちを見ていたが、彼と目が合うと、怯えるように背を向けた。
予約を取っているというレストランまでは、また風のように飛ばしていった。
気分が悪くなり、私は馬車の中で伏せてしまった。レストランに着いた頃には、もう、世界の全てが回っているような感覚に襲われていた。
彼に手を取られて、足を下ろしたその時だった。
「っ……」
お腹の底から、苦いものが込み上げて、私は茂みに駆け込んで行った。何度か、重く咳き込んだ。……何も、出なかった。服を汚さなくて良かったけれど、吐き気は治らない。
その時、私の背に温かいものがふれた。彼の手だった。
「ごめんね……ごめんね……」
そう囁きながら、彼は私の背中を撫でている。
(ああ、気持ち良い……)
そう思って、身震いしたけれど、彼がもたらす快楽に、私は心を預ける他なかった。
奇妙にも、どこか懐かしい感覚だった。
結局、食事は取れなかったので、私たちはレストランの前で、馬車を止めて過ごしていた。
私は席に伏せ、彼に背を撫でられながら、込み上げる吐き気と眩暈と戦っていた。彼の手が触れる瞬間だけ、止まりそうな呼吸が通る気がした。
ふと、彼が手を止めて、馬車を出ようとした。
(あ……)
急に息が苦しくなる。
「アコウさん……」
彼はその空虚な目で振り返った。
「お願い、行かないで……私を、助けて……」
「……腹が減ってきたんだ。店で食べてくるから、待っていなさい」
「いや……」
ふっ、と彼は口元に笑みを浮かべて、私のもとにやってきて、そのまま背をさすり続けた。
「……おい、何か食べ物を買って来い。僕の分だけで良い」
彼は御者に向かって言った。
「旦那……今日はお嬢さんを帰した方が」
「生意気だぞ。2度も、僕を怒らせるな……!」
おじさんは札束を受け取ると、逃げるように何処かに行ってしまった。
「……やっと、2人になれたね」
彼は優しく囁いた。
おじさんがフランスパンを買ってきたので、彼はそれを頬張りつつ、私の背を撫で続けた。
彼のおかげなのか、じっとしていたためかわからないけれど、日が少し傾いてきた頃には、だいぶ体調は良くなっていた。
「……今日は、本当に悪かったね。お詫びに、何か買って帰りますか?」
馬車はゆっくりと街に向かって、連れてこられたのは、高そうな服屋だった。
「好きなものを選んでください。……貴女には、もっと素敵になって欲しいから」
私はトボトボと店に入り、ボーッとした頭で、いくつか服を眺めた。
そして、ある帽子と服がピンときて、彼に差し出した。
「……随分と、変わったセンスですね」
私は我に帰り、ゾッとした。
紫色の幅広の帽子と、やはりラベンダー色のドレスを手に取っていたのだ。
「僕が選んであげよう。こう見えても、ファッションセンスには自信があるので」
彼は真っ黒なワンピースを手に取り、私に渡してきた。
「大人らしい貴女に、ピッタリかと思いまして。僕の求める、淑女にふさわしい色です」
「あ……」
鏡に映ったのは、彼のスーツと、まったく同じ色の私。白いブラウスを纏っていたあの姿は、跡形もなく消えていた。
そうだ。そうだった。私の色なんて、この世に……。
「いら……ない……」
「え?」
「いや。……これに、します」
そう呟くと、彼は満足気に私を眺めていたのだった。
家族やあの子には、アコウさんのことは話せなかった。
あれだけ反発した手前、彼のことを話して、またいろいろ言われてしまうのが、怖かった。
ただ、話を聞いてほしいだけなのに。彼が「良い人」なのか、背中を押してほしいだけなのに。
……そうだ。あの人だったらわかってくれるかな。
「アリスちゃん、なんか痩せた?……悩みでもあるんか?」
アイビーさんの家に行くと、いきなりそんなことを言われたので、びっくりした。何も言っていないのに。
「なら、ええけど……せや、良い男の子が紹介できそうやねん。一度、会うてみいひんか?」
ロータスという名前の男の人だった。
「華のハタチの、大工さんや。お金はぼちぼちやけど、ちゃんと仕事しとって、真面目そうなええ子や。しかも、結構シュッとしとる。目力があって、一目見て息をのんでもうた。……あんなにドキッとしたんは、30年ぶりとちゃうかなあ」
「……あの、アイビーさん。友達の話なんですけど……」
私は、アコウさんのことを話した。友達が付き合っている、という設定で。
アイビーさんは、最初嬉しそうだったけれど、デートの内容については、無表情で、黙って私の話を聞いていた。途中で遮ることも、否定も、肯定も何もなく、ただただ頷いているだけだった。
話が一通り終わると、アイビーさんは、懐から煙草を点け、ふーっと煙を吐いた。
怖かった。
こんな反応になるとは思わなくて。子供扱いされてないって、こういうことかもなって思って。
何度か煙を吐いた後、灰皿に煙草を押し付けて、アイビーさんは重々しく言った。
「……率直に言ったる。あのな、旦那選びを間違うと、地獄を見るで」
ゴクリ、と私は唾を飲んだ。
「肝心なんは……その時、アリスちゃん、もとい。その子が自然体で居られたかっちゅうこっちゃ」
「自然体……?」
「せや。夫婦は、ずっと一緒にいるさかい、気持ちがあまりに乱高下するようやと、どうやろう?……まあ、へばってまうわな。そうならへん相手を選ばなあかん」
気持ちが浮き沈みする、か。アコウさんとやり取りする中で、何度ドキドキさせられただろうか。
「……そういう意味だと、結構ハラハラしていたみたいです」
「せやろ。別に、その男があかんとは言わへんで?一度は、その子が良いなと思ったんやから。……ただ、旦那向きの男やないな。それだけは確かや。……まあ、その子がどうしたいかやな。恋愛を求めるならその男。旦那候補なら……ロータスくんみたいな子やな」
「あの、どちらがその子にあってそうでしょうか……」
ぴしゃりと言い返された。
「それはあんたで考えるんや。女の子が女性になるって、そういうことやで」
アイビーさんは私を指さして言った。心の奥の奥を、ぐさりと突き刺された気分だった。私は俯いてしまった。
肩を叩かれ、彼女の顔を恐る恐る見る。意外なほど、穏やかに、微笑んだ顔で、こう言った。
「……突き放したりはせえへん。アリスちゃんは、私の、大事な、『娘』やから……。ただ、巣立ちっていうのがあるからな。それを応援したいだけや。……困ったことがあったら、いつでも頼りや。必ず、助けに来るから」
「助けに……?」
「せや。あんたは、自分が思てるより、愛されてるんやで。もっと周りに目を配ったほうがええな」
その眼は、深い慈しみが込められていた。
「アイビーさん……ありがとう、ございます」
「で、どうする?ロータスくんのことは……」
「……一度、会ってみたいです」
「よっしゃ。むこうにも言うとくな」
そんなに、ロータスさんとアコウさんは違うのだろうか。アコウさんのあの温かさと、ふとした時に聞こえる、優しい声は、全てまやかしだというの。それにしても、浮気しているみたいで、ちょっと嫌だな。
でも……。せっかく女学校を出て、広い世界で生きていけるんだ。
私はもっと、羽ばたきたい。
そんな思いを抱えて、彼との約束を待つことにした。




