第2話:疾風に勁草を知る
そんな、という思いと、やっぱり、という安堵にも似た感情が同時に襲いかかったその日、しばらくの間、俺の心を燻らせ続けるだろうと感じた。
休日の出勤だった。
担当している屋敷の工事の納期が、カツカツだと言うので、俺は現場に出ることにした。
世間が休みの時に働くのは、決して苦ではなかった。給料は多めに出るし、替わりの休日も保証されるからだ。今までの俺だったら、特に疑問も覚えずに、親方の相談に乗っていただろうと思う。
でも、この日は違った。
パンジーにしばらく会えていないのだ。
喫茶店のデートの後、美術館巡りに行った。店主が言っていたように、やはり彼女は俺の懐を気にしているので、子供の頃からの収入の伸びをアピールした。
その後、レストランで食事をとりながら、こんな会話をしていた。
「もの凄く……努力されているのですね。大工さんは何年くらい続けていらっしゃるの」
「10歳からなので、きっかり10年ですね。……収入は5割くらいは増えてるし、あと5年もすれば親方も見えてくるんで、そうなったら嫁さんや子供には食わせられます。……俺自身は、色々節約しますから」
「……なるほど。貴方は、それで良いの?」
「ええ。覚悟はしています」
「ご自身の愉しみも大切にしたくなくって?お怪我をしたらどうなるの?」
「金がかからない趣味を見つけますよ。……親方になれば、工程の管理や後輩の育成が主だから、怪我をするリスクは減ります」
「そう。……生きていくのって、本当に、大変ですよね。……ところで、今日も同じお洋服をお召しなのですね」
「ああ、はい。気に入っているので……」
そう言えば、今日は、白いブラウスを着ているなと今気づいた。彼女はコーヒーをスプーンで掻き混ぜながら言った。
「せっかく良いお顔をしていらっしゃるから、他の服も見てみたいわ」
服の金を削って、食事代を出そうと思ったのだが。
この日、料理で何が出ていたのかは覚えていない。頭に残っているのは、彼女の哀れみにも似た表情と、抑揚を欠いた声色だけだった。
レストランを出るとき、俺は食事代を全部出そうとしたが、彼女は言った。
「割り勘にしませんか?」
気を遣ってくれてありがたいと思った一方で、服のこともあり、俺はその提案を断ろうとした。
「良いから!……もう、ご無理は、やめて」
彼女は俺を押し除けるように会計に立ち、俺から半額を受け取った。何かをへし折られた気分だった。
帰り道の会話は弾まなかった。会う約束も一応したが、3週間も先になりそうだ。
「さっきは、ごめんなさい。……あそこは、奢っていただいた方が良かったかもしれませんね」
「……まあ、そうですね」
「貴方は良い方だから、お付き合いしていて楽しいのは本当よ。……力強い目が、かっこいいです」
「俺も……パンジーさんには、お気遣い色々いただいて、感謝してますよ」
パンジーは微笑みながら、別れを告げた。夕日に彼女の姿は吸い込まれていった。
こんな状況だったので、また会える日に仕事が入る、となって俺は焦った。少なくとも、用意していた誕生日プレゼントは渡したかったのだが、機会を逃してしまうのはマズイと思った。
当日は、仕事が終わる夜ならば会えると、彼女に手紙を出した。滞りがちだった返事には、ご無理をせず、また日を改めましょうとあった。
親方の頼みを断りきれず、同時に金の重みが骨身に染みていた俺は、現場に出ることにした。
しばらく時が止まったのは、まさにその仕事中だった。
現場の隣にカフェがあったのだが、そこでパンジーと、俺より身なりのいい、同世代の男が入ってくるのを見た。俺は穴掘りの最中だったが、持っていたシャベルの手を止めてしまった。
やがて2人は、2階のテラス席にやってきた。会話が聞こえてくる。
俺は2人に背を向け、耳をそば立てていた。
「……お誕生日、おめでとう」
「ありがとう。……高かったんじゃないの?これ……」
