第8話 フィーネという名の安全地帯
猫作戦から数日後。シルヴァーノ城での滞在も二週間が過ぎた頃、一人の少女と出会った。
「あんたがアシュフォードのレン?」
城の訓練場の脇を歩いていた俺に、後ろから声がかかった。
振り返ると、赤毛のショートヘアの少女が、木剣を肩に担いで立っていた。騎士見習いらしい軽装鎧の上に、汗が光っている。鼻の頭にそばかすがあり、笑うと目が三日月のように細くなる。
——そして、頭上の数字。
【+55】
思わず二度見した。
プラス55。
初対面で、+55。
え? 何? 俺、この人に何かした? 前世で助けた人の転生とか?
「あたし、フィーネ・ロートシルト。騎士団長ハインリヒの娘。リゼット様の護衛騎士見習い。よろしくね」
「あ、はい、レン・アシュフォードです。よろしく……お願いします」
「敬語いいよ敬語。同い年でしょ? 堅いの苦手なんだよね」
フィーネはからからと笑った。嘘のない、まっすぐな笑顔だ。
好感度を再確認する。【+55】。微動だにしない。
「あの……その、どこかで会ったことありましたっけ?」
「ないよ? でもリゼット様の城に滞在してる子爵家の次男がいるって聞いて、ちょっと気になっててさ」
「気になる……?」
「うん。だってこの城に自分から滞在したいって言ってくる貴族、珍しいんだもん。大抵の貴族はリゼット様のこと怖がるか、領地が欲しくて近づくかのどっちかだし。あんたは——どっちでもなさそうじゃん?」
フィーネの琥珀色の目が、まっすぐ俺を見ている。
——この子、初対面の相手をこんなに真っ直ぐ見れるのか。
「えっと、俺は……社交の勉強のためで——」
「あはは、嘘つくの下手だねぇ。まあいいけど。悪い人じゃなさそうだし」
好感度、【+55】→【+57】。
上がった。俺が嘘をついたのを見抜いた上で、好感度が上がっている。
……なんだこの人。
今まで出会ったすべての人間の中で、最も「わかりやすい」好感度の持ち主だ。
態度と数字が——完全に一致している。
笑っているときは好感度が上がり、怒っているときは下がり、楽しそうなときは安定する。裏表がない。数字が「そのまま」彼女の心を映している。
リゼットの好感度が暴風雨だとしたら、フィーネの好感度は穏やかな晴天だ。
「ねえねえ、レンってさ、剣は使えるの?」
「……正直、あんまり」
「魔法は?」
「もっとダメです」
「あはは! 正直でいいじゃん。じゃあ今度あたしが教えてあげるよ。護衛騎士見習いだからね、教えるのも仕事のうち」
「え、いいんですか?」
「だから敬語やめてって。——いいよ。暇な時間多いしさ。リゼット様、護衛いらないって言って一人で行動しちゃうから、こっちは手持ち無沙汰なんだよね」
フィーネの好感度、【+57】→【+60】。
……上がった。普通に会話しているだけで。
これは——なんというか——
安心する。
マルタさんの好感度を-30から+10に持っていくのに二週間かかった。リゼットの好感度を-50から-30に動かすのに猫を五日間使った。
なのに、フィーネは初対面で+55。しかも特に何もしなくても+60に上がる。
この安定感。この居心地の良さ。
前世でこういう人がいたら、俺はあんなに消耗しなくて済んだんだろうな——
「レンー? 聞いてる?」
「あ、ごめん。何?」
「明日の朝、訓練場来なよ。基礎の素振りから教えるから。体弱いんでしょ? 鍛えないとダメだよ」
「えっ、体弱いの知ってるの?」
「城の使用人さんたちから聞いた。膝すりむいただけで血が止まらなかったんでしょ? それってヤバくない?」
——めちゃくちゃ知られている。使用人ネットワーク恐るべし。
「まあ……うん、だいぶマシにはなったんだけど」
「じゃあ決まり! 朝日が昇ったら訓練場ね!」
拒否権がない。
だが——不思議と嫌じゃなかった。
「うん。……ありがとう、フィーネ」
「んー? なんでお礼?」
「いや……なんとなく」
フィーネは首をかしげたが、すぐに「変なやつ」と笑って走っていった。
好感度、【+60】→【+62】。
その背中を見送りながら、俺はしみじみと思った。
——こういう人ばかりなら、いいのに。
フィーネの好感度は読みやすい。態度がそのまま数字に反映される。嘘がない。裏がない。
それに比べて——リゼットは。
表情は氷のまま、数字だけが乱高下する。冷たく突き放す態度の裏で、好感度が微かに上がっている時がある。何が本当で何が建前なのかが、数字を見てもわからない。
同じ《心鏡の瞳》で見ているのに、フィーネとリゼットでは好感度の「質」がまるで違う。
フィーネは——安全地帯だ。
彼女の近くにいるとHPが安定する。好感度+62は俺の生命線の一部であり、精神的な安定剤でもある。
だが、俺がこの城に来た目的はフィーネではない。
リゼットの好感度【-30】を、さらに上げなければならない。
夕方。
リゼットと廊下ですれ違った。
「…………」
彼女は一瞥すらくれず、足早に通り過ぎた。
頭上の数字——【-30】。変わらず。
猫作戦の効果はあったが、猫がいない場面では好感度は動かない。俺個人への評価は、まだ何もスタートしていないということだ。
リゼットの背中を見送る。
白と紺の服に包まれた、華奢な背中。十六歳にしてこの城のすべてを背負っている背中。
——フィーネとは違う。
フィーネの好感度は読みやすく、安心できる。
リゼットの好感度は読めなくて、怖い。
でも——
「……なんでだろうな」
気になるのは、リゼットの方なんだよな。
自分でもよくわからない感覚を抱えたまま、俺は客室に戻った。
ベッドに倒れ込む。
天井を見上げて、今日の好感度帳簿を整理する。
リゼット:-30(変動なし)
フィーネ:+62(新規。安定)
使用人合計:+68(安定)
社交会組:+65(安定)
HP上限は、フィーネが加わったことで大幅に改善した。基礎HP100に好感度合計を加えて、概算で265前後。普通に生活する分には十分なレベルだ。
「フィーネ、ありがとう……」
会ったその日に+55をくれた少女。
お礼を言うのは二度目だが——彼女の存在がどれだけ俺を救っているか、本人は知らない。
でも。
安心できるからといって、安全地帯に留まるわけにはいかない。
だって——リゼットの好感度は、まだ【-30】なのだから。
明日も、猫に会いに行こう。




