第7話 猫作戦、発動
早朝。
東の庭園には、朝露が白く光っていた。
石畳の小道の両脇に咲く白い花——アシュフォード邸のルドルフ爺さんに教わったところによると、これは「月華花」というらしい——が、朝靄の中で幻想的な光景を作り出している。
俺は庭のベンチに座り、ポケットから干し肉のかけらを取り出した。厨房のコック長に「庭の猫に」と頼んで分けてもらったものだ。
猫作戦、一日目。
方針はシンプルだ。猫に餌をやって仲良くなる。リゼットには一切話しかけない。ただここにいるだけ。偶然を装って猫と触れ合い、「俺は猫好きの人畜無害な人間ですよ」という印象を遠回しに植えつける。
——計算高い? そうだ。だが好感度-50の相手に正面から突っ込んでも砕け散るだけだと、社交会で学んだ。
干し肉のかけらを地面に置いて数分。
茂みがガサッと揺れて、一匹の猫が顔を出した。
白と茶色のぶち猫。小さめの体に、大きな丸い目。恐る恐る干し肉に近づき、ふんふんと匂いを嗅いでから——パクッと咥えて猛ダッシュで逃げていった。
「あ、待って……」
行ってしまった。
まあ、一日目はこんなものだろう。猫だって警戒する。人間の好感度と同じで、信頼は時間がかかる。
二日目。
同じ時間、同じ場所に座った。
昨日のぶち猫が、今日は茂みの奥からこちらを見ている。干し肉を置くと、おそるおそる近づいてきた。今日は咥えて逃げなかった。その場に座って食べている。
俺は手を出さず、ただ見守った。
三日目。
ぶち猫が二匹に増えた。もう一匹は灰色のキジトラだ。二匹とも俺の足元で干し肉を食べるようになった。
キジトラの方がそっと俺の膝に前足を乗せた。
「おお……」
温かい。柔らかい。
恐る恐る背中を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
——これだよこれ。前世で猫カフェに行けなかった俺の、積年の夢が今叶っている。
……いや、目的を見失うな。猫作戦の主目的は猫の癒しではなく、リゼットの——
その時だった。
石畳の小道の奥から、静かな足音が聞こえた。
振り返ると——いや、振り返らなかった。
振り返ったら「待ち構えていた」ように見える。俺は猫を撫でながら、自然体を装った。
足音が近づき——止まった。
横目で確認する。
リゼット・フォン・シルヴァーノが、小道の途中で立ち止まっていた。
早朝の散歩姿。公式の場とは違い、髪を下ろし、シンプルな薄紫のワンピースを着ている。仮面のない——いや、仮面は被っているが、少しだけ薄い状態。
彼女の視線は、俺の膝の上の猫に釘付けだった。
頭上の数字——【-50】。変わっていない。
だが。
彼女の目が——ほんの一瞬だけ——わずかに見開かれたのを、俺は見逃さなかった。
猫を見ている。
正確には、猫がゴロゴロ言いながら撫でられている光景を見ている。
——よし。
俺はあえて何も言わず、猫を撫で続けた。キジトラが気持ちよさそうに目を細め、ぶち猫が俺のもう片方の手にすり寄ってくる。
リゼットは数秒間、その光景を見つめていた。
そして——何も言わず、歩き去った。
去り際の好感度をチェックする。
【-50】→【-48】
——動いた。
たった2ポイント。だがリゼットの好感度が初めて上方向に動いた。
猫は偉大だ。猫が世界を救う。
四日目。
今日もベンチに座って猫を撫でていると、リゼットが散歩でやってきた。
昨日と同じように、彼女は小道の途中で足を止め、猫たちを見つめている。
今日は——少しだけ、立ち止まっている時間が長い。
俺は思い切って、ぶち猫を持ち上げた。ぶち猫は「にゃあん」と間の抜けた声を出す。
リゼットの肩が微かに震えた。
——今の、笑いを堪えたのか? それとも猫の声に反応しただけ?
好感度チェック。
【-48】→【-45】
3ポイント上昇。確実に猫効果だ。
五日目。
リゼットが、ベンチから五歩の距離まで近づいてきた。
前の日までは十歩以上離れていたのに。
俺が膝の上でくつろぐキジトラを撫でていると、リゼットが口を開いた。
「……その猫は、何という名前なのですか」
初めてリゼットから話しかけられた。声のトーンは平坦で、表情は無。だが——彼女から会話を始めた事実は、大きい。
「名前は……特に。野良猫なので」
「そうですか」
沈黙。
あー、ここで何か気の利いたことを言うべきなんだろうが——
「あの、もしよければ名前をつけてもらえませんか。俺、ネーミングセンスが壊滅的なので」
我ながらなんという投げやりな振り方だ。だが——
リゼットの視線が、キジトラの上で止まった。
「……ミスティ」
「ミスティ?」
「朝靄の中にいたから。……それだけです。別に、私が名付けたわけではありません」
「いえ、いい名前だと思います。ミスティ」
キジトラ——ミスティが「にゃあ」と鳴いた。タイミングが完璧すぎる。
リゼットの右耳が、ほんのわずかに赤くなった。
——え? 今の、照れた?
好感度チェック。
【-45】→【-30】
一気に15ポイント上昇!
猫に名前をつけるだけで15! マルタさんのジャガイモ一時間分を猫一匹で超えた!
だが——
「では」
リゼットはそれだけ言って、くるりと背を向け、足早に去っていった。
その歩幅がいつもより広いのは、逃げているのか——それとも。
好感度の推移を振り返る。
初対面:-50
猫作戦1日目:-50(効果なし)
猫作戦2日目:-50→-48(微動)
猫作戦3日目:-48→-45
猫作戦4日目:-45→-30(大幅上昇)
五日間で、-50から-30。20ポイントの改善。
まだマイナスだ。だが——方向は、確実に正しい。
ミスティが俺の膝の上でゴロゴロ言っている。
俺はその柔らかい体を撫でながら、小さく笑った。
「ミスティ、お前は功労者だよ。……ぶち猫の方にも名前をつけないとな」
にゃあ、と返事があった。
空を見上げる。朝靄が晴れて、シルヴァーノの空は青く澄み渡っていた。
好感度、【-30】。
顔は変わらないのに、数字だけが上がった。
——彼女は、何を考えているんだろう。
その疑問が、このときの俺にはまだ、純粋な「生存のための分析」でしかなかった。
それが変わるのは——もう少し、先の話だ。