思わず盗み見ると、それは、俺さえも知っている有名なブランドのネックレスだった。俺が渡そうとしていたのは、一緒に描こうと約束し、その日に備えていた絵具のセットだ。それだって、俺からすれば中々の負担だったが、あのネックレスを買うとなると、一体何年働く必要があるだろうか。
男はさらりと言った。
「大丈夫。この日のために貯金してきたから、全然余裕だよ」
ハハ、と思わず乾いた笑いがこぼれた。
でも、まだ、可能性を信じていた。奴は彼女の弟や友人ではなかろうか、と。そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
「私、決めました。貴方と今後の人生を進んでいくって……」
「僕もだよ。君ほど、真摯に人生を考えて、僕を見つめてくれる女はいないと感じている……。ぜひ、付き合ってほしい」
「はい。もちろんです。ありがとう……」
あまりに手が動いていないので、親方に怒鳴られたらしいが、俺にはそんな声も届いていなかった。
「……それにしても、私、悪い女だと思う」
「どうして?」
「前から話していたけれど、もう1人素敵な人がいたの。お金はなかったけれど、すごく直向きで、目が綺麗な人……。あの人に守られても良いなって思っていた。何だか、父に似ていたの。ボロボロになりながらも、私をリードしようとするところが……」
「……そうだね。あくまでその人は友達だってことだよね」
「うん。気を持たせちゃってたら申し訳ないな」
「……君は悪くないよ。少しでも良いなと思う男に向かっていくのは、女性の心理だからね」
「一応、お別れの気持ちで、お手紙書いてあるんだけどね」
「素晴らしい。無言でフェードアウトするよりもよっぽど後腐れないよ」
「……他の友達から聞いたんだけど、こういう時って、男の人は追ってきたりするのかな。もし、そうなったら嫌だな」
そんなつもりはないと訴えたい。けれどそれさえ、今の俺には封じられているのだろうと悟った。
「そうなったら僕に言いなさい。守ってあげるから」
「うん……ありがとう」
親方についに殴られたので、俺は仕事に戻った。
その後、全く集中できなかったので、あの怒鳴ってばかりの先輩たちから心配さえされた。
うちに帰ると、パンジーが言っていたように、手紙が届いていた。所々、文字のインクが滲んでいた。
ロータスさま
お世話になっています。
結論からで恐縮なのですが、今日からお付き合いを控えようと思い、お手紙を書きました。
気になる人ができたので、その方へ集中したいと思っているのです。
あなたと出会って、短い間でしたけれど、お世話になったことは色々ありました。
カフェでお金を出してくれたこと。
美術館で私の知らない画家の紹介をしてくれたこと。
お付き合いの当初から、ご自身に不利なことを正直に語っていただいたこと。
皆感謝しています。
あなたの強い意志と真面目さ、将来性は、必ず、より良いご縁に繋がると信じています。現状はお辛い状況かもしれませんが、ぜひとも気を落とさないでいただきたいです。
最後に、このようなお別れとなり、最初のデートで遅刻までして、本当にごめんなさい。
今まで、本当にありがとう。さようなら。
P
ああ、彼女は全部わかっていたのだ。
俺の強みも、弱みも、抱えているものも。全てを手に取られていた。
部屋の中、俺は何か蠢くものを見つけた。
一匹の大きなクモが、ゴキブリを貪っていた。
親父の言葉を思い出す。
ああ、そうか。そういうことか。
俺は手紙を鍵のついた抽斗にしまい、ドロドロした思いに、無理やり火をつけたのだった。
次の日は休みの予定だったが、あえて仕事を入れた。
それはそれで、親方からは叱られてしまった。「監督不行き届き」になってしまうからだそうだ。明日は絶対に休むという条件付きで、俺は現場に出ることを許された。
