第11話:百花誰が為に開く
アコウから助け出された後も、しばらく彼の囁きは、私を呪うように頭にこびりついていた。
(君は所詮、人形なんだよ)
(君の心はへレーネが作った、出来損ないだ)
違う、違う!
反論したかったのだけど、今でもあの時嗅いでいた香水の匂いがふと蘇る時があり、そうなったらまたあの、息苦しさと、心地よさがぶり返してしまう。
ロータスさん……ある日を境に、呼び捨てになったのだけれど、彼は本当に良くしてくれる。ありのままの私を見つめ、演出しすぎていないデートを提案し、私の服の好みを尊重する。この前、薄い桃色のワンピースをくれたのだけど、本当に嬉しかった。彼には、なんとなく欲しいってさらっと言ったのだけど、それを覚えていてくれたから。
……けれど、こんな気持ちも、『設定』なのかな。
あの子が用いたという、あの物語を読む。……ああ、主人公もまた、街に出た時に灰色の服から明るい色に着替え、美味しいものを家族や友人と食べている。その物語は、王子様のような素敵な男性と結ばれて、それで終わっていた。……うん、ロータスさんは王子様っていうほど派手じゃないけど……それは、どちらかと言えば……。
これ以上考えちゃダメだな。ロータスさんに失礼だ。私は本を閉じた。
家族やあの子との会話も、なんとなくぎこちなくなった。……自然体でいなきゃ、って思うのだけど、そんな決意が上滑りしてしまう感じ。
先生は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。専門家失格だ、とまで言っていて、なんと土下座までしようとしていた。私と両親は必死でそれを止めた。
……あと、私は誰かを殺したのだろうか。
あの映像や『先輩』がやっていたように、私は、炎が吹き出せるのか、河原で試したことがある。
……震える手で念じたけれど、特に何も起こらなかった。
「それは……お姉ちゃんが『人形』じゃなくなった証拠。……マザーが悪いのだから、責任を感じることは……」
あの子の言葉に、私は、ふうん。とだけ答えておいた。
ロータスさんに絵を描かないか誘われた。なんで絵なの?って思ったけれど、彼がどうしてもというからお付き合いすることにした。
彼はなんでもない、小さな花を描いていた。ほぼ新品の、立派な絵具のセットを手に彼は筆を走らせる。
「何を描いているの?」
「……コチョウスミレって花だよ。綺麗だなって思ってさ。アリスも何か描けよ」
そう言われたので、私はあたりを見回して、何かを描こうと思った。
目についたのは、何輪かのラベンダーだった。
なんだか懐かしいな、と思った。
私は紫色の絵具を手に、ラベンダーを描き始めた。
「結構、うまいじゃないか」
ロータスさんにそう言われて、えへへ、と私は笑った。
絵を描き終えた後に、ダイナーで食事を摂っていた、その時だった。
急にお腹が張って、吐き気が込み上げてきた。
「っ……」
私はお手洗いにかけ込んだ。
戻ってきた私を見て、彼は言った。
「お、おい、アリス!……大丈夫か?」
「う、うん。……大丈夫よ」
急にどうしたのだろう。
これ以上は食べられなかったから、早めに帰ることにした。
不調は何日か続いた。お腹の風邪かと思っていたけど、熱も出ず、下しもしなかったので他に何かあると思った。
……まさか。
男性と親しくなると、こういうことが起こると聞いたことがある。
温かい気持ちと、ゾクっとする悪寒が同時に走り、私は、アイビーさんの元を訪れた。
「さよか……ホンマにそうやったらおめでたいけど、一度診てもらった方がええな。ご両親も巻き込んでな」
「……言うのが、ちょっと怖いんですけど……」
「気持ちはわかるで。……せやけど、もし新しい命やったら、もう2人だけの問題やなくなるからな。早めに話しとき」
その日の晩、両親に相談すると、意外と2人とも、冷静な様子で、医者に行くように提案してくれた。
次の日、医者に一緒に行って、1週間ほどで結果がわかるとのことだった。
それまでは、吐き気が続いていたけれど、ご飯は頑張ってたくさん食べることにした。両親は心配していたけど、もう、私だけの体じゃないんだって思うと、止められなかった。
結果が出た。
お腹の子は、いないらしかった。たまに、こういうことが起こってしまうらしい。
両親もロータスさんも、落ち込まないように励ましてくれた。
……でも、私はそれ以上に、自分に驚いていた。
「生きなきゃ!」
そう思って、必死で何かを食べようとしていた日々に対して。
あの小説を読み直した。……やはり物語は、男性と結ばれて終わりで、それ以上のことは何も書いていなかった。
ああ、ここから先は、自分で作って良いんだな。
そう悟った瞬間、涙が溢れ出た。
「え……」
そうだ。私の、物語はまだまだ終わっていない。これからも、大変なことがあるだろうけれど。きっと、大丈夫。あの地獄を超えてきたんだ。
その時、窓から、大きなアゲハチョウが入り込んできた。
チョウはしばらく迷い込んでいたので、捕まえて外へ出そうかと思ったけれど、見守ることにした。
しばらくうろうろと部屋を飛んだあと、ふと思い出したように、広い広い外へ羽ばたいていった。




