第9話 好感度0の壁
シルヴァーノ城に滞在を始めて、一ヶ月が経とうとしていた。
リゼットの好感度は——【-10】。
猫作戦で-50から-30まで改善し、その後も地道な積み重ねで少しずつ上げてきた。
何をしたかと言えば、大したことはしていない。
朝、東の庭園でミスティとぶち猫(リゼットが後日そっと「ショコラ」と名付けた)に餌をやる日課を続けた。リゼットが散歩で通りかかっても、こちらから話しかけない。話しかけてきたらだけ応じる。
その距離感が功を奏したのか、リゼットの方から言葉をかけてくる頻度が少しずつ増えた。
「……ショコラが太った気がしますが、あなたが餌をやりすぎているのでは」
「ミスティが庭の花壇を荒らしています。しつけてください」
「……今日は、来なかったのですね。猫が」
最後のやつは、雨の日に俺が庭に出なかった翌日のセリフだ。台詞だけ聞くと猫の心配をしているようだが、微妙に俺の不在に触れている——気がする。考えすぎか。
それから、フィーネの仲介も大きかった。
フィーネは毎朝俺に剣の素振りを教えてくれるのだが、時々リゼットが訓練場の窓から覗いていることがあった。護衛騎士見習いの訓練状況の確認だとは思うが、そのときの好感度が微かに変動する。
俺がフィーネに投げ飛ばされた時:【-10】→【-9】(1上がった。……笑ったのか?)
俺が珍しく良い素振りをした時:【-9】→【-10】(下がった。なぜ?)
俺がフィーネに「ありがとう」と言った時:【-10】→【-12】(さらに下がった。何だよ!)
……この好感度の動き方が、理解できない。
俺が惨めだと微かに上がり、俺がまともだと下がり、俺がフィーネに親しくすると下がる。
まるで法則性がない——いや、待て。
一つだけ、仮説が立つ。
「……もしかして、嫉妬?」
いや、ありえない。リゼットが俺に嫉妬する理由がない。好感度はまだ【-10】。明確にマイナスだ。嫌いな相手に嫉妬なんてするはずが——
——するか?
人間の感情はそんなに単純じゃない。前世でもそうだった。嫌いなはずの上司の評価が気になり、どうでもいいはずの同僚の昇進に嫉妬した。「嫌い」と「無関心」は違う。嫌いだからこそ、意識してしまう。
もしリゼットの好感度の「マイナス」が、単純な「嫌い」ではなく——
いや。
考えすぎだ。今はまだ、データが足りない。
——ともかく、好感度は【-10】。
ここで停滞している。
この数日間、何をしても-8と-12の間を行ったり来たりするだけで、-5を突破できない。
まるで見えない壁があるようだ。
フィーネに相談してみた(好感度のことは伏せて)。
「ねぇフィーネ、リゼット様って——なんていうか、どうすれば打ち解けてくれるのかな」
「あー、それ聞く?」
フィーネは訓練場のベンチで水を飲みながら、苦笑した。
「リゼット様ってさ、あたしにも壁あるんだよね。護衛騎士見習いとして信頼はしてくれてると思うけど、個人的に心を開いてるかって言うと——正直、微妙」
「フィーネにも?」
「うん。リゼット様は、お父上——先代の公爵様が亡くなってから、誰にも心を開かなくなったの。味方だと思ってた家臣が裏切ったり、仲が良かった貴族の令嬢が領地目当てだったことがわかったり。……そういう経験を重ねて、全員に壁を作るようになった」
フィーネの好感度が、珍しく微かに下がった。【+62】→【+60】。リゼットのことを話すと、少し切なくなるのだろう。
「あの人は——誰かを信じたいんだと思うよ。でも、信じて裏切られるのが怖い。だから、最初から距離を取る。そうすれば傷つかないから」
「…………」
わかる気がした。
好感度0の壁——それが、今の俺の前に立ちはだかっている。
好感度が-10付近で停滞しているのは、リゼットが0以上——つまり「個人的な感情」の領域に踏み込ませないからだ。
リゼットはそれを許さない。
利害で動く範囲なら、相手の行動を予測できる。だが個人的な感情が絡むと——裏切りの痛みが大きくなる。
だから好感度を0の手前で止めている。これ以上は近づけない。それが彼女の防衛ラインだ。
つまり、ここを超えるには——「利害」ではなく「感情」で彼女に触れなければならない。
猫作戦も、社交の建前も、計算された行動では0の壁は超えられない。
「……計算じゃ、動かせないのか」
「え? 何?」
「いや、独り言。——ありがとう、フィーネ。助かった」
「お礼言うの好きだねぇ。まあ、頑張れ。リゼット様のこと、悪い人だと思わないでね」
フィーネの好感度、【+60】→【+63】。
「——悪い人だとは、思ってないよ」
本心だった。
リゼットのことを嫌いだと思ったことは、最初から一度もない。
怖い。読めない。理解できない。だが——嫌いじゃない。
自室に戻って、天井を見つめた。
好感度0の壁。
計算で超えられないなら——どうする?
答えは、わかっている。
前世で、俺が一番苦手だったことだ。
「自分の本音を見せる」こと。
計算ではなく、素の自分で相手に向き合うこと。
好感度が見えるようになって、俺は数字を上げることに夢中になっていた。だがリゼットの壁は、「好感度を上げようとする行為」そのものを見抜いて、跳ね返す。
彼女が求めているのは——たぶん——
「……計算じゃない、何か」
何ができるか、まだわからない。
だが、一つだけ確かなことがある。
好感度【-10】。
ここから先は——数字を見ているだけじゃ、進めない。