でも、こんな気分で、家にいるなんて、たまったものじゃない。心に点いた火に、体を内側から焼かれてしまうんじゃないかって気がしたんだ。
アザミが現場に現れる。
「おはようございます、ロータスさん……」
「ああ」
「俺は休みでしたけど、昨日は大変でしたね。……ってか、体力すごいですね」
「俺は、何も掴んじゃいないんでね」
「え、どういうことですか」
「……うるせえ。お前に関係ないだろ」
「ロータスさん……?」
俺は奴の不思議そうな目から、顔を背けた。
仕事中に、段取りについて質問があった。一度教えた覚えがある内容だった。
「おい、一度やり方言ったじゃねえか。何度も構っていられるほど、俺も暇じゃない」
「ロータスさん、そこを何とか……」
しょうがねえ、教えてやるよ。って、一昨日までだったら言ってただろうな。
「……俺の手つきや、他の先輩たちのやり方を盗むか、何とか思い出すか。……自分でどうにかしろ」
「そ、そんな……」
「職人っていうのは、そんなもんだ。……みんな、必死なんだよ。技術は俺たちの糧だ。それを守るため、もがいてるって訳さ。お前も早く、悟ったほうが良い」
アザミは持っていた工具を地面に落とし、背中を丸めて後ろを向き、顔を手で覆った。
俄かに、あのゴキブリが思い出された。その姿勢は、こう語っているように見えた。
(俺はもう、降参です。だから、痛くしないでください)
お前のその腕は、俺に語った決意は、何のためにある?誰かを守る為じゃないのか。独り立ちをしたいのではなかったのか。
どうして、自ら捨ててしまうのか。
腹の底から、沸騰するような想いが湧き上がってきた。
……落ち着け。あいつはナイーブなんだ。ここでかけるべき言葉は、こうだろう。
(気を落とすな。一緒に頑張ろうぜ)
俺はその縮んだ背中に歩み寄り、声を出した。
「泣くんじゃねえッ!!」
俺の怒号が現場に響き渡り、先輩たちや親方の視線が、一斉に突き刺さる。
内心、困惑していた。違う。かける言葉も、言い方も、間違っているじゃないか。でも、止められなかった。
驚いた表情で振り返ったアザミの胸倉を、がしりと掴んだ。
「……良いか。惨めったらしく、背中を丸めるのはやめろ。その背中を、取って食おうとする奴らが大勢いるんだ。……泣いているヒマなんか、俺たちにはない。一秒でも早く、技を磨け。そして自分の身を守れ」
手を離すと、アザミは呆然とした顔で、地面に座り込んだ。
その後、アザミの目を俺は見ることが出来なかった。でも、いつもより背筋が伸びてるかもな、って気がしていた。
その日の夜、またあの店に足を運んだ。
カウンターに店主と、虎柄の服を着た、けばけばしい中年の女性がいた。
店主は挨拶をした後に、言った。
「今日は仕事帰りか?」
「ああ……色々あったんだ。濃いめにしてくれるか」
店主は、俺の顔をまじまじと見て言った。
「別に良いけど……飲みすぎるなよ」
ウォッカを注がれてカクテルが出来上がる。俺はそれに口を付けた。痛いほどの刺激が喉と舌に走って、思わずむせてしまう。
「ああ、すまん……ちょっと濃すぎたな。注ぎなおすよ」
「……いや、これで良い」
俺の隣にいた女性が、良く喋る奴だった。手の指は派手な宝石でガチャガチャ飾ってる。ここまで見た目通りな奴っていうのも、珍しいんじゃないだろうか。
「ディビーくん、あんたのおかげで、うちが繁盛してきてるわ。ほんまに、ありがとう」
「いや、俺は何もしてないっすから!アイビーさんが綺麗だから、ファンが多いんですよ」
「よう言うわ、あんた……。女の子はええんやけど、若い男の子が足りひんのよ。せやから、この店で紹介してくれると、助かるわあ」
「へえ、男の方が少ないんですか?それはなぜ?」
「女の子は、親や友達から教えられてってパターンも多いし、自分から私の所にくる子もおるねん。でも、男の子は、若いうちはナンパとかで何とかしようとするやろ?せやから、少ないんや。……みんながみんな、肉食って訳ちゃうから、大人しい子は入ってるのもおるけどな。私は、肉食の子たちの力にもなりたいねん。お付き合いって難しいから、一緒に走っていきたい子に向けて……」
女性は、グラスを傾けた。
「……ただのお茶やけど、何かお酒、頼まなあかんか?」
「いや、別にいいっすよ。好きなものを飲んでもらえれば」
「すまんなあ、私は飲めへんのよ」
ここは見た目と違うんだな。結構意外だったから、俺は思わず笑いそうになった。それを誤魔化したくて、またあのキツいカクテルを舐めた。
その時、女性と目が合った。
「あんた……女の子のことで、何か困ってへんか?」
「べ、別に、そんな……」
「さよか。……良い目をしてはるから、モテるんちゃう?」
「そう思うなら、困ってないってことじゃないですか」
「モテる男ほど、悩みも多いものやけどな。……ディビーくん、悪いけど、お茶をお代わり。この子にも注いでえな」
「いや、要らないですよ」
「お代は私持ちや。奢られたって」
「は、はあ……」
女性は、街で紹介所というのをやっているらしい。未婚の男女の情報を持っていて、相応しいカップルをあてがっていく、そんなことを仕事にしていると話した。
「彼女とか、居てはるのん?」
「いないっすよ。俺には荷が重いんで」
「じゃあ、居ったことはあるんやな?」
「まあ……短い間は」
「どうして別れてしもうたん?」
すげえズケズケ聞いてくるな。まるで、今日のメシがどうとか、最近行った旅行先とか、そんな次元で話してきやがる。
「そういう話、初対面でしたくないんで……」
また杯を傾けた。喉が焼けそうになったから、奢ってくれた茶に手を伸ばそうとしたけど、止めた。
「ああ、ごめんなあ。おばちゃん、職業病で、色々聞いてまうねん。悪意はあれへんから、堪忍な」
「いや、謝ってほしい訳じゃないっすけど……」
店主が割って入ってきた。
「ロータス、気にするな。アイビーさんは、惚気話を聞きたいだけだから。乙女なんだよ」
不意打ちに、思わず俺は、噴き出してしまった。
「ディビーくん!そんな話を聞くつもりちゃうわ!人が真剣に話してるのに……!」
「乙女なのは否定しないんすね」
「そらそうやろ!体はなんぼ老いようが、私の魂はいつまでもピチピチの18歳やでぇ」
一瞬にして、場が笑いに包まれていった。
なるほど。この人たちだったら、重い話だって、こんな風に、受け止めてくれるかも……。
「あの……」
2人が振り返った。笑顔が一瞬で消えて、俺をまっすぐ見据えてくる。
「……惚気話じゃないですけど、良いですか」
「ああ、構へんよ。話せる限りでええから」
俺は改めて、茶に口を付けて、ヒリヒリする喉を潤していった。
「……面白い話でもないっすけど……」
「アイビーさんを信じろ、ロータス。どんな話だって拾ってくれるさ」
「せやで。おばちゃんに任せや」
俺はパンジーとの一部始終を話し始めた。
「……なるほどなあ。そらもう、どっちが悪いとかちゃうな。ほんまに、ご縁っちゅうもんや」
「悔しかったんです。……泥にまみれながら、あいつの足元にも及ばないほどしか稼げないのが。プレゼントに、絵具しか渡せないのが……」
茶のグラスを持った手に、力が入った。
「まず、ロータスくん。あんた、自分を責めんでいてほしい。……まあ、そう言うても、今は厳しいかもしれへんけど。せっかくのチャンスを掴もうと、頑張ってただけやから。……でも、学びもあったはずや」
「……世間は、弱肉強食ってことですか」
アイビーと店主は、目を見開いて俺を見た。
「ちゃうちゃう!ああ、びっくりした。あんた、真面目すぎるんやな。……女の子のタイプの話や。リアリストすぎる子は避けて、心をしっかり見てくれる子やな。そういう女の子と仲良うしたらええで。私の情報にそういう子は仰山おるから、安心したって」
店主も言った。
「そのライバルの男が、稼ぎすぎてるって可能性もあるからな。ハイスペってやつだ。ハタチかそこらで、そこまで行ってるやつは、誰も敵わねえって」
「まあ、そうかもですね」
なんて言うか、予想通りの助言ばかりだった。同じようなことは、散々彼女からも言われたし、あの手紙にも書いてあったっけな。
俺は再びカクテルを煽って、言った。
「……でも、金があるやつの方がモテますよね」
「……まあ、それは事実やな」
「じゃあ、やっぱり、もっと頑張らないと……」
俺は杯を干した。
ズン、とまた空気が重くなった。いや、重くしたかった。
「……どんな子がいるんですか。機会があれば、会うだけ会ってみますよ」
アイビーの顔が少し緩んだ。
「……任せとき。良い経験にさせたる。後悔はさせへんから……」
良い経験、か。
濁した言い方が気になったけれど、彼女の顔もあると思って、そして微かなチャンスも感じて、俺は連絡先を彼女に教えた。
そして店を後にした。
紹介された女の子と、喫茶店で話した後には、事務所兼自宅まで来てほしいとアイビーから言われていたので、俺は、そこに向かった。
事務所の外見は年季は入っていたけど、普通の家だった。
入り口のドアをノックすると、アイビーより少し若い女性が出てきて、応接間に通された。他の相談者との会話をしているらしかった。
「最近、急にご相談が増えまして……スタッフの増員も考えていますが。すみません」
「ああ、構わないですよ」
俺は出されたハーブティーを啜りながら言った。熱々で火傷しそうになったけれど、香りは控えめで、嫌な感じがせず、上品な印象を与える一杯だった。
しばらく待っていると、声を掛けられ、俺は奥の部屋に向かった。
「ロータスくん、待たせて申し訳ないな」
「いや、予定空けてるんで、大丈夫です」
「ほんなら、良かったわ。……あんた、アリスちゃんと会うて来たんやろ?」
「ああ、そうですね。確かに、結構綺麗な子で。1、2時間くらい話してました」
「別嬪さんやろ。……どんなことを話したん?」
「他愛のない話ですよ。彼女は仕事していないようだから、普段やってる家の手伝いとか、俺の仕事のこととか、生い立ちとかです」
「まあ、ベタなお喋りってところやんな?……どんな雰囲気やったん?」
「うーん……そんなに盛り上がるって感じはなかったですけど、かといって、気まずくてお互い黙り込むってこともなかったですかね」
気の抜けた答えで、呆れられるかな、と思っていたが、彼女の反応は悪くなかった。
「そらええこっちゃ。……あのな、地味に会話が続くってところが、ミソや。喋られへんのはもちろんあかんけど、あまり盛り上がりすぎるのも考えものなんよ」
「どういう意味です?」
「場が沸く相手っていうのは、それが当たり前になってまうと、普通の会話がでけへんようになるねん。……恋愛相手ならそれでもええけど、例えば夫婦とかを目指すなら、『地味に続く』相手の方が向いとる」
分かったような、分からないような。
「そうやな……私が良く喩えるんやけど、毎日の食事を考えてほしいねん。朝昼晩、1か月の間、全部高級ステーキが出るとするやろ。ロータスくんは受け入れるか?」
そりゃすげえ。
そういえば、ちょっと腹が減ってるんだよな。店で食うと高いから、安い肉でも買って、今晩は自分で焼いてみるか。
……それだったら毎日行けそうだけど、「高級」が続くってなると……。
「……まあ、最初は構わないですけど……きつくなる時もあるでしょうね。飽きるでしょうし」
「せやろ。じゃあ、3食、煮物やパンやったらどうや?」
「うーん……ちょっと物足りないかもですけど、何とかなると思います。……普通の献立っすね」
「そう。その普通って感覚を大切にしてほしいねん。案外、そういうメニューって限られると思えへん?」
「……安い肉のステーキとかですかね。他は、パッとはあんまり思いつかないです」
「人も一緒や。地味に続く相手っちゅうのは、大切にしたほうがええと思う」
地味に続く相手。
そういえば、アリスと話すとき、俺は何の気の構えもなかったな。
金のことで断られるのは慣れっこだったから、そんなもんだと思って話したけど、彼女はそこを気にしていただろうか。
心をしっかり見てくれる子っていうのは、ひょっとすると……。
「……まあ、身を固める気がないなら、もっと探してもええけどな。まだ若いし」
あえて、選択肢を持たされた気分だった。
「……あ、そういえば。ちょっと気になったこともあるんですけど、良いですか」
「なんや?」
「彼女、全寮制の学校に居たんですよね。めっちゃ厳しかったみたいで。……その時のこと、覚えてないって言ってたんですけど、そんなもんなんですかね。俺は学校行ってないから、分からなくて」
アイビーの顔が、一瞬変わった気がした。
「せやねん。だから、ちょっと恋愛に疎いというか、そういう所を感じるやろ。……そんな純粋さが、あの子のええとこやって、私は思うけどな。……学校、行ってへんのか」
ん?会話になってるか?一瞬そう思ったが、俺は質問に答えた。
「あ、はい。子どもの頃から働いてたから」
「大したもんや!そんなところを、甲斐性として見せたら、どんな女の子でも惚れるはずやで」
両手を握られて、ブンブンと振られる。何だ、このテンション……?わざとらしいなって思ってしまった。
「……ロータスくんとしては、また彼女に会いたいんか?」
「あ、そうですね。今度は、食事にでも。……」
良い印象を持った、ということでアリスには取り次いでくれるそうなので、向こうも前向きなら、楽しみにしておくか。でも、待ち遠しいとまでは行かなかったので、もうちょっとこう、ドキドキしないものかね、と思ったけれど。
彼女はどういう過去があるのだろう。どんな学校だったんだ。どうして忘れるんだ。
……あれ?俺の質問、はぐらかされたか?
帰り道にそんなことを思い、一本取られた気分だった。
恋をすると、仕事に手が付かなくなるとよく言われる。
恋煩い。
10代の頃、俺と同じように丁稚をしていた奴らの中には、そんな感じで、仕事を放りだすのが結構いた。
そんな気持ちが、分からない訳じゃなかったし、俺も似たようなものは経た。声変りが終わって、髭が少しずつ生えてきたあの頃、俺はありとあらゆるものに飢えていて、力が有り余っている感じがした。飯はいくらでも食えたし、女のことは何時間でも考えられた。大人たちに力は敵わなかったけれど、あいつ等よりデキる奴になるぜ!って、皆で意気込んでいた。
そんな中で、誰かに惚れて、それが片想いだと悟ると、その情熱が行き場を失ってしまうのだろう。
16歳の頃、彼女に惚れたあの時は、仕事をほっぽり出すまでは行かないが、あいつの笑顔が、心に勝手に浮かんできて、自然と手が止まりがちだったように思う。
今はどうだろうか。
俺はきわめていつも通りだった。普段通りの段取りで仕事を進め、自分で用意した弁当を昼に食って、日が沈むまで働く。
アリスに好意があるのは間違いないし、もう一度会えたら、きっと会話が弾むだろうとも思っている。でも、あいつの顔がずっと心にある、なんてことにはならない。かといって、関係が切れるような気もしない。
……俺も老いたのかな。
そんなことをぼんやり思っている中で、俺はアザミと一緒に、ある作業を割り当てられた。初めて経験する作業だったので、俺は親方に頭を下げて、段取りを教えてもらおうとした。
その時だった。
「ロータスさん、俺、この作業、分かりますよ」
とても信じられなかったが、あいつは慣れた手つきで、その作業を進めていった。呆然としてしまった俺は、アザミの言われるがまま、工具を指示通り動かすことしかできなかった。
「……ロータスさんが仰ったことですよ。先輩の技術を盗めって」
その古傷だらけの顔は、まさしく男の顔だと思い、俺は微かに身震いしていた。




